浄化 93
「それでは……」
ラプラが視線を後方へ向けると、気づけばハルピュイアがかなりの距離まで接近していた。こちらを見上げて不気味に微笑む異形の鳥を見下ろし、ラプラは「イリスが落ちないようにお願いしますね」とジュラードたちに声をかける。
「こわい、この指輪抜けないっ! 呪われてる! ユーリお願い、指切って!」
「いや、落ち着けよ。別に抜けなくてもいいだろ、それ」
「そうですよ先生、指輪抜けないより指切る方が怖いですよっ」
「きゅう~!」
三人と一匹はラプラの声をまったく聞いていなかったが、彼は気にせずナインの尻尾の方へと移動した。
「禁呪を使わせてくれる隙でもあればいいのですが……」
ナインの尻尾の付け根あたりに立ちながら、ラプラはだいぶ接近したハルピュイアを見下ろし呟く。
ハルピュイアの大きさは、接近されると変身したナインとさほど変わりないことに気づく。その姿はまるで巨大な死の女神だ。
『INNUFLARAMEROWMERABLE』
長い緑の髪を激しく風に靡かせながら、彼は補助属性である火のマナへと願いを伝えた。掲げたロッドの先端から深紅の魔法陣が生まれ、炎の矢がいくつも生成される。炎の矢はハルピュイア目掛けて紅蓮の尾を引きながら放たれた。しかし自身に向けられたその矢を、ハルピュイアは翼を羽ばたかせて発生させた風で消失させる。それを確認するとラプラは小さく舌打ちした。
「……やはり私には相性が悪い相手ですねぇ」
炎を生むアレスのマナは、ラプラにとって補助的に扱える程度のものだ。術に対して高い耐性を持つハルピュイアを貫くことは難しい。
やはり準備に時間がかかるが禁呪で対処するかとラプラが思案した時、ハルピュイアが反撃に出た。
『aaaaaaaaaaaaaaaaaAAAaaaaaaaaaaaaaaaAAAAaaaaaaaaaaaa』
それはハルピュイアの歌声だろうか。甲高い声がラプラの耳を掠め、同時に耳鳴りのような感覚が不快に頭を支配する。ラプラは即座に耳を塞ぎながら、顔を顰めて「まずい」と小さく呟いた。
「おイ、耳塞いでろ!」
背に乗るジュラードたちに向けて、ナインがそう警戒を叫ぶ。しかしハルピュイアの魔の歌声は彼らの元にもすでに届いていた。
「なにこれ、へたくそな歌っ!」
聞こえてきた不快な音にイリスが思わず顔を顰めて耳を塞ぐ。ジュラードも頭を抱えて苦しそうに蹲り、それを目撃したイリスは「ジュラード!」と心配そうに彼へ声をかけた。
「うっ……頭がいた、い……」
「しっかり! この音のせいかな」
自分には耳障りな音にしか聞こえないハルピュイアの声を聴き、イリスは「美しい歌声じゃないの?!」と苛立ったように呟く。すると隣でユーリがなぜか呆然とした表情でハルピュイアの方を見ているのに気づいた。
「ユーリ?」
様子がおかしいことを察したイリスが声をかけると、ユーリが振り返る。その目は虚ろで、イリスは咄嗟に良くない事態を予想した。直後、ユーリはイリスにのしかかって馬乗りになると、その首を絞める。
「あ、っ……っ!」
虚ろなユーリの眼差しはいつの間にか妖しい紫に染まり、この行為は彼の意思の元で行われているわけではないとイリスは即座に理解する。しかし強い力で首を絞められて振りほどくことができない。イリスは苦しそうに喘ぎながら必死で抵抗しつつ、頭を抱え苦しそうにしているジュラードを視界の端に捉えた。
「っ……じゅ、らーど……」
どうにかしないとジュラードも危険だ。けれども元々力では敵わないユーリに、筋力がさらに弱い女体で襲われると動くことすらままならない。息が出来ず薄れそうになる意識の中で、イリスは先ほどのラプラの説明を思い出した。
「……っ!」
ユーリの腕を掴む左手の指輪が深紅の輝きを放つと同時に、見開かれたイリスの目が魔性の赤に変わる。視線がつながったユーリの瞳は紫から深紅へと一瞬変わり、すぐにその色は消えた。
「……ん?」
いつもどおりの灰色の目に戻ったユーリは、なぜかイリスの首を絞めている自分に気づくと、ちょっと驚いたような顔をして「え?!」と手を放す。やっと解放されたイリスは咳き込みながら体を起こした。
「え? え? なんだ俺、無意識に首絞めちゃうくらいお前を恨んでたのか?」
「けほっ……ちがう、ばかっ! ハルピュイアに操られてたの!」
そうユーリに説明し、イリスはジュラードの元に駆け寄る。いつの間にかあの不快で耳障りなハルピュイアの歌声は止んでいた。
「ジュラード、大丈夫?!」
「せ、んせ……」
ジュラードは苦しそうに肩で息をしながらも、首を縦に振る。一先ず安堵したイリスは、ナインやラプラは平気だろうかと見渡した。しかしナインは普通に今も飛んでいるし、ラプラもロッドを構えて呪術を唱えている。うさこはいつの間にかユーリの頭の上から降りて、ジュラードに引っ付いて彼を心配するように涙目で震えて鳴いていた。つまり全員、今は問題ない。
「操られたのは単細胞だけか」
忌々しげに吐き捨てたイリスの言葉は、しかし状況がまた呑み込めていないユーリには幸いにも聞こえなかった。
「なんだぁ? なんかすっげぇきれいな歌声が聞こえたと思ったら、そっから記憶がねぇんだけど」
「きれいな歌?」
自分には全くきれいな歌声など聞こえなかったので、イリスはユーリの呟きに怪訝な表情を浮かべる。しかし直後、首を絞められていた時に思い出した『美しい歌声で聴く者を惑わす』というラプラの説明を再び思い出した。
「そうか、きれいな歌声に聞こえるとアレに操られるんだ」
つまり全くきれいな歌声には聞こえなかった自分は、ハルピュイアに操られることはないだろう。むしろ先ほど操られたユーリをさらに操ってハルピュイアの支配から解放したくらいなので、もしかして自分はハルピュイアより能力が高いのだろうかとイリスは思った。
以前も精神支配する魔物と対峙した時、同じ能力勝負ならば自分は負けないだろうとラプラに説明された。魔物として強くなっているのは正直複雑だが……。
「……。」




