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魔女の子たちと義理の子たち  作者: 佐藤裕樹
3/3

第一幕:「昔には帰れない」③

【続・段停府あん】:チャーハンをつくる腕前はプロ並み。


段停府あんは青ざめた。血の気が引いた。目の前で起きたことが信じられなかった。幼馴染の森助船出が撃たれたのだ。頭を。


森助船出の身体からは力が抜けた。


森助船出は自分にもたれかかってきた。スカートに血がしみ込み、ももに温かさを感じた。目の前で起きた惨劇を理解して、段停府あんは絶叫した。


 二度目の銃声が鳴った。今度はガラスが割れた。


「全員静かにしろ。逃げようとした奴は、撃つ」


 バスジャック犯は短く言った。そして運転手のほうへ歩いていき、頭に銃を突きつけた。


「バスジャックだ」


 そう告げた。


 ようやく、乗客全員は事態を把握した。


 それまでは誰一人として、男がバスジャック犯であると知らなかった。


 バスジャック犯はマイクを持った。


「全員。両手を高く上げろ。外と連絡しようとしたやつがいたら、全員、迷わず殺す。いいな?」


 逆らう者はいなかった。


 ひとりを除いて全員が手を上げた。


 段停府あんだけは手を挙げていなかった。逆らったわけではない。男の指示が耳に入っていなかったのだ。すぐに従わなかった。


 常式的ナヒトはそれに気が付いた。


 段停府あんは「船出くん! ねえ、船出くん!」と森助船出の身体をゆすり、声をかけていた。ほとんどパニック状態だった。悲痛な声だった。


 常式的ナヒトは声を絞り出して言った。歯はカチカチと鳴っていた。


「だ、段停府さん! 手を上げて!」


 常式的ナヒトの声は段停府あんに届いていなかった。


 段停府あんの姿はバスジャック犯の目に留まった。


 バスジャック犯は「勝手な真似をしたら全員撃ち殺す」と運転手を脅した。


 再び後部座席へ歩いていった。森助船出にすがっている段停府あんに銃を突きつけた。段停府あんがバスジャック犯の方を向くよりも早く、引き金は引かれた。


バスジャック犯はためらわなかった。彼は冷笑した。


パンッ、と三度目の銃声が鳴った。


【常式的ナヒト】:みんなに褒められる程度に歌が上手い。


 バスジャック犯がバスに乗り込み、友人を撃ってから一時間が立っていた。

 

 その間に信じがたいことが二つ起きた。


 まず、くだんのバスジャック犯は捕まった。男は命に別状こそなかったが、ぼろきれのようになっていた。顔は滅茶苦茶になっていた。病院へ移送された。


 常式的ナヒトには何が起きたのかわからなかった。


 バスジャック犯は森助船出を撃った後、段停府あんを撃とうとした。近づき、彼女に銃を突きつけた。そして銃声が鳴った。


 常式的ナヒトは確かにそれを聞いた。はずだった。しかし、結果的に段停府あんは撃たれなかった。


 弾は銃口から放たれた。その弾が不自然に、浮いたまま、段停府あんの目と鼻の先で、止まったのだ。


 常式的ナヒトとバスジャック犯だけがそれを見ていた。


 段停府あんは何が起きたのかわかっていなかった。


 森助船出に覆いかぶさるようにして、うずくまっていた。震えていた。


「猿?」と、バスジャック犯が明らかに戸惑った様子で、意味不明な言葉をつぶやいた。


 浮いていた銃弾が床に落ちて金属音を立てた。


 段停府あんには外傷がなかった。それに気づいたらしい。


 男はもう一度、銃を撃とうとした。引き金を引こうとした。


 しかし、その前にバスジャック犯の体勢が崩れた。銃は手から落ちた。まるで誰かに殴り飛ばされたようにして、バスジャック犯は吹っ飛び、倒れた。そして叫び声をあげた。


「何だよ、お前! やめろよ!」


 バスジャック犯の言う「お前」とは何のことなのか、常式的ナヒトにはわからなかった。わからなかったが、バスジャック犯が「お前」と呼ぶものに怯えていることはわかった。そのまま、バスジャック犯は見えない「お前」に襲われた。


