世界の歪み 11
「先生の……?」
ユエの答えに、イリスはぼんやりと自分の状況について考える。そして自分が倒れた事とその理由を思い出し、彼は気まずい表情でユエを見た。ユエはただ自分を心配した表情で見ている。
「あ、ユエ……」
イリスは体を起こし、ユエに何かを伝えようと口を開く。しかし何を彼女に言えばいいかが思いつかない。いや、言わなきゃいけないことはあるのだ。だけどそれを今、彼女に自分の口から伝える勇気は無かった。
口を開いたまま頼りなくユエを見つめることしか出来ないイリスに、ユエは気遣う眼差しと不安を向けながら「まだ寝てた方がいいんじゃないか?」と告げる。
「あ、ううん、平気だから……うん」
「……そう」
「……あ! れ、レイヴン先生は?」
「今は他の人のとこに診療に行ってるよ」
イリスの問いに答えたユエは、「ところで」と言って真剣な眼差しでイリスを見やる。イリスは自然と身構えながら、「なに?」とユエに返した。
「あんた、どこか体調悪かったのか?」
自分を真剣に心配し、だから不安な表情を見せるユエに、イリスは胸が痛くなるのを感じた。物理的な痛みではなく、精神的な心の痛みだろう。肉体的な痛みなら慣れている彼も、”心”の痛みには慣れる事は出来なかった。
「……レイヴン先生は何か言ってた?」
ユエや子どもたちに心配をさせたくはなかった。だからせめてもっと上手い返しをすれば、これ以上彼女を不安にさせずに済んだかもしれない。
だけど、そう思いながら自分の口から出た言葉は質問に対する質問だった。それは相手を一番不安がらせる返しだと、イリスにも理解できていた。それでも咄嗟にそんな返ししか出来なかった自分に、イリスはひどく驚く。
自分はいつからこんなに嘘が下手になったのかと、そうイリスは思いながらユエを見つめた。
(……違うな。彼女には嘘を付きたくないんだ、私……)
真摯に自分を想ってくれる彼女や子どもたちに、嘘は付きたくない。でも心配させるのも心苦しい。”真実”を伝えてしまえば、彼女たちを不安にさせてしまうだろう……。
自分は一体どうすればいいのか、それを迷うイリスにユエがまた口を開いた。
「先生は『大丈夫』とだけ言っていたよ。先生が大丈夫って言うんなら大丈夫なんだって、そうあたしは信じるけどね……」
「……」
俯き沈黙するイリスに、ユエは弱く微笑んでこう声をかける。
「でも何かあるんなら、せめてあたしにはちゃんと言っておいてくれよ。……正直あんたには色々と手伝わせすぎちまったって、あたしも反省してるんだ。孤児院の中のこと、ほとんど全部あんたに押し付けちまってたからね」
ユエは女性にしては大きく、だけど母の優しさが感じられる手でイリスの頬をそっと撫でる。彼女の手から伝わる熱が心地よくて、そして悲しくてイリスはそっと目を閉じた。
「疲れてたなら、しばらく休んでさ……」
「違うよ、ユエ……ごめんね、ちょっと言う勇気が無かったんだけど……私も、リリンと同じなんだ」
きっとこの命はもう長くは無いだろう。
でも今までの長い”生”の中で、今が一番幸福だった。最後にこんなにも幸せな時を感じることが出来たならば、自分はこれ以上の奇跡を望んではいけないと思う。
「イリス……今、なんて……」
驚愕に目を見開くユエに、イリスは穏やかに儚く微笑む。
「……禍なんて名前……ホント、一体誰が名付けたんだろうね」
自分には似合いの名の病だと思いながら、イリスは覚悟を決めてユエに全てを伝えた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
レイチェルたちと別れた後のエルミラがその後何をしていたかと言うと、彼は何故か何も無い荒野の岩場の陰で空腹を訴えて倒れこんでいた。
