あざらしマヌカと想いの在り方
「きゅっきゅ!」
マイ驚き声で目が覚めた。鼻周りのしめりっけから、どうやら鼻提灯が弾けたのだと知る。まぁ、前世の時も自分の爆笑で目が覚めたことがあるので、おかしな話ではないだろう。気づいた瞬間、ちょっとした楽しさでうふふとなる。
ただし、すぐ横にあるマートル兄ちゃんの顔には、驚愕の二文字が浮かんでいたけどね! マートル兄ちゃんて、本当に繊細だ。
「マートル兄ちゃん、眠れないのできゅか?」
よいしょっと体を近づけ、てしっと平たい手で子犬の脇を掴む。
なんせお父さまいわく、私はたぐいまれなき皮下脂肪を持つあざらしだ。迷惑をかけたお詫びとして、せめて温度の提供くらいはしたい。使えるものは惜しみなく提供するぞ。
「べっ別に! 今、ちょうど目が覚めたところだし! マヌカのが冷たいし!」
とかツンツンしつつ、私のおでこにすりすりしてくれるマートル兄ちゃん。
前にもふ毛同士の触れ合いはモフリストに反するといったが、撤回しよう。子犬のツンとしてでも繊細な毛は普通に心地よい。むしろ、私のホワイトコートに絡んでくる相性抜群じゃね⁉ って感じだ。
「ヴァルタ先生は――おねむできゅね」
九尾の尻尾は一定のリズムを保っている。
不思議だ、と瞼が落ちる。と同時に、瞳が熱を持った。
私はここしばらく、確実に赤子であり幼児だった。なのに、寝ている自分の傍に熱があるのは久しぶりだ。
「いっしょに寝てる、人が、目の前にいる、ふしぎだね」
貴族としては当然なのかもしれない。
それでも、こうして誰かに包まれ、瞼をあげれば目を合わせてくれる誰かがいる。それが当たり前のようで当たり前でないと、私は知っている。どうしようもなくなってしまうのだ。
「えっ、ちょっと、マヌカ⁉」
戸惑うマートル兄ちゃんに、へらりと笑う。それでも、彼は必死に肉球で涙を叩いてくれる。ぽちゅんぽちゅんと涙が弾けるたび、私はどうしてか嬉しくなるのだ。
でも、それは猫宮 小鳥の意識が確かな証であって、どうしようもなくなる。
ちょっとばかし頬に刺さる九尾の尻尾に顔をうずめる。
「ごめんできゅ。ちょっと寒さが目に染みただけできゅから」
ぐしっと鼻をすすれば、眠っているはずの九尾の尻尾が頬を撫でてくれた。
「ヴァルタ先生のもふもふは涙をよく吸い取ってくれまきゅね」
うぅ。私のが絶対気持ち良い毛並みをしている! しているのに、その柔らかさに苦しくなる。
伏せた私の頭をちょいちょいっと撫でたのは、マートル兄ちゃんの手先だった。
「マヌカは――強いね」
静かな氷谷に落ちた、寂し気な声。耳によりも、心に染みてきた。
「まぬかは強くなんてないできゅよ。ひとりだったら絶対に泣きじゃくって、谷をごろごろ転がりまくるしかできなかったできゅよ。あっという間に、積雪風味の氷漬けあざらしができあがりなのでし」
「なっなんかお菓子みたいなネーミングだね」
「うい。しろくまさんたちには、絶品のデザートできゅ」
おっと、調子にのってブラックジョークを言いすぎたようだ。マートル兄ちゃんは器用にも、寝たまま一歩後ずさった。
構わずに、私はその分だけ距離を詰める。ついっと視線をそらしたマートル兄ちゃんだったが、しばらくして、小さなため息と共に私に向き直った。