 明らかに「お前」には質量があった。まるで狂暴な犬に飛びつかれているように、バスジャック犯は背を床につけ、もがいていた。ブルゾンが何かに引っ張られていた。


 甲高い悲鳴があがった。バスジャック犯の目元が裂けた。顔が歪んだ。髪の一部が引き抜かれた。そのたびに鶏が屠殺されるときのような声が上がった。


 すべてバスジャック犯のものだ。苦痛に悶え、狂乱状態になっていた。


 その間も「お前」による攻撃は続いた。


 バスジャック犯の鼻の肉はちぎれた。


 まぶたが裂けた。


 青あざができた。


 バスジャック犯はボロボロになった。


 乗客があっけにとられている間に、無残な姿へ変えられた。服は乱れ、顔は血まみれになった。動かなくなった。腫れた口元から笛のような音が漏れていた。


「お前」はまだバスジャック犯の腹の上に乗っているらしかった。男の服が不自然にへこんでいた。


運転手も異変に気付いていた。ようやくバスが止まった。


「みなさん、すぐに降りてください! 急いで!」


 いつの間にか銃はサラリーマン風の男が握っていた。


 彼はバスジャック犯に向けていた。顔面は蒼白になっていた。


 クモの子が散るように乗客が逃げていくと、常式的ナヒトは森助船出と段停府あんの方を見た。


 そうだ、早く救急車を呼ばなくては、と思った。


 しかし、その必要はなかった。

 

 後部座席には段停府あんと常式的ナヒトしかいなかったからだ。

 

 森助船出は消えていた。

 

 彼の身体はどこにもない。


 血痕もない。


 唯一残されていたのは、だるまのキーホルダーが付いた森助船出のスクールカバンだけだった。


「段停府さん―――船出は?」


 彼も彼女も呆然としていた。段停府あんは口をぽかんと開けたまま首を横に振った。


 消え入りそうな声で言った。


「消えたの。船出くんの身体は―――ねえ、ナヒトくん。船出くんはどこいっちゃったの? ねえ?」


 常式的ナヒトは答えられなかった。


 代わりに震えていた段停府あんの手を取り、引いた。立ち上がらせた。


「大丈夫。大丈夫だから。とりあえず外に出よう。段停府さん」


 常式的ナヒトは段停府あんを励ました。


 彼にも何が起きているかはわかっていなかった。


 だが、今は気にするべきことではなかった。優先すべきことは、彼女を落ち着かせるべきだと考えた。安全な場所に移動させなければならないと思った。


 外に出て、常式的ナヒトは近くの店に駆け込んだ。事情を簡単に話して、段停府あんを店の人に預けた。その後で一一〇番を押して警察を呼ぶと、常式的ナヒトは再びバスの中へ戻った。犯人が無残な姿で横たわっていた。それはどうでもよかった。無視してまたぎ、森助船出のカバンを拾った。


森助船出のカバンの中を探ったが携帯電話はなかった。ノートと筆箱と教科書しか入っていなかった。彼は森助船出に電話を入れた。だが、彼は電話に出なかった。音信不通だった。


