其の七
すんません……!1万字くらいになっちゃいました!わかりやすく言えば、文庫本の1割程度です。
また約束破っちまった。……10分遅れたらあーだこーだ言う日本文化辞めない?世界にあわせよ?
7
「何で裸なの……?」
詠子は裸身を起こし、動揺を隠せないでいた。
昨晩の事は記憶が曖昧だ。相当酒を呑んだらしい、頭痛もする。酒を飲むと寝相が悪くなるのだろうか。確かに、夏場はかなり薄着になる。その癖が睡眠中にも発動されるとは思わなかった。
太陽は高い位置にある。もしも今日に予定を入れていたら、大変なことになっていたに違いない。
布団から出るととても全裸でいられるような室温ではなかったため、早々にスウェットを着込む。
初めて経験する∣宿酔に悶えながらも、畳まれてある服を椅子の上に置き、下着を洗濯籠に放った。
「……畳まれてる?」
普段なら服は玄関に脱ぎ捨てる筈だ。トップスはともかく、レギンスは一週間履くために玄関が定位置と決まっているし、部屋ではパジャマだ。
酔いとはここまでタカが外れるものだろうか。何か変だなと部屋を見回すと、描こうと、イーゼルにセットしておいた新品のャンバスに文が綴られていた。
眼鏡を掛けてキャンバスの達筆な文字を読む。
【昨夜はお世話になりました。ご厚意に感謝致します。これはお礼です、受け取ってください。今晩も参上仕ります】
詠子は五回読み返した。机には二万円が置いてある。
とりあえず、置手紙を記した犯人は自分ではなかろう。筆跡がまるで別人だし、それよりも絵を描く紙に、字は書かない。
考えるなとでも言いたげな頭痛に耐えながら、記憶の空白を埋めにかかる。
キーワードは、『裸の私』『ご厚意』『お金』。
「……いやいや、まさかね」
しかしながら、ソレ以外の結論が導き出せない。
「……」
股関に違和感はないけれど、未経験の詠子には事後がどのような感覚なのか分からない。
「いくら酔ったからって、招き入れるなんて」
俄には信じられない。酒が入ると尻軽女に豹変してしまうなんて。
布団の匂いを嗅ぐが、特に臭みはない。だからといって無実潔白が証明される訳でもないのだけれど。
お腹を擦っていると、最悪の∣蓋然性が頭をよぎる。
「赤、ちゃ……いやいやいやいや」
置手紙にはまた今晩来ると記載されているし、そうと決まった訳ではない。
―待て、全てはそう思わせるだけのフェイクかもしれない。来ると書いておきながら逃亡されるケースだってあり得る。となれば、犯人の行方は迷宮入りと化す。
ああ、このままお腹が膨れていったらどうしよう。想像すればする程怖くなってきてしまう。誰かも分からない人の子を、育てなくてはならないのだ。出産となれば大学の中退は余儀なくされるだろうし、就職できるかも甚だしい。もしアレだったら、可哀想だけれども絶対堕ろしてやると誓った。一日に何億と生産される種と、毎月排出される卵だ。罪はなかろうと割り切る。
詠子はノイローゼを発症しそうになり、産婦人科に駆け込みたい衝動に駆られた。布団が臭わなかったとはいえ、布団以外で行為をしたかもしれない。シャワー室だとしたら証拠は残っていないだろう。
その場にいたたまれなくなった詠子は、手鏡片手にトイレに入る。考え抜いた結果、直接目で確認したほうが早い。
格安スマートフォンで画像を検索し、比較しようとしたのだ。自分の局部をまじまじと見つめていい気はしない。
……五分後
全ては考え過ぎだと気付き、詠子は盛大に溜息をついた。フーダニットの目星が付かない以上、更なる推理をしなくたって進展はないだろう。
そういえば昨晩からシャワーを浴びていないなと思い出し、軽く汗を流した。
∣顳顬を抑えながら食事の準備を始める。
この頭痛は宿酔いだけが原因ではないだろう。置手紙の犯人が本当に訪問してきたら、どうすればいいのか。意識不明瞭な昨晩だって襲われなかったのだから、訪ねられても押し入れられるまではないと思うが、それはただの希望的観測にすぎない。
果たしてあの研ぎ澄まされた行書体を若年者が書くだろうか。月毎に届く祖母の葉書きによく似ている。