「僕、ね。あのね」
マートル兄ちゃんが零す音には覚えがあって、小鳥の記憶が涙を誘う。声が寂しいよって叫んでいる。
ぐっと唇を噛んで溢れるものを我慢する。今泣いていいのは私じゃない。その拍子に、ヴァルタ先生の尻尾の毛を強く握ってしまった。
「あのね、僕のお父さんとお母さんはね、ヴァルタ先生の弟子なんだ」
「うん。マートル兄ちゃんやまぬかといっしょだね」
小さく零した返事に、どうしてか、マートル兄ちゃんは嬉しそうに笑った。
「そうなんだよ。僕やマヌカと一緒」
少しだけマートル兄ちゃんの声のトーンが下がり、ボリュームが小さくなった。まるで、そう認めることが悪いみたいに感じた。
どうしてかじゃない。口調や私の経験からわかる。自分の話を聞いてくれることが嬉しいのだ。わかるよってのと同時に、マートル兄ちゃんの周りにそういう人がいなかったのかと腹が立った。
そう思って、合点がいった。おそらくだが、彼が臆病なのと冷たい振りをする理由が垣間見えた気がした。どちらも防衛反応のようだと思った。
「それで、それで?」
うかがうようにじっと私を見つめるマートル兄ちゃんに、続きを催促する。
マートル兄ちゃんは、嬉しそうに、でも照れくさそうにヴァルタ先生の尻尾にすり寄った。失礼だけど、すごく可愛い。私が男なら絶対惚れている。
「すごく、すごくね、優秀な精油祓い師だったんだよ。僕ね、お父さんとお母さん、それにヴァルタ先生と一緒にいるのが楽しかったの。兄弟子も妹弟子も良い人がいっぱいで、みんなが家族で楽しかった」
この子が言葉の裏に秘める音に気が付いてしまう。寂し気な面持ちと、遠くを見る目。
溢れる涙はだれのためのものだろうか。
「マヌカは音で気持ちがわかる魔法使いだね。この木の実もね、ずっと前にね、お母さんが読んでくれた絵本にあったんだ。僕ね、お母さんとね、約束したんだよ? いつか、僕がもいできてあげるから、一緒に食べようねって」
血の気が引いていく。私が覗き見た彼の好物は、思っていた以上に重いことだった。
ステータス画面で勝手に木の実を知ったとか、そんなレベルではなかった。私は画面上の言葉だけを見て、浮かれていた。人の好きなものを知る喜びを、目の前の能力に浮かれて忘れていたのだ。
「だから、僕、マヌカに木の実が好きって言われて、驚いたの。僕、すごく怖かったんだ……だから、マヌカにひどいこといっぱい言っちゃったんだ」
「違うのできゅよ。まぬかはずっこいの。わかるんじゃない。勝手に知ったの。無神経にマートル兄ちゃんの心に踏み込んだできゅ」
ぶんぶんと頭を振るのに、マートル兄ちゃんは苦笑して、てしてしっと額を撫でてくれた。
私がしたことはこんなにも無神経だったのかと、痛感している。
堪えなきゃって思うのに、ひどいくらいに涙があふれてとまらない。
「ずっこいとかわかんないけどね。僕、怖かったんだ。お父さんとお母さんが僕をヴァルタ先生のところに残して消えてからずっとね、みんな、僕のこと先生の弟子ってみてたから。だから、ちゃんとしないとって。お母さんに甘えてる赤ちゃんな僕を見つけられてしまったみたいで、怖かったんだ」
マートル兄ちゃんの瞼が、うとうとと閉じていく。
