浄化 90
「で、あんたらは大丈夫か?」
ナインはラプラとイリスに視線を向ける。するとラプラはナインを話しかけられるのも嫌そうな顔で無視したが、上着をずらして白く輝く六枚の羽を出した。準備はできているということだろう。そうしてまだ高所の恐怖に打ち勝つ自信がなさそうな顔のイリスに、彼は笑顔で話しかけた。
「ところでイリス、『なんでもする』のなんでもは、いつ?」
「え? あぁ……それね」
二人のその会話を聞き、ユーリは「なんだ、まだヤってなかったんか」と相変わらず生々しい発言をする。イリスは怖い顔でユーリを睨み、「そうじゃない!」と否定した。
「っていうかジュラードの前でそういう発言はやめろ!」
「ジュラードだってガキじゃねぇんだし、過保護すぎだろお前」
何を揉めてるのかわからないが、具合がそんなに良くないジュラードは、二人の言い合いの時間も本当に無駄だなぁとぼんやり思う。するとイリスもすぐにジュラードのそんな様子に気づいて、「とにかく違うっ」とユーリとの不毛な言い合いを中断した。
「そーじゃなくて、ラプラのお願いは……あー……まぁ、ユエがいないならいつでもいいし、今でもいいよ」
何か説明しづらそうな様子のイリスにユーリは首を傾げ、そんな彼を無視してイリスは一旦変身を解く。甘い香りと共に大きな夢魔の尻尾が目の前に現れて、ユーリは思わず後ずさった。
「うわ、びっくりした、お前急に魔物に……」
「もっと驚かせてあげるよ」
そう意味ありげに笑ったイリスは、何か短い呪文を口にする。すると彼の輪郭が歪み、一瞬ノイズが走った後に彼の姿は微妙に変化していた。
「……え?」
なんだか急に一回り小さくなったイリスに、ユーリは怪訝な表情を浮かべる。いや、違う。ただ小さくなっただけではなく、彼の姿は元々の容姿が女性的でわかりにくかったが、胸のふくらみや腰つきなどでよく見れば完全に女性になっていた。
「はぁあぁー?!」
ユーリが叫び、ジュラードも驚いたように口をあんぐりとあける。しかし当のイリスは「そこまで驚くかな?」と、二人の反応を笑っていた。ちなみに声も少女のようで、見た目より喋ると変化がより一層わかりやすい。
「いや、お前、なんでそんな、女?!」
「先生、そそ、それは一体……?!」
「あぁイリス! やはり素敵です、本当に愛らしくて……はぁはぁ……抱きしめて閉じ込めておきたい」
一人鼻血を出して怖いことを言いつつ興奮しているラプラは放っておいて、イリスは驚くユーリとジュラードに「これがお願いだった」と説明する。
「いや、私も正直ユーリの予想みたいなヤバイのを覚悟してたんだけどさ。よかったよ、体は清いままで済んで」
そう安堵した様子で説明するイリスに、「つまり女になってほしいってことだったのか?」とユーリは確認する。イリスは「そう」と頷いた。
「いやいや、そのお願いはアリなのか? お前的にさ」
「別にいいよ、襲われるわけじゃないし。一日でいいらしいしさ」
平然とそう返すイリスに、ユーリは「そういうもんか?」と腑に落ちなさそうな顔をする。しかし、確かに以前の彼の様子や、今も子どもたちから『お姉ちゃん先生』と呼ばれている普段を見ていれば、女性でも別に違和感もない……の、かもしれない。そんな妙な納得をしつつ、ジュラードは「そんなことが出来るんですね」と驚いた。
「まぁ、夢魔だからな。女性体になるくらい出来るだろ」
女性になったイリスに驚く様子もないナインがそう説明すると、イリスも「そうらしいね」と頷く。
「とは言え、私も角隠したりする変身術が出来るようになったからこういうこともできるようになったけど」
「つまりは変身術みたいなもんなのか」
そう説明されるとだんだん納得してくる。しかしあっけらかんと変身したこの姿だが、さすがにユエには秘密にしておきたいらしく、イリスは「ユエには内緒だよ」と唇に人差し指をあててジュラードに言った。
「え! は、はい……」
「しっかしさー、お前そんなこと出来るならずっと女でいればいいじゃん。男よりよっぽどあってるし」
ユーリが笑いながらそう意地悪く言うと、イリスは不機嫌そうに彼を睨んで「いやだよ」と拒否する。
「こう一時的なものならいいけど、八十年近く男でやってきてるんだから、今更性別変えたくないよ」
「そーかぁ?」
そう言ってから、ユーリはいまだ戻る手がかりがなさそうなローズのことを思い出す。そして急に「まぁ、そうか」と一人納得した。
「ところでラプラ、これで満足してもらえた?」
イリスが改めてラプラに向き直ると、ラプラは血まみれの袖で鼻血を抑えながら「はい」と興奮しつつ満足そうにうなずく。
「あぁイリス、この前も言いましたが誤解してはいけませんよ! 私はあなたが何者で、どんな姿であろうと愛していますので!」
「はいはい、それはどうも」
ハァハァしながら「これはあくまで私の好奇心によるお願いです」と言い訳っぽいことを言うラプラの言葉を適当に聞き流し終えると、イリスは少し真面目な顔になって「いいよ、別に」と呟く。
「私は”彼女”の代わりにはなれないけど……あなたには色々と助けてもらったし、これくらいで満足してもらえるなら」
「え?」
どこか寂しげに笑うイリスの脳裏には、いつかにラプラの夢の中で見た自身によく似た女性の姿が思い浮かんでいた。しかしそのことをラプラは知らないはずなので、イリスもあの女性は誰かと彼に問うつもりはない。ただ推測できることは、彼にとって彼女はとても大切な存在で、そしてもうこの世にはいないのだろう。大切な存在を失う痛みと、その者にもう一度会いたいと願う気持ちはイリスも強く共感できる。失ったものの代わりを求める行為は愚かだとも思うが、しかしそれを非難はしない。それで少しでも心が慰められるのならばそれもいいのだと思えるくらいには、自分も様々な経験をしている。
自分の言葉に対して疑問の表情を浮かべるラプラに、イリスは静かに微笑みだけを返した。
「んで、サキュバスの先生さん、あんたの準備はいいか? 大丈夫なら俺も変身するが……」
改めてナインが問うと、イリスは「大丈夫」と返事をする。しかし続けて彼、もとい彼女はラプラを指差した。
「ラプラに頼むから。飛んでいる間、私は何も見ない聞かない、目をつぶって耳塞いでるね!」
やっぱり高所を飛ぶのはダメらしく、イリスは潔くラプラを頼ることにしたようだ。ラプラもノリノリで「はい!」と返事をした。