ひょっとして、昨晩泊めてやった人間は老人なのかもしれない。
いくら∣元気な老人だったあとしても、筆を携帯したりはしない。たまたま書道のレッスン後だったという可能性はないとしても、疑問は積もるばかりだ。そもそも良識のある人間であれば、キャンバスに落書きはしない。
いくら考えても埒が明かないので、気分転換にも詠子は建付けの悪い窓を開けた。
鍋に水を並々注いで火をかけ、キッチンの棚から予め半分に折っておいた水パスタを取り出した。
スパゲッティを予め水に浸すことで、茹で時間が減るのだ。結果、ガス代が浮く。
一見コストパフォーマンスが悪く思われがちのパスタだが、ネット通販を利用すれば一食あたり30円で済む。電気ケトルを併用して煮沸時間の削減にも成功した。
それに、パン、米、パスタの三大炭水化物ではパスタが最もカロリーが高いのだ。
鍋をバスルームに持っていき、お湯を注ぐ。
朝昼夕と水を沸騰させていたらガス代の上限が知れないので、朝に昼の分まで摂取し、夜に昼の分を補う、そんな食生活を送っている。紡美が心配するのも頷ける。
休日は遅く起きることで食費を軽くしている。
詠子の節約術は食費に限らない。冷暖房の使用禁止はもちろん、スーパーは閉店ギリギリに入店することを心掛け、シャワーは1分以内に済ませている。
ショートヘアーにしている理由が、まさか光熱費の節約のためなんて口外できる筈が無い。無論、散髪は自前だ。
沸騰した湯を、飲む用にマグカップ一杯掬い、鍋に塩とスパゲッティを投入する。
テーブルに置いてあった飲みかけの2リットル入り野菜ジュースを飲み干し、棚から新たなペットボトルをテーブルにセットする。ビタミン類を全て野菜ジュースで賄っているなんて、祖母には決して打ち明けられない。
詠子は∣生物を買っても即日に食べるので、必然的に冷蔵庫が不必要になる。牛乳や卵などの要冷蔵食品も買わないようにしている。
そんな極限生活を耐える詠子の楽しみといえば、絵を描くことと。
生前の母親は体調が良いとよく写生に出掛けていたので、幼き詠子はよく付いて行ったりした。
母親の真似事をしている内に、詠子もデッサンの魅力に取り憑かれていった。
生まれながらにして、絵は近くにあった。―小中高と、コンテストというコンテストを制覇するとは夢にも思わなかったけれど―。
母親は詠子が小学校に上がる頃に心臓の患いを悪化させ、苦闘の末に他界した。
心拍停止を警告する心電計が鳴り響く中、いつぞやの医療ドラマのように、医者が時間を読み上げ、可憐な母の顔に白い布がかかる。
全ては嘘だと疑った。本当はドラマの撮影で、リアリティを追求する為に、演技の下手な子供を騙していたと。本当は隠しカメラがそこら中に設置してあって、ドッキリ映像を撮っていたのだと。だがいくら待っても監督は現れず、見回しても『ドッキリ大成功』を持ったディレクターは姿を見せようとしない。
詠子は死後硬直が始まった母親に吐き気を催し、そこからの記憶は未だに思い出せないし、思い出したくない。
母親に認められたくて筆を取ったようなものだ。道標がなくなってしまったので、小学二年生の頃に一度道を退いた。
ところが時が経ってもポッカリとあいた胸の虚無は埋まってくれなかった。
毎日毎晩天井を眺め続けているうちに、傷を治す万能薬は時間ではないと知った。時間を忘れるほど何かに没頭しなければ、穴は塞がってくれない。
ショックで家から出ない日も多くなっていた。
ある日の朝、小さな地震が起こった。テレビ速報も伝えないような、ごく微かな振動。
その揺れが、詠子を救った。
一本の鉛筆が、机から落ちるか落ちないかの瀬戸際にたまたま転がっていたのだ。人為的なものではないことは確かだった。
その鉛筆が振動で転がり、詠子の耳を激しく訴えかけた。炭の周りを木で覆っているだけの軽さのはずなのに、ハンマーのような重みがあった。カリカリとハッチングの音がこだまして頭から離れようとしない。ハッチングだけじゃない。枕で頭を覆ってみても、鉛筆の発するあらゆる音は鳴り止まず、やがて聴覚を飛び越え、視覚に侵入した。何日も刺激を受けなかったせいかもしれない。脳が情報を欲しがっていたのか、それとも自責の念が爆発したのか、どちらかは覚えていないが、気付けばベッドから飛び出していたのは確かだ。