「でもね、やっぱり、嬉しくもあったんだ。僕のために頑張ってくれるマヌカが。僕と仲良くしたいって言ってくれたマヌカが。嬉しくって、それを忘れて欲しくなくって、意地悪して……ごめんね」
頬を伝う熱いものを拭うのも忘れて、私は、ただただ呆然としていた。
生前、私はこれほどまでに自分を肯定してもらったことがあるだろうか。ただ、人を想う気持ちを想った人に受け止めて貰ったことがあっただろうか。人を想うことを、許してもらえただろうか。
「わたしが、おもってもいいの? おもって、迷惑じゃない? ずるしたのに、怒ってない?」
呟いて、喉が焼けるくらい熱を持った。
私の泣き声は氷谷に木霊する。
両親に対する罪悪感も、ヴァルタ先生との駆け引きも、全部差し引いて、いいよって言われた気がした。
「ずるはわかんないけど、迷惑なんてなかったんだよ。僕は、ずっと嬉しかったんだもん。なのに、さっき、マヌカに『一人の方が良かった』なんて言わせちゃったから、謝んなきゃって。自分がとても寂しかったこと、友達に言わせちゃったから」
あぁ、自分がどうとかじゃなくて、マートル兄ちゃんのこの気持ちに応えたい。私を想ってくれたこの人に応えたいと思った。
マートル兄ちゃんは、私の手の端を握りながら、夢の世界に落ちてしまった。
「うっ、あぁ」
漏れる嗚咽。隠したくてヴァルタ先生の尻尾に顔をうずめる。
寝ているはずなのに、九尾の一尾が体ごと包んでくれた。私がそこにしがみついて泣き続けても、尻尾は逃げることなく、心ごともふっと包み込んでくれた。
◆ ◇ ◆ ◇
「というわけで、まぬかは考えました」
きりっと顔をあげたあざらし。人型に戻ったヴァルタ先生は、至極けだるそうに私を見下ろしている。すごく面倒くさそうだね。
マートル兄ちゃんは相変わらずの愛らしさで、ちょこんと前足を揃えている。
「やっぱり、まぬかが浮遊魔法で谷の上にいくできゅ」
今世の私はできる系あざらしだ。反省はするが、行動することで後悔に向き直れるあざらしだ。あざらし連呼しすぎだと思うが、最近妙に落ち着くのだ。この宣言が。
「じゃから、どうやっていくのだ。マヌカの浮遊魔法では浮くのがせいぜいじゃろうが」
ヴァルタ先生の顔には、思い切り「あきれた」と書いてある。
が、勝算は我にあり。私はどや顔でリュックを叩く。
「ヴァルタ先生、精油は一式持ってるできゅよね?」
「あぁ。普段から身に着けている類はのう」
ヴァルタ先生は腰元を軽く叩いた。腰につけられた鞄。そこにはヴァルタ先生愛用の精油がある。
とんとんっとお腹で跳ねて、先生の前に詰め寄る。ぽんぽんと私の頭を撫でつつ、ヴァルタ先生は眉を垂らした。
「精油はあくまで悪魔を祓ったり、効力増強のものじゃと言うたじゃろ」
予想の範囲内の言葉に、私はふっくらと頬を弾ませる。
あぁ、これで私は二人に嫌われてしまうだろう。気持ち悪いって。
てしっとしっぽで床をはたき、ステータス画面を呼び出す。尻尾をくるっと回すと、アイテム画面がポップアップで表示された。
「この氷谷では、風を集めると浮遊魔法の石に変わるそうできゅ」
返事がくる前に詠唱を始める。すると、目の前に純白の宝石と黄緑の風が現れた。手を伸ばすと、ちっと音を立てて肌が切れた。
成功したようだ!
