浄化 94
「イリス、気を付けてっ!」
考えているとラプラの叫ぶ声が耳に届き、イリスは意識を現実に戻す。
顔を上げるとハルピュイアが羽を激しく羽ばたかせ、生み出された風の刃がこちらへと渦を巻きながら殺到するのが見えた。
『PROVETEWATERCTVEIL』
反射的にイリスは指輪を掲げて水のマナへと願いを伝えるレイスタングを紡ぐ。指輪が深紅の輝きを放つと同時に広範囲に蒼い魔法陣が浮かび上がり、弾ける光と共にナインを包む薄い水の膜が出現した。そしてハルピュイアが放った風の刃のほとんどは、その水の膜の表面で接触すると同時に消失する。しかし防御が間に合わずにいくつかの風がナインの翼を傷つけ、その瞬間全員を乗せる彼の巨体が大きく揺れた。
「やあああぁっ!」
「きゅいいいいぃ~!」
主にイリスとうさこの悲鳴が響き渡り、ユーリとジュラードも落ちそうになる恐怖に青ざめる。幸い落ちることはなかったが、全員がこの状況の恐ろしさを再確認した。少しでも攻撃を受ければとんでもない高さから落下して死ぬ。
「きゅううぅ~っ!」
「ちょ、うさこ、前がみえな……っ」
恐怖に怯えるうさこはジュラードの顔面に引っ付きぶるぶると震える。隣ではイリスが恥も外聞もなく、ついでに様々なプライドも捨ててユーリに抱き着いて震えていた。
「おいてめぇなんで俺に引っ付く! うぜぇー離れろ!」
「うるさい! 私だって単細胞バカになんて頼りたくないけど、怖いんだから仕方ないじゃん! 本当に無理、落ちたくない!」
半泣きでそう訴えるイリスは「私が落ちたらこの防御魔法消えるからね!」と赤く輝く指輪をユーリの頬にぐりぐりと押し付けて彼を脅す。確かにナインを守るようにして発生している球形の水の防御膜はイリスの力で発生させているので、その脅しはかなり有効だ。しかし直後に聞こえてきたハルピュイアの歌声と共に、ユーリはそれ以外の理由でイリスを振りほどけなくなった。
「……オメー、それはわざとか?」
「なにが?」
背中に押し付けられて当たる柔らかい胸の感触。この性悪のことだから100%わざとだろう……と、それを理解しててもかなり欲望に素直な方の男の子であるユーリなので、その魅力に抵抗できない。イリスなのに。
「うぅ、なんか逆に犯されてる気分……助けてアーリィちゃん~」
「歌声で簡単に操られる下半身が弱いバカを守ってやってんだから感謝してほしいんだけど」
再度のハルピュイアの歌声は、水の膜のおかげで先ほどよりはこちらに届く音が小さい。だからだろうか、ジュラードは最初の時のような頭が割れそうな痛みが感じられないことに安堵する。
また、先ほどは簡単に操られてしまったユーリは、イリスがハルピュイアの誘惑に勝る夢魔の魔性で守っている。そして元々精神力の高いラプラやナインはハルピュイアの歌声程度では正気は失わない。誰も操れる存在がいないとわかったハルピュイアは、すぐに歌うのを止めた。
「素晴らしいですよ、イリス。そのまま防御をお願いします」
ハルピュイアを見据えたまま、ラプラはそうイリスに声をかける。そして彼は本格的に禁呪の発動準備を始めた。
「お願いしますと言われても、いつまで持つかな、これ……」
ラプラが禁呪発動の準備を始めたことには気づいたので、せめて発動までの時間稼ぎをしないととイリスは思うも、自分の力がいつまで持つかがわからない。だが、ジュラードを無事送り届けるために頑張らないと。
「……どっちの方が魔物として格が上か思い知らせてあげるよ」
急にかわいい声でどす低く呟いたイリスに、ユーリは「おー、完全に魔物人生を受け入れてるな」と少し感心したように言った。
歌で誘惑することを諦めたハルピュイアは、再び風を操り一行を襲う。しかしナインたちが風上にいることも関係し、襲い掛かる風の刃はイリスの防御結界に阻まれて次々と消失。それを確認し、飛行に専念するナインは「やルじゃねぇか」とイリスに声をかけた。
「あの程度なら防げるよ。だからこのままラプラが術を完成させてくれたら、多分大丈夫……」
やや息が上がり始め、額に汗を滲ませてはいたが、イリスは術を維持しながらそう答える。するとその直後、ハルピュイアが今までとはまた異なる動きを始めた。
「あれはなにを……?」
ジュラードは顔に引っ付くうさこをやっと引き剥がして腕に抱え直しながら、ハルピュイアの行動に眉を顰める。こちらを追いかけながら何かを口ずさんでいる様子が見えるが、歌を歌っているわけではない。
何か嫌な予感がすると感じたのはマナの雰囲気が変わったからだろうかと、イリスは右手で指輪に触れながらハルピュイアの行動を警戒した。
「あんまりヤバそうなのは来ないでほしい……」
イリスのそんな切実な願いも空しく、ハルピュイアは紫という危険そうな色の魔法陣を両脇に二つ展開させる。魔法陣としては珍しいその色に、普段アーリィやマヤで魔法を頻繁に見ているユーリも「あれなんだ?」と疑問の表情を浮かべた。
「わからないけど、多分ヤバイやつ……」
「俺もそう思う」
一体何が起きるのかとイリスたちはラプラかナインに問いたかったが、ラプラは術発動の為に集中しているし、ナインも前を向いているので詳細が見れていない。ただ何が起きるのか覚悟するしかない中でイリスたちが見守っていると、やがて魔法陣から小型の黒竜が姿を現した。
「魔物の召還?!」
突如魔法陣から現れた二匹の黒竜に、ジュラードが驚きの声を上げる。一匹相手にすればよかった事態が急に二匹も敵が増え、ジュラードは思わず最悪の結末を想像した。
「先生、これは……どうにかなりますか?」
禍憑きで死ぬ前に落ちて死ぬかもと考えるジュラードが恐る恐る聞くが、イリスは無言。代わりにだろうか、ユーリが「あれはこの水の防御じゃ防げねぇぞ?」と答える。確かに小型とは言え、魔物の中でも知性が高く力の強い竜に襲い掛かられてしまっては、薄く張った水の防御膜では防ぐことは無理だろう。聞くまでもないことではあったが、ジュラードはそれでもどうにかならないかとイリスを見た。すると……。
「……ふふふっ、ははっ」
「せ、先生?」
急に小さく笑いだしたイリスに、ジュラードは思わず引く。ユーリも「恐怖でついに頭がおかしくなったか?」と心配したが、しかしそういう雰囲気ではないとジュラードはすぐに察する。むしろ紅く目を輝かせるイリスはなぜか吹っ切れたように楽しそうだった。そしてイリスはジュラードに向き直り、魔性の目のままでいつもの優しい『先生』の顔を向ける。
「大丈夫ジュラード、私が必ず守るからね」
「は、はい……」
ジュラードが頷くとイリスは再び敵へ向き直る。こちらへ向けて飛翔してくる黒竜を紅い瞳で見据えると、左手の指輪が何度目かの妖しく美しい朱の輝きを放った。