ロクな栄養も採っていないのに、詠子は興奮していた。
遠いところへ旅立った尊い母と詠子の哀しみを、ルーズリーフに飛び出さんばかりに体現させた。
徐々に熱がこもり、気付いた頃には絵の具を引っ張り出していた。嗚咽のたびに腕が痙攣するが、知ったことではない。この震えが、悲しみを表しているのだ。
―絵具と涙でぐしょぐしょに濡れた会心の一作は、十四年という歳月が経った今でも、実家の自室の壁に、額付きで飾ってある。
その絵を見るたびに亡き母親を思い出すけれど、もう泣いたりはしない。私は、着実に我が道を歩いているんだと、そう昔の自分に誇れる。死後の世界など信じちゃいないから、天国から詠子を応援してくれてるなんて思わない。だから、シワだらけのボロ絵は、詠子の逃げを赦さない。
爾後、目標なきままに、気の向くままに、時にメッセージを込めて描き続けている。
詠子の感性がたまたま、大衆のストライクゾーンに収まっているだけに過ぎないと、認識している。だから、地元の期待にプレッシャーを感じたり、首席に責任感があったりはないのだ。描きたい絵を描く。それだけだ。
この先、絵だけで食べていけたりはしないとも、身に沁みて理解はしている。国内トップと謳われる美術大学といえども、その道を突き進む者だけが全てじゃない。才能の塊とよいしょされる詠子でさえも、その派閥に属する。
高校生時代までは、己の美学に滅ぶまでの覚悟があったのだけれど、進学してからは日常と家事に忙殺され、正直なところそれどころではない。
絵以外の得意分野といえば、高等学校程度の数学力と、高等学校生徒を教えられる英語力。
数学は美術学を学ぶに当たって、なくてはならない存在だ。算数を好きになってから、中高の数学はベスト10をマークし続けていた。
いつか、留学を目指しているので、英語は詠子の十八番だ。具体的にいえばパリ留学に行きたいので、フランス語も学び始めている。
持っている資格といえばTOEIC1000点弱と、漢字検定準一級だけで、就職に使える資格はない。TOEICだって、卒業する頃には切れる。教員採用試験を受ける気もなく、いつか私塾を開塾しても良いかなとは頭の片隅にあるけれど、漠然としたイメージだけだ。お絵かき教室でもいいし、いっそのことイラストレーターになってもいいかもしれない。
詠子の美術センスが世界に受けるかは未知数だし、このままでは将来行き詰まるのは明確である。
時計の長針が二周した所でライフデザインを辞め、スパゲッティをザルに流し込んだ。
湯切りをし、完成。洗い物を極力出さぬよう努力した答えが、皿には盛り付けない、だった。
ソースにも和えず、プレーンで頂く。
上京したての頃はソースからペペロンチーノをよく作っていたが、次第にオリーブオイルと鷹の爪と大蒜にかかるお金を払う事さえ躊躇うようになり、ややあって白湯とスパゲッティだけというスタンスに辿り着いた。パンやご飯だって、何も付けずに食べるんだから、スパゲッティだろうと同じこと。
それに、スパゲッティ単体でも慣れれば普通に美味しいのだ。
絵が完成した翌日は、ご褒美としてバターをかける。
詠子は重度の吝嗇家で、節約の為ならば多少の精神の犠牲は厭わない性格をしている。贅沢を長いこと断っていれば、心だって荒まなくなる。
手でスパゲッティを掴み、口まで持っていく。これも、洗い物を減らすための術だ。祖母が見たらきっと泣くだろうけれど、パンだって手で掴んで食べるし、インディカ米だって手で食べる。スパゲッティだろうと同じこと。
手早く腹に収め、鍋とザルを洗剤で濯ぐ。流石に、画材を乾かすエリアとは分けている。
この小さな鍋は、一年前に買った新生活応援キットに入っていたものだ。他にもフライパンやら包丁やら御丁寧に同梱されていたものの、無用の長物と化している。