嬉しくなって、尻尾を地面に打ち付けて飛び上がる。模擬練習では成功したけれど、本番でもうまくいった! これはもう、私のふたつなは『たぐいまれなき皮下脂肪を魔力に変えれる系あざらし』で決定だな。っていうか、いやいや、まて自分。ちっとも可愛くないぞ。
「なんで、マヌカはそんなことでき――」
息を飲んだマートル兄ちゃんを前に、私はさらに深く息を飲んだ。心の突っ込みが一斉にストップする。
痛い、痛い。胸が痛い。っていうか、言いたくない。口にしたくないよ、自分が嫌われる可能性なんて。このまま逃げてしまおうか。全部、幼子の寝言だったと。
いや、それだけはしたくない。
「――その穢れなき風の声をもって、我に応えよ! ぷらくしょん!」
べしっと尻尾を地面に打ち付けた瞬間、エメラルドグリーンのようでムーストーンのような不思議な色の風が一カ所に集まっていく。やがて風の中心からは宝石が生まれた。
さすがのヴァルタ先生も驚いたようだ。ゆっくりと下に降りてくる宝石に手を伸ばしつつ、眉を寄せている。
「これは、製造魔法の中でも上級に属する魔法。どうして、これを――いや、マヌカが努力しておるのは知っておったが」
腐っても師匠、じゃなくってさすが先生だ! 私が血眼になって勉強していたのをご存じとは。うん、まぁ、あざらしだし黒目ばっかなので充血する白目はないんだけど。なんせ私は白目になれる。
でも照れる暇はない。ヴァルタ先生も難しい顔のままだ。
「そもそも、ハープシール領の氷谷の風を浮遊石に変えられることは、近年一部でのみ発覚したことなはずじゃが」
ぎっくー!! となっている場合ではない。なんせ私はカミングアウトするために魔法を使ったのだ。
唇を噛んで、何度も顔を上下させる。その間、ヴァルタ先生もマートル兄ちゃんもじっと待ってくれた。
「まぬかは、じつは」
音を立てて顔をあげると、マートル兄ちゃんの優しい眼差しと目がかち合った。私を許してくれたマートル兄ちゃんも、真実を知ったら気持ち悪いって思わないかな。っていうか、むしろ、ヴァルタ先生はどうしてここまで優しくしてくれるのだろうか。
むろん、私の毛が精油効果の増強に絶大なる効果があるのは前提として。それでも、ここまで付き合ってくれる理由が、私にはわからない。
「これ、見えるできゅか?」
ステータス画面を展開する。が、二人の焦点がステータス画面にあうことはない。
このまま誤魔化すこともできるだろう。
でも、嫌なんだ。私は今世で変わりたい。人に信じて欲しいと思うし、信じたい。この数年間、そう思って邁進してきた。だから、受け入れられないのが悲しくても、後悔はしない。
「これって、風の宝石?」
「いや、マートル」
ヴァルタ先生は小さく首を振った。そして、私と視線を近づけるため、膝を折った。
「違うでろう? マヌカ。私に見えぬが、おぬしがなにかを隠しておるのは知っておったよ」
覚悟はしたのに、やはり怖いと思う弱さは変わらない。好きな人に嫌われたくないっていう。
前はもっとたくさんのことを諦めていた。諦めているふりをして、自分が傷つくのを避けていた。だから頑張りたい。
「まぬかは、ヴァルタ先生もマートル兄ちゃんも好きできゅ。だから、嫌われたくないできゅけど……嘘をつくのは、もっといやできゅ」
その言葉に、マートル兄ちゃんはこてんと首を傾げ、ヴァルタ先生は――とんでもなく優しい目で笑った。きゅうぅぅぅと胸が鳴った。だから! 心臓まであざらし属性はやめろし!
「そいで? マヌカは何を隠しておるのかのう」
「まぬかは、ステータス画面が見れるのできゅ!」
はぁぁ、言ったよ! 尋ねられた勢いで言ってやったよ!! 素敵ホワイトコートが汗でびっしょりだ。これこそ滝のような汗。
が、って、まぁ当然のごとくふたりはきょとんとしている。ですよねー! べしっと平たい手で額を叩くと、やけにいい音が響いた。
「ステータス画面っていうのは、つまり、その。焦点をあてた人の種族とか、色々情報が見えるできゅ」
ばくんばくんと心臓が口から飛び出そうになる。頭痛まで起き始めた。
実際は数秒なのに何時間にも思えるなんて、小説や漫画の中だけだと思っていた。けれど、今の私は、死刑宣告を待つほど一秒が万秒に感じている。
「へえー」
とは、マートル兄ちゃんである。っていうか、なんだその抜けた声!! 思わず全身で突っ込みを入れた私は悪くないと思うのだ。びしぃっと叩かれたマートル兄ちゃんには「マヌカ、面白い」なんて抱きしめられたけど。
いやいやと、マートル兄ちゃんの腕からぴょいっと抜け出す。
「へぇじゃないできゅよ! まぬかはずるっこって言ったでしょ? 情報がわかる画面使って、マートル兄ちゃんが木の実好きって調べたできゅよ!」
「うん、それって、マヌカはずるっこって後ろめたくても、僕のこと知りたいって思ったから使ったんだよね?」
ぎゃぁぁ。マートル兄ちゃんて、もしかして懐開いた対象にはとことん寛容なタイプでしたか! っていうか、これは若干やばい思考回路だと思う!
