浄化 91
「イリスは私が優しく丁寧に運びますので。絶対に、死んでも離しません」
「そうしてもらえると大変ありがたいけど、鼻血はいい加減止めてほしいな……血まみれにはなりたくない」
そろそろ貧血が心配になるくらいに鼻血を出し続けているラプラに、イリスは『大丈夫かな』とちょっと心配な表情を浮かべた。
「それじゃお前ら、離れてろよ」
ナインはそう言ってジュラードたちを後ろに下がらせ、岩陰に隠れるようにして立つ。全員安全な距離まで離れたことを確認した彼は、「そんじゃ」と独り言のように呟いてからエンセプトの力を解放させた。
「きゅうぅ~!」
浅黒い肌は徐々に鱗に覆われ、背中からは巨大な竜の羽が骨が折れるような歪な音と共に生えてくる。ナインの姿がみるみる竜へと変わり、ジュラードの頭の上でうさこが恐怖に悲鳴を上げた。そして恐怖を抱いているのはジュラードも同じで、本当にナインは以前のように暴走しないかと内心ハラハラしながら彼の変貌を見守る。やがて暴走した時ほどの大きさはないが、三メートルほどの大きさの中型とも言える竜の姿になり終えると、ナインは竜の口でこう呟いた。
「……よし、コんなモンだナ」
半分竜、というよりはほぼ竜の姿になってしまったナインは、しかし凶悪な牙の生えたドラゴンの口から器用に共用語を喋ってみせる。人と竜とは口の作りが異なるからか若干喋りづらそうではあったが、しかし普通に会話ができるので、ジュラードは心底安堵した。どうやら今回の彼はしっかり理性があるようだ。
「おー、すげぇなオッサン。これなら余裕で俺たちも乗れるなー」
ユーリもナインの変身に感心し、「エンセプトって便利だなー」と言う。便利というかすごいのはナインじゃないかなとジュラードは思ったが、ツッコむだけの気力が無かったので無言で頷いておいた、
「よっしジュラード、乗るか」
「あぁ」
「あ、つーか乗れるか?」
珍しく気を使ってそんなことを問うユーリに、ジュラードは「平気だ」と返す。だがすぐにユエの言葉を思い出し、「うさこを頼む」と言ってうさこをユーリの頭の上に乗せた。
「いや、だからなんで頭に乗せる」
「そこが定位置だから……」
「きゅううぅ~」
うさこを乗せられて嫌そうな顔をしたユーリだが、ジュラードが素直に頼ってくれたことは彼もわかったらしい。それ以上の文句は言わず、「しょうがねぇな」とぼやきつつうさこを手で押さえながらナインの背へと向かった。
ナインの先導でクノーの方角へと砂漠の空を進む一行。
ナインの背は思っていたよりは安定感があって座り心地が良かったが、しかし大きく羽ばたく度に激しく上下に揺れる。さらにナインはかなり高い位置を飛行するので、ジュラードは禍憑きとは別の理由で若干顔色が悪くなっていた。
「おー、どうしたジュラード。顔色わりぃぞ? 具合よくねぇんか」
ジュラードの様子に気づき、近くに座るユーリが声をかける。ジュラードは「いや」と首を横に振りかけ、また考え直して素直に白状することにした。
「思ったより高くて怖くないか、コレ」
眼下の景色は一面砂漠でしかないが、その砂漠風景が果てしなく遠い。多分砂漠を人が通っていても、豆粒のような大きさで気づかないかもしれない。
高所恐怖症のイリスでなくとも、この空の移動はかなり度胸を必要とすることに今更ジュラードは気づいてしまう。たしかに動かないので体力の消耗はないが、しかし精神面の消耗が激しい。
「あー、まぁ確かになぁ。こんな高いとこ飛ぶ必要あるんかな~とは思うけど」
ユーリもジュラードの訴えに頷くと、それを聞いていたらしいナインが「しょうがネぇだロ」と言った。
「あンまり低いとこロだと、冒険者に魔物と間違えられるカモしれねぇかラな」
たしかに今のナインは見た目がほぼ竜なので、冒険者に敵と間違われて襲われる可能性が無いとは言えない。
「あとハ、この辺りハ別種のドラゴンも生息してルからなァ。そいつらの縄張りニ間違って入ると襲われる可能性がアる」
ナインは灼熱の太陽の下を雄々しく羽ばたきながら、「だから遭遇しねェよう、高めに飛んでル」と答えた。
「そうなのか……」
確かにこんな空の上で魔物と遭遇して戦闘になんてなりたくはない。というか、今の自分は通常の戦闘も出来るかあやしい状態だ。
「戦闘になっても、俺は多分動けないと思う……」
不安げにジュラードがそう呟くと、ユーリは「誰もお前に戦えなんて言わねーよ」と苦笑しながら言った。
「つーか俺も戦えねぇよ、こんな空の上で」
「そ、そうだよな」
「俺もお前らを乗せなガラは戦えネぇ。もしも魔物に遭遇シたら、そン時は全力で逃げるしかねェな」
ナインは「だから高いとこでも我慢しロ」と二人に言った。
「別に文句はねーよ。でも落とすなよ? たとえ砂の上だとしても、この高さから落ちたら死ねる……」
「あんまり保障はしネぇからしっカりつかまってロ」
ユーリの言葉にそう答え、ナインはまた大きく羽ばたく。その拍子に揺れた背中の上で、ジュラードは早くクノーに着くことを願った。
一方ナインの後ろでは、ラプラが心から幸せそうに、そして世界一楽しそうにイリスを抱えてナインと同じ高さを飛んでいる。竜となっているナインよりも飛行速度はどうしても劣るが、それでも彼に大きな遅れをとらずに飛ぶラプラの飛行能力はなかなかのものだ。ただし彼の意識は今、警戒する能力も含めて腕に抱える彼にとっての至高の存在に全集中していた。
「イリス、大丈夫ですか?」
「……。」
「ふふ、そんなに怖がって本当に可愛らしい……いえ、気の毒に。しかし絶対に離しませんから安心してくださいね。もう二度と……」
「……。」
「あぁ、それにしてもイリスの良い香りをこんな長時間堪能できるなんて……」
「……。」
ラプラにお姫様抱っこで運ばれようと不吉な言葉を耳元で囁かれようと変態行為をされようと、イリスは動じることなく固く目を閉じて耳を塞ぎ、心を無にして大人しくしている。目を開けて現状を直視すれば多分正気ではいられないと悟るイリスは、ジュラード以上にさっさとクノーに着くことを願っていた。
そう、このまま何事もなく、一直線にクノーへと着くはず。
「……ラプラ」
「はい? どうしました?」
今まで無言無表情で貫いてきたイリスが突然口を開き、ラプラは少し驚きつつも優しく問い返す。するとイリスは目を閉じたまま、「なんか嫌な気配がする」と呟いた。
「……!」