一般的な家庭ならば、いや、一人暮らしの学生だって、電子レンジ、炊飯器、冷蔵庫、オーブントースターくらいはあろう。
ところが詠子の部屋にそれらはなく、代わりにデッサン用の石膏像や、和洋様々な人形が昼夜問わずこちらをじっと見つめ続ける。∣寝室スペースの確保が目的だ。
不気味なのは重々承知の上だけれど、紡美を招き入れた―というか強引に押しかけられた暁には、ひどく怖がられたのだった。
そもそも油跳ねや煙の心配がないので、石膏像は美白な顔を保っている。
詠子は歯磨きと洗顔を済ませるとか男物の寝間着を脱ぎ捨て、箪笥からキャミソールと昨日と同じニットを首に通し、ももひきとデニムパンツを穿く。パンツは高校生時代から履きつぶしている物だ。他にも実家から持ってきた衣類は多数ある。
幼少期、休日でも祖母に起きたらすぐに着替えさせられてきたからか、寝間着姿でゴロゴロやっていることは少ない。
同世代の女性ならば、皆タイツを穿いて脚線を演出するけれど、冬にスカートなど有り得ないし、お洒落する必要性が感じられない。毎日似たような服ばかり着ているなと、体を見下す。
正体不明の訪問者の謎や、宿酔いで頭が痛いこともあり、キャンバスに向かう気になれず、かと言って室内で遊べる娯楽はなく、恐いので外にも出られない。
一応、図書館で借りた純文学小説を開いてみるが、内容が右から左へと流れていってしまうので、5分もしない内に閉じた。週明けが返却期日なのに、半分も読めていない。
眼鏡を外し、毛布にくるまり机に突っ伏す。
時計の歯車が回転する音を聞きながら、留守にしたいなと思いながら頭を留守にしていると、スマートフォンのコール音が鳴り響く。
画面には、土貞紡美とあった。
「もしもし」
努めて何事もなかったかのような演技をする。
「もしもし?ねぇ昨日は心配だったんだからさぁ。ちゃんと帰れた?」
怒りっぽいデジタルな音声が受話器越しに伝わった。身を案じてくれたことが嬉しくて、笑みが溢れた。
「だいじょぶ」
「ならいいんだけどさ。今暇?」
穿鑿はしてこないようなので、余計な嘘はつかなくて済みそうだ。
「あー、代引きで家にいなきゃなんないから、出なきゃ平気」
「なに買ったの?」
「……画材」
「またぁ?」
紡美の声が裏返る。何も買ってはいないけれど、言い訳としてはベストだったのではないか。食品といえば更に良かったなと悔いる。というか、芸大生が画材を買って何が悪いというのだ。
「んーじゃあ、今から行くから、後でね」
「一人?」
「いや、うーん分かんない」
彼氏も来るのだろうか。当たりをつけた。
「わかった。後でね」
「はいはい」
紡美が言うやいなや電話回線が遮断された。
時計を見やると10時を一分過ぎたところだった。常識人なのか、厚かましいのか、せっかちなのか、どうも掴めない。
また風水がどうとかブーブー言われるのも不本意なので、人形たちにタオルを被せる。
「片付けでもするか」
近頃どうも独り言が増えたなと唇を舐め、床に落ちているビニールゴミをゴミ箱に捨てていく。
詠子は鼻を噛むにも口を拭くにも、水道水を使う。故に、詠子はテッシュペーパーを買わない。だからチリ紙がゴミ箱に溜まっていきはしない。
幼少から、隣人の農家のおじさんたちが、鼻水を唾の如く噛み捨てていた背中を見て育ったものだから、人目のない野外では片鼻を抑えて勢い良く鼻水を噴出させたりする。ポケットティッシュは買わない。ハンカチも持ち歩かない。
そもそもとして散らかる要素があまりない部屋なので、30秒程で片付けを終えてしまった。
雪に飛び込んだような体のラインが残っている布団をベランダに干す。衛生上、万年布団にはならぬよう心掛けているつもりだ。
洗濯や風呂掃除も、何の為にやっているのか分からなくなってきたこの頃だ。大学の実家暮らしをしている友人達には一人暮らしを羨ましがられるけれど、新鮮味を味わえる楽しい時期は1ヶ月だけで、やがて全ての家事が億劫になっていくのだ。