白目でおののく私を、ヴァルタ先生が抱き上げた。両脇を抱えられて、いたたまれなくなる。視線をそらしたのに、
「マヌカ」
至極真剣な声をかけられ、恐る恐る視線をあげる。
目があったヴァルタ先生の眼差しに、赤ん坊あざらしの涙腺はすぐ緩む。なんだこれ。赤子の時より幼児の方が泣き虫とは。
そうじゃない。私がマヌカになっていくほど、猫宮 小鳥の気持ちが迷子になっていく気がして、どうしようもなくなる実感はあったのだ。私はマヌカになりたいのに、小鳥が迷子になるのもたまらなく苦しい。
「持って生まれた能力は、恵なのだよ」
ヴァルタ先生は囁いた。静かな声は、それでも風が鳴るだけの谷にはよく響いた。
地面に降ろされる。ヴァルタ先生は私の前に胡坐をかく。その膝の間にマートル兄ちゃんが飛び込んできた。
「マヌカは努力する一方で、ひどく自分に罪悪感を抱いていることがあるようだ」
それはヴァルタ先生の考えすぎだ。私はこの能力をフルに活用しているのだから。
「能力ではなく、存在にじゃよ」
ヴァルタ先生はエスパーですかい。
考えすぎできゅ、私はあざらし幼児できゅ。そう笑いたいのに、できない。頭にのる彼の手も、ひげをいじるマートル兄ちゃんの手も振り払うことができない。
「けれど、持って生まれた能力を疎むことも後ろめたく思う必要もない。要は、それをどう使うのかが問題なのだ。マヌカが何を想い、どう使っていくのかが」
そういうものなのだろうか。私はこの能力を望んで生まれてきた。それは何を想うとかではなくて、単なる好奇心と楽したいが故の願いだった。
「はじまりはずるっこくても、そう、おもえましゅか?」
今回みたいに、自分の能力が大切な人の助けになればいいと思う。
渾身の想いを込めて見上げたのに、ヴァルタ先生は飄々と笑う。不思議なんだけど、この飄々とした感じがほっとできるようになってしまっている自分がいる。
「さぁのう。それはマヌカ次第じゃて」
「おししょーさまなのに、ずいぶんと、ふんわりしてましゅね」
きゅきゅっと笑えば、柔らかい涙がぷくりと浮かんだ。さっきまでのこらえきれないものとは違う。
感動する私を横に、ヴァルタ先生はさっさといくつかの瓶を取り出し吟味している。
「ヴァルタ先生、それどーするできゅ?」
「まぁ、見ておれ」
なるほど。先程の風石の効力を強化するのかと、のほほんと見ていたのが間違いだった。まぁ、わかるよね。それを誰が使うのかっていうか、使わせられるのかって。
ヴァルタ先生は風の石に精油を何種類か垂らしたあと、数歩下がった。大きな帽子をとると、ぴんと狐耳が現れた。とてもきれいな銀糸だ。青みがかった氷谷の中ではひときわ存在感がある。とけこみそうで、決して溶け込まない存在感。
「ほれ、マヌカ」
「ういっす。って、えぇー!!!」
頭上に投げられた石を受け止めた瞬間、私は飛んだ。
あざらし、月夜に飛ぶ。
もうこうなると、うふふと笑うしかない。私は今、宙を飛んでいる。
「じゃなくて、風に舞い上げられてるだけできゅぅぅ!!」
「わーん、マヌカー!!」
あぁ、マートル兄ちゃんの声が遠くに聞こえる。ふっと目が細まる。
「マヌカ、おぬしならできる!」
どくんと鼓動が激しく跳ねた。ヴァルタ先生は本当にずるい。ずるい人だと承知しながらも、どうしてかやる気になってしまうのだ。
たった一言なのに、私も自分が『できる』のだと思った。
っていうか、やらなきゃ死ぬわ。ロマンチック街道をスキップしている暇はないぞ!
