浄化 63
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「ここに居ましたか」
そう声をかけられ、イリスは背後を振り返る。しゃがんでポチを撫でていた姿勢はそのままで、夜風に水色の髪を靡かせながら彼は「ラプラか」と言った。
「部屋に居ないので心配しましたよ」
深夜ともいえる時間の玄関先で一人ポチを撫でていたイリスに声をかけたラプラは、彼の傍に立ちながらその様子を窺うように目を細めた。
「明日も例の魔物捜索ですし、体を休めておいた方がいいと思いますよ。体力を使い過ぎているあなたは尚更」
「寝たら回復したからもう大丈夫だよ。心配してくれていることは感謝するけどね……ありがと」
ポチに視線を戻して撫でるのを再開させたイリスは、わずかに微笑みながらそう言葉を返す。表面上は穏やかに見えるイリスの様子を気にしつつ、ラプラは繋げる言葉を探した。
「……あぁ、寝れないのですか?! でしたら私が添い寝を……!」
「結構です」
大人しく座ってされるがままになっているポチの顎の下あたりを撫でながら、イリスは冷めた声で即座に返事を返す。冗談を相手できる精神状態ではあると判断したラプラは、内心で少し安堵しながら「遠慮なさらなくても」と笑いつつ冗談を続けた。いや、半分以上は本気だが。
「ラプラこそどうしたの?」
自分のことをはぐらかすように逆に問いを返してきたイリスは、「寝れないなら眠らせてあげるよ」と笑いながら言う。ラプラも薄く笑みを浮かべた。
「大変魅力的な提案ですが……今日は遠慮しておきましょう」
「そう? 子守歌でも歌ってあげようかと思ったのに」
クスクスと笑うイリスに、ラプラは意外そうに目を見開く。
「それは……やっぱりお願いしてもよろしいでしょうか」
「え、冗談だよ? っていうか子守歌の方に喰いつくんだ……」
「斬新な提案でしたので……ぜひあなたの歌声を聞いてみたいです!」
「えぇ……?」
意外な喰いつきに困惑するイリスは少し困った表情で「そのうち、いつかね」と返事を返す。全くあてにならないその約束に、しかしラプラは期待を膨らませて「えぇ!」と力強く頷いた。直後にめんどくさそうな顔をしたイリスの表情は、背を向けていたために幸いにしてラプラが目にすることは無かった。
「それでイリス、いつまでここに居るのですか?」
「ん?」
ポチを撫でる手を止めて、イリスは再びラプラへ視線を向ける。しばらく考えるように沈黙していたイリスは視線をポチに戻し、やがてこう口を開いた。
「ラプラ、私ね……ユエに話したよ」
それは問いに対する答えではなかったが、ただ話すきっかけがほしかったラプラなので、唐突な彼の言葉に耳を傾ける。
「私のこと、全部」
「そうですか」
ポチがイリスの手から離れて、数歩歩いた先で体を休めるように丸くなる。それを追いかけることなく眺め、イリスは静かに息を吐いた。
「……話して、全部受け入れてくれたよ。こんな私のこと」
そう言いながらイリスは抱えてしゃがんでいた膝に自身の顔を埋める。ラプラは僅かに目を細め、静かな口調で彼に言葉を返した。
「あまり自身のことを低く評価するような言葉はよくありませんよ」
「あ、そうだね……ごめん」
「それはそうと……よかったですね」
膝に顔を埋めたままで受け答えするイリスに、ラプラは自身の感情を隠した笑みと共にそんな言葉を向けた。それに対してイリスは少しの間の後に、「うん」と小さく頷く。そこでやっとラプラも隣に腰を下ろした。
「私、ここに居ていいって……そう言ってもらえた」
淡々と語るイリスの様子に、ラプラは少し気になる視線を向ける。イリスは相変わらず顔を膝に埋めて表情を隠していたので、どんな感情で今話を語っているのかを察するのは難しかった。
「……安心しましたか?」
イリスの感情が読めないラプラがそう問いかけるように聞くと、イリスは再び沈黙する。答えを待っていると、しばらくして「わからない」という返事がイリスから返ってきた。
「わからない、ですか」
「話して心が軽くなったことは確かなんだけど……でもさ、やっぱり……全部、今まで通りってわけにはいかないから」
そう答え、初めてイリスは埋めていた膝から顔を上げる。月明かりの下で再び見えた彼の瞳は、無音で涙を流していた。
「イリス……」
「私は魔物だから……私がユエを襲おうとしたこと、彼女が本心では私を怖がった感情、全部……それは確かに、今まで通りとはいかないもの……」
ユエを前にして魔物としての本能が抑えきれずに彼女を襲おうとした自分、自分のことを話す間にユエから感じ取った自身に向けられる負の感情……全ては今の自分が異形の魔物だから生じてしまう不都合なものだ。魔物で無く、せめてヒトであったならば、大切な人を汚そうなんて下劣な感情は理性で覆い隠すことが出来ただろうし、相手が自分を傷つけぬよう隠そうとする感情をわざわざ感じ取ってしまうこともなかっただろう。
それでも自分はもうこのままで生きるしかない。すべて諦めて受け入れるしかないのだ。きっと今流す涙の意味はそれだろうと、イリスは思う。
「あぁ、そうだ……私、あなたにお礼を言わないと……」
静かにこぼれる涙を拭い、イリスはラプラへ視線を向ける。ラプラが「なんでしょうか?」と聞くと、イリスは目を細めて痛々しく笑んだ。
「確かに私、ユエを前にして彼女を襲ってしまいたいって思ったんだけどね……ちゃんとこの”制約”が私を止めてくれたから」
包帯で隠した自身の右手の甲を差し出し、イリスはそう答える。
先ほどユエを前にして魔の本能に飲み込まれそうになったヒトとしての理性を、ラプラが施した制約が強烈な痛みとなって呼び覚ましてくれた。そのことを告げると、ラプラもまた寂しい笑みを彼に返した。
「ありがとう、助かったよ」
「……レイリス、私はあなたを救えましたか?」
ラプラの口から思わず口から零れた問いに、イリスは静かに頷く。それを確認し、ラプラは安堵した様子で「そうですか」と呟いた。
「全部、今まで通りとはいかないけど……でも私は今までと同じように、ここでユエや子どもたちと暮らしていくよ。あなたのおかげで、ちゃんとヒトとして生きていけるってわかったし。それに自分のことを隠していた時は、それはそれで苦しかったから……きっとこれでよかったんだと思う」