∣旭光を浴び、大きく深呼吸をした。詠子の豪雪地帯は、今頃∣皚皚たる景色が広がっているのだろうかと、郷愁を誘った。
肺の空気が入れ替わり、寒くなったので部屋に引っ込む。
置き手紙のようなキャンバスを隠し、新たな一枚をイーゼルにかける。二万円は新手の詐欺の手口の一種なのかもしれないので、懐には仕舞わずにしておいた。詐欺ではないとしても、これほどの額になると、きっちり話をつけないと受け取れない。
ティーパックすらストックがない詠子宅で、饗することは疎か、来客をどうもて持て成そうかいつも苦悩する。この間は確か、水道水で我慢してもらったのだったか。
詠子はケチなだけで、決してお金に困っているのではないので、ジュースとクッキーくらいなら揃えられるのだけれど、だったら絵の具を買った方が身の為になると、そう持論を持つのだ。
どうせ彼女はおもてなしなんて期待していないだろうし、自動販売機で繕えなくたっていいだろう。
程なくして、ドアがノックされると同時に、SNSに通知が入った。インターフォンもない格安物件である。
「はーい」
女子一人暮らしには頼りなさすぎるドアを解錠し、紡美を招き入れた。
「いらっしゃい、まあ入って」
「あ、∣小石河君もいるんだけど……」
小石河∣大輔。詠子が通う大学の友人だ。男性だけれど、いつか詠子に好意を寄せてきた男達とは違い、紳士的だ。詠子に下心を抱いていないからだろう。
長身で∣面長、清潔感のある端整な顔立をしている。∣怯懦な性格が玉に瑕だけれど、そこに詠子を安心させる雰囲気があるのかもしれない。
よく2人で写生に行ったりもする仲だ。紡美もいるので、尚のこと警戒心はない。
詠子が顔だけを玄関から出すと、廊下に頭2つ半分はあろう背の高い大輔が立っていた。マスクをしていると気圧されてしまう迫力がある。真っ黒のロングコートが威圧感の相乗効果を持つ。手土産だろうか、紙袋を携えている。
大輔はハッとして頭を下げる。
「あっ、どうも。ごめんね急に押しかけてしまって。土貞さんから連絡が来て……」
やけに堅い口調も彼の特徴だ。見掛けにはそぐわないオドオドした言動に、詠子は失笑した。
「いいよ。入って」
詠子はドアを全開させた。
「お邪魔します」
紡美に続いて大輔が靴を脱いで上がってくる。2人共部屋をキョロキョロしている。
「あれ、あのドールは?」
「そこ」
「―ああ」
紡美はタオルを捲り、「やっぱ怖いわぁ」と言って元に戻す。
「狭いけど、まあ」
さて何を提供しようかと頭を捻っていると。
「これ北海道旅行のお土産なんだけど」
大輔は全国規模でも有名な某クッキーと生キャラメルを取り出した。
「わざわざありがとう」
「いいんだよ、これくらい」
大輔は紡美の分も渡している。
いよいよ水を出しづらくなり、手に取ったコップを強く握り締める。
しかし客人を招いておいて茶の一つも出さぬなど―。
「「あっお構いなく」」
「あ、はい」
詠子は部屋に戻る。
「それでぇ、今日はどうしたの?」
「フ、よくぞ聞いてくれました。……これっ」
紡美は鼻で笑うとスマートフォンをイジり、詠子にみせた。何かしらの動画のようだ。
体を寄せ、見やすい位置に移動する。
紡美は《▷》をタップした。
「……………え、コレ私?」
「……詠子って酒が入ると人変わるよね」
途中で動画を停止させ、スマートフォンを紡美に押し返した。
やっと宿酔いが治まって来たというのに、詠子は頭を抱えた。
「うわあ、え、ちょっ、うわあ。……もう絶対飲まない」
大輔は困惑したように目を泳がせている。
「まあこれは冗談として、ちょっとこれ」
紡美はトートバックからスケッチブックを取り出し、ページを開いて詠子に渡す。詠子は「冗談じゃないよ」とヒソヒソ呟いた。
「んーと、ビル街?」
「そうなんだけど、ちょっと、影の付け方がわからないんだよね。こう、硬いって感じの質感?っていうの?」
「ああ、なるほど」
詠子は描き込んでいいか承諾を得て、鉛筆を滑らせる。
「私だったら硬めの鉛筆を使って、丹念に……明度が上がるからね」
「ほうほう、……おお!リアルになった。あとー、小石河君の意見も聞きたいな」