「やってやるできゅよ!! 羽ばたけ、あざらしテール!! 舞い上がれ、あざらし!」
かくして。途中で岩につかまったりひっかかたりしたもの、私は無事に谷の上に投げ出された。ひっかかった処で助けてくれたクリオネ君、ありがとう。
投げ出された先に待っていたのは、あざらし化した両親だった。というか、あざらし化した一族全員の上にダイブしたから助かったんだけどね。
「マヌカのおばか! もう、母様、マヌカを抱っこしたままでいるわ!」
言葉だけ聞くとすごく過保護に聞こえるが、ちゃんと頬は叩かれた。叩かれた後、泣き崩れたお母さまとただただ抱きしめてくれたお父さまに、号泣が止まらなかった。私があまりに泣きさけぶものだから、お母さまも背中をとんとんとしてくれた。それでも、しゃっくりは止まらなかったが。
「私、もうマヌカなんだ」
一人呟いた言葉が、ぐっと胸にきた。
そうだ。私は猫宮 小鳥であり、あざらしマヌカなのだ。前の私があったからマートル兄ちゃんと近づけて、ヴァルタ先生の弟子になれた。
「あたりまえでしょ。マヌカは生まれた時からマヌカよ」
「あぁ、私たちのマヌカ」
それは、私たちがあなたたちの子どもとして生まれたからだ。
謝ろうと顔をあげたのに、全力で抱きしめられた。
「だから、マヌカが持って生まれた能力も感性も大事にしてきたいと思った。けれど、マヌカが自分の命をかえりみない無謀をするなら話は別だ」
「えぇ、えぇ。マヌカ、どうしてこんな無茶をしたの」
「わたし――」
この期に及んで怯む私の頭を、ヴァルタ先生はこれ以上ないくらいに撫でまわした。
遠慮のない力加減に、ぐちゃぐちゃとされて眩暈が起きたほどだ。
いいのだろうか。私はこの優しさに甘えて。肌ならぬ毛に触れる好意に甘えて。
怒られるのが嬉しいなんてどうかしている。でも、怒られるということはつまり、私を想ってくれるがゆえだ。怒鳴りつけるのとは違う。なにより、お父さまの言葉もお母さまの相槌も――ただ、嬉しくて、幸せだった。
優しい人たちに囲まれるのは、正直いまだになれない。それはたぶん、私がまだ彼らの感情にこたえるに値しないからだろう。猫宮 小鳥の意識があるうちは、完全に甘えるきることはできない。
「お願いです、マヌカをしからないで。マヌカは僕を想ってくれたの」
そういって私をかばったマートル兄ちゃんに背中アタックをかました。
ちなみに、マートル兄ちゃんとヴァルタ先生は成人あざらしたちに救出してもらった。
「お母さま、お父さま。心配かけてごめんなさい。ピングルもみんなも、ごめんね。でも、わたしは後悔していないの。わたしは、大切なひとのためになにかしたいって思ったから」
ほんと、あのうさん臭い神の使いと毒キノコを落とした神は憎らしい。
それでも、今はあの怪しげなキノコ胞子な神様代理に感謝をする。あざらしな私はままならないことも多いけれど、猫宮 小鳥の感情は疎ましいことが多いけれど。
「ほら、おいで」
伸ばされた手に、私は全身でこたえる。あざらしの体をふんだんに使い、ぽよんと跳ねて見せる。尻尾で地面を蹴り、呼ばれた人に体当たりだ。
今の私は猫宮 小鳥であり、あざらしマヌカなのだから、これでもいいと思うのだ。