希望と代償 9
「てめぇ、よくも……」
逆上する男の声が聞え、イリスはガラス片を男の首に突き刺したまま手放して振り返る。銃を持った男が、肩から鮮血を零しながらも自分に狙いを定めて、銃の引き金を引こうとしているのが見えた。
二度目の銃声音が響く。イリスの戦いをただ茫然と見ていたギースが、小さく悲鳴を上げた。
しかし銃弾はイリスを捉える事は出来ずに、聖女像の足元に弾は埋め込まれる。男は弾が外れた事に一瞬動揺し、その動揺の隙に身を屈めて回避したイリスは反撃に出た。
間合いを詰めたところから正面から蹴り上げ、その靴裏で男の顎を打つ。衝撃にくぐもった悲鳴を上げた男は、拳銃を手放して後方に吹っ飛ぶように倒れた。
「『よくも』って……それはこっちの台詞なんだけど」
イリスは男が手放した銃を拾い、その撃鉄を起こす。彼は衝撃を受けてまだ起き上がれずにいる男の右足を、その拾い上げた銃で撃った。
「うわあぁっ!」
痛みに悶える男にイリスは呟く。
「今のがギースを傷つけた分のお礼。てめぇは同じ痛みを味わってから死ねクズ」
男は痛みに直ぐには起き上がれず、仰向けに倒れこんだまま呻く。そんな男をイリスは無感情な眼差しで見つめ、男の首を右足で踏みつけた。男が再度呻く。イリスはそれを無視し、首を踏みつけて固定した男の頭に銃の照準を合わせた。
「テ、メェ、なに、も……の……」
喉元を圧迫されて苦しげに呻きながら、男はイリスに問いを呟く。イリスはもう一度撃鉄を起こしながら、静かに答えた。
「人殺し」
銃声。
脳天を打ち抜かれた男は事切れ、イリスは残った弾全てを視力を奪った男へ撃ち込む。男はやがて自分の血の海に沈んで息絶えた。
「これで四人……」
弾の無くなった拳銃を投げ捨て、イリスは背後を振り返る。そこには招かれざる客の五人の内、唯一まだ生存しているリーダーの男が立っていた。
「く、くそ……っ」
たった一人になった男は最初の威勢も無くなり、狼狽し怯えた眼差しでイリスを見つめる。男は片手剣の刃をイリスに向けていたが、その切っ先は狙うものを狙えないほどに震えていた。
そんな男に、イリスは不可解な謝罪を告げる。
「あぁ、すみません」
素手のまま、イリスは男と向き合う。イリスが一歩前へ足を踏み出すと、男の足が一歩後ろへと下がった。
「抵抗しないってさっき言いましたけど……嘘ですから、あれ」
そう言ってイリスは初めて男に笑みを向ける。唇だけを歪めたその笑みは、男にとっての死神の微笑だった。
「来るな……っ! ぶっ殺すぞ!」
虚勢の叫びも虚しく聞える中で、イリスは構わず男に近づく。男を殺す為に。
「私はユエみたいに優しくないから……慈悲は与えない」
呟いた直後、爆発のような衝撃が礼拝堂をさらに破壊する。
轟音と共に、男の姿がイリスの視界から消える。何が起こったのか、イリスにも直ぐには理解できなかった。
「う、わあぁあ ぁ……っ!」
土煙がもうもうと上がる中で、ギースの悲鳴の声が聞える。土煙が僅かに収まると、イリスにもギースが悲鳴を上げた意味を理解できた。
「何……これ……」
茫然とした呟きがイリスの唇から漏れる。彼の瞳には今、異形が映っていた。おそらくギースの眼差しにも同じものが映っているのだろう。
爆音と衝撃と共に来た最後の招かれざる客は、おそらく『魔物』だった。ただしイリスは見たことが無い魔物だ。
それは見た目にも感覚的にも生理的嫌悪を催すおぞましい魔物だった。
全体が紫がかった闇色の小さな触手のような毛で覆われたその魔物は、礼拝堂の天井よりも高さのある球体の大きさで、その巨体で進入と共に残っていた最後のマーダーを踏み潰していた。いや、踏み潰すという表現が正しいのかどうかも、イリスには判断出来ない。
球体の体でマーダーの男を下敷きにし、その魔物は体の中央に宝石のように一つはめ込まれた、おそらく目であろうそれをイリスに向けた。
「っ……!」
異形のものに見つめられた瞬間、イリスは強烈な悪寒を感じて、その一瞬その場で動けなくなる。
おぞましい異形は目の下にある、触手の毛にまみれた口腔をゆっくりを開いた。
『オオオアアァァオアァァオァァァ』
地の底から響く怨嗟の叫びのようだった。
「ああ、あぁ……あ……」
未知なるものに対しての恐怖から動けずにいたイリスだったが、ギースの恐怖する声が再び耳に届くと、金縛りが解けたかのように硬直が解ける。
『彼を守らないと』と、それを真っ先に思ったイリスは、魔物が行動する前にギースの方を振り返った。
「ギース!」
イリスはそう叫びながら、足の負傷で動けずにいるギースへと駆け寄る。しかし自分に駆け寄るイリスを見たギースは、表情を恐怖に引きつらせたまま僅かに後退った。
恐怖に見開かれた少年の瞳には、イリスに対する拒絶が浮かぶ。
「来るな……」
「え……?」