お菓子の開封作業に勤しんでいた大輔は顔を上げた。
「僕?僕は∣鎌倉寺さん以上のアドバイスは出来ないよ」
大輔は建築物の設計士を目指し美術大学に通っているので、畑違いとなる。彼は、単純にデッサンが好きなだけで、言わば、詠子の生徒の一人なのだ。詠子と大輔と、紡美カップルで野外デッサンするようになってから、詠子を間に通さずとも遊ぶらしい。
「いいの、意見の尊重ってやつ。はい紙とペン」
紡美にしつこく∣慫慂され、大輔も参加した。まんざら嫌でもないらしい。
具像な絵が好きな詠子は、写実も、シュルレアリスムも、抽象的な絵画まで手を付けたことがある。美術大学の教授は、シュルレアリストとして詠子の才能を買っている。詠子の世界観が素晴らしいそうだ。
イラストもたまに落描きしたりする。半年ほど前、ノートの余りににお気に入りのキャラクターをボールペンで描いてみたところ、我ながら出来が良かったので、試しにツイッターにアップロードしてみたところ、大反響を呼んだ。毎日までは行かずとも、週に3回ペースで落書きを投稿してるせいもあってか、いまやフォロワー数は10万人を超えている。ライトノベルの編集部から声がかかったこともある。ありがたいけれど、丁重に断っている。
ペンネームは名前をもじって《かまくらうた》。詠子の苗字は、《鎌倉寺》と書いて《れんそうじ》と読む珍しい名だ。だからプロフィールに鎌倉寺と書き入れたところで、誰も読めはしないのだ。
「あ、二人共是非食べて。些少だけど……」
大輔は生キャラメルが入った木箱を差し出した。置いておくだけでは遠慮して(特に詠子が)誰も手に取るまいと∣揣摩したのだろう。
キンキンに冷えたそれを「ありがとう」と言って一つつまみ上げ、「頂きます」と添えてから口に放る。
塩気のきいたキャラメルは、あっという間に溶けて消えた。
全くと言っていいほど当分を摂取していなかったので、一粒のキャラメルはとても甘く、儚かった。
「美味しい……」
「そう?良かった」
大輔は目を細めて嬉しがった。
「たくさんあるから」
大輔は2人にもっと促した。言葉に甘えさせてもらい、会話を弾ませながら茶なしのお茶会が進む。
「―あっ、ねえ小石河君、これって要冷蔵なんじゃあ」
「? ……そうだよ?ちゃんと蓋を閉めて保存してもらって……」
詠子の部屋に、あって当たり前のものはほとんど無い。つまり。
全てを語るまでなく、事情を察した大輔はハッとし、悲しそうな顔を浮かべた。
「―あ、ごめんね!そうだった。すっかり忘れてた……」
「いや、いいんだよ謝らなくたって」
むしろ冷蔵庫がなくてごめんなさいを言いたい。そして、“家に冷蔵庫がないなんてありえない”と遠回しに聞こえなくもない謝罪に、グサッと刺さるものがあった。
アルバイト代と、個展を開いたとき絵が何枚か売れていた記憶がある。足せば小型の冷蔵庫ぐらいなら買えるだろう。端末の欲しいものリストに加えておく。ついでに、最近世間に取り残されつつあるので、ラジオも追加した。流行りの曲がなんなのかさえわからないので、友人の話に合わせられないのだ。
「でもほら、寒いし、玄関とか窓辺に置いとけば大丈夫なんじゃないかな」
「お気遣いどーも」
大輔は両手を振った。
「いや!そんなつもりは……」
「知ってる」
大輔をからかうと反応が面白いので、ついイジワルしてみたくなってしまうのだ。
美術の話題に限らず、お互いの近況も話したり、来週末におでかけする予定も取り決めた。
よっぽど記憶に残っているのか、紡美は昨日栄子に話した不思議な客の話を大輔に聞かせていた。
時刻が午後2時を回ったところで、ほどなくしてお開きとなった。
甘いキャラメルの余韻は、独りになっても口と部屋に漂り続けた。
野口マリックです。
女子大生ってこんな感じ!?と、想像100パーセントでうたこの私生活書きました。まあ、スパゲッティを皿にも盛らず、さらには手で掴んで食う女子大生なんていないと思いますが。
次こそ有言実行しますとも。えぇえぇえぇ。では