「うぅ~……お腹すいたぁ~……」
エルミラはそう呻きながら、ゴロゴロと岩場の日陰を無意味に転がる。
一体こいつは何をしているのかと、傍から見ればそれを遠巻きにツッコみたくなる光景だったが、しかしこの付近に現在人の気配は無かったために、彼を不審がる人もいなかった。
「……ビスケットも非常食も全部食べちゃって手持ちの食べ物は何も無いけど……でもお腹すいて食べ物探し行く元気も無い……むしろ歩く元気が出ない……」
厄介な人たちに大人気な自分なので、エルミラはしばらく身を隠して生活していようと決めていたのだが、元が適当な性格の彼は今後のことをアバウトにしか計画しておらず、もう早速予定が狂った彼はその結果に今現在このように空腹に苦しんでいるのだった。
「くそ……あんなとこであんな迷惑な奴に遭遇しなけりゃこんなことには……っ!」
そう言ってエルミラがまた寝返りをうって、日陰を作る岩の方向へ顔を向けた時だった。
「ん?」
自分の頭上すぐ近くから、何やら地面を擦るような、そんな不可解な音が聞えてくる。それに気づいた彼は体を起こし、その音がする方向へと視線を向けた。
「なんだ?」
どうやら地中から音は聞えて来るようで、エルミラは音のする方を見ながら「動物?」と首を傾げる。
やがて音は段々と大きく、そしてはっきりとエルミラの耳に聞えてくるようになった。
「ちょ……待てよ、これ魔物とかだったらどーしよ……」
大地の中からの蠢くような不審な音で、明らかに自分の直ぐ近くの地中に”何か”がいる事がわかり、エルミラはお守りのように拳銃を握り締めて震える。
不審な地中からの音はエルミラが震えている間にもどんどんと大きくなり、やがて地面そのものが変化を見せる。大地の土が盛り上がり、そこから小さく穴が開いたのだ。
「うわ、うわああぁあぁぁぁ……魔物じゃありませんよーに魔物じゃありませんよーに魔物じゃ……」
震えるエルミラの目の前で開いた小さな地面の穴は徐々に大きくなり、エルミラは恐怖にどんどん背後へと後退る。
そして穴が人一人が飛び出せる程度にまで大きさを増すと、ついにずっと地中で行動していた”何か”がエルミラの目の前に姿を現した。
「はぁ、やっと地上だ!」
「ひいいぃぃっ!」
穴から飛び出してきたのは、土まみれの一人の男だった。エルミラが恐怖のあまり悲鳴を上げると、地中から出てきた謎の男は「うわ、びっくりした!」と、こっちもエルミラの存在に驚いたように声をあげる。
「だ、誰ですか?! やだなぁ、撃たないで下さいよ!」
「それはオレの台詞だよ! もう、無駄に驚かせないでよ! オレ昨日から何にも食べてなくて、とにかくカロリーが足りてないんだよ! 驚くのにもカロリーって消費するんだから、今のオレには驚くのも一苦労なんだよ! おわかり?!」
エルミラはプリプリ怒りながら拳銃を仕舞いつつ、「あんたが驚かしたせいでまたお腹減ったじゃないか」と男に言う。男はひどく困った様子で、「なんかすみません」と素直に謝った。
「あ、じゃあ驚かせたお詫びに僕の持ってる携帯食料あげますよ」
「え、ほんと? わーい」
男が被っていた土まみれのヘルメットを取りそう言うと、エルミラはころっと笑顔になって単純に大喜びする。今の彼は食い物が食えれば全てがどうでもいい心境だった。
「えっと、じゃあちょっと待ってくださね。僕、ここから出ますんで……」
「うん……つか、何であんた地中に……まぁいいや、詳しい話はカロリー摂取してから聞こうかな」
エルミラがとりあえずボーっと眺めていると、全身土まみれの男が地中から這い上がってくる。男は癖のある短い栗毛が特徴的な、エルミラと同じ二十代前半くらいの顔立ちの青年だった。