「どこにいるんだ」とメールを打ち、送ってみた。送るだけなら問題なくできた。


 届いているのか? と思った。


 届いたとしても、船出は読んで、返してくれるのだろうか? と思った。


 しばらくして警察が来ると、二人は保護された。


 犯人は救急車で移送された。


 事件は警察の預かりどころとなった。


 常式的ナヒトは森助船出のことを心配していた。警察の人に「森助船出のことを探してほしいんです」と懇願した。


「あいつは撃たれているんですよ」


 さらに二時間後、森助船出は自宅アパートで発見された。彼は死体ではなかった。生きていた。それどころか傷一つなかった。学生服を着ていた。


「警察の人が何の用ですか?」と不思議そうに目を丸くして、玄関で応答した。


「今日は、ちょっと頭痛がひどくて朝から寝込んでいたんです―――午後から学校へ行こうと思っていたんですけど、何かあったんですか?」


 森助船出は不安そうに聞いた。


【続・常式的ナヒト】:そこそこ友達が多い。


 事件から一週間が経った。常式的ナヒトは疲れきっていた。


 学校や警察から何度も呼び出された。そして話をさせられた。何度も、何度も同じ話をさせられた。段停府あんも同じだったらしい。学校にはほとんど行けなかった。


「バスジャック犯がバスに乗り込んできた」

「そして自分たちを脅した」

「なぜか、犯人は倒れた」

「それで助かった」


 常式的ナヒトの説明は話すたびに短くなっていった。要点だけを伝えられるようになっていた。上手になっていった。「必要のない部分」の話は削られていった。


「怖かった」

「恐ろしかった」

「信じられなかった」


 そのような話は自分以外の誰にも求められなかった。見て、聞いた、状況だけを話すように求められた。


「森助船出が撃たれた」ことも削られた話の一つだった。


 森助船出は撃たれていなかった。バスに血痕は残っていなかった。


 彼自身は自宅でピンピンしていたというのだ。


「恐怖心で記憶が混乱したり、錯覚したりすることはよくあることなんだ。安心したまえ。森助船出くんは生きているよ。あとで連絡を取ってみなさい」


 常式的ナヒトと段停府あんの証言は「事件のショックによるもの」だと断定された。


 二人も「そうだったのだろうか」と自分の記憶を疑うようにさえなっていた。


 送ったメールには返信がされていないままになっていた。常式的ナヒトは森助船出に連絡を入れなかった。森助船出からの連絡もなかった。


 その日。常式的ナヒトは久しぶりに学校へ登校した。一限目の途中から教室に入った。朝の時間に質問攻めにされることは避けたかったからだ。


 授業の合間の休み時間に、常式的ナヒトに事件のことを聞く人は少なかった。多くの人が「そっとしておいてやろう」と遠巻きに見ていた。あるいは「久しぶり」と話しかけてきてくれた。事件とは何の関係もない、どうでもいい話をしてきた。気を使ってくれているのがわかった。「大変だったな」とは一度も言われなかった。それが嬉しかった。


 帰る時、常式的ナヒトはC組へ向かった。森助船出と段停府あんのクラスだ。二人はいた。C組は帰りのホームルームをやっていた。


 それが終わると、彼は教室へ入っていった。二人に声をかけた。


「船出、段停府さん。帰り、どっかで話さない?」


【三人】:帰る時間はわりとバラバラ。


 三人は学校から少し離れたところにある個人経営のこぢんまりとしたカフェに入った。客は少なかった。三人は奥の席に座った。


 段停府あんと常式的ナヒトの二人は森助船出を睨んだ。そして聞いた。


 先に口火を切ったのは段停府あんだった。


「船出くん。最近、ほうじ茶は本当に飲んでいないの?」


 常式的ナヒトは段停府あんの言葉に「またそれ?」と眉をひそめた。


「段停府さん。今は、その変な話は重要じゃないでしょ」


「ううん、重要なことなんだよ。おそらくね」


 段停府あんは表情を変えなかった。


 その真剣な様子に、常式的ナヒトは戸惑った。


「本当に、ってどういう意味だよ? ほうじ茶?」


「バスジャック事件の日、あたし、聞いたでしょ」


「僕は覚えている。船出は一五〇年のお茶屋がどうたら、って話してたよね」


 森助船出は首を小さく振った。表情が険しくなった。


「オレはその話を聞いてないし、お茶屋のことも話した記憶がない」


「いや、言ったじゃないか」


「船出くん。質問を変えるね―――最近、湯呑みでほうじ茶を出されなかった? 見知らぬ人に」


 段停府あんの言葉に対し、森助船出の目は見開かれた。それがすべてを物語っていた。森助船出は思い出していた。探るようにして、彼女を見た。


「あん。お前、インク=アウトに会ったのか?」


「インクアウト?」


 常式的ナヒトは聞きなれない単語に片眉を上げた。


「やっぱり。船出くんも、あのうさん臭いスーツ男に会ったんだね」


「ああ、会った。けど、嘘だろ? あんもかよ」


「二人とも何の話をしてるんだよ? バスジャック事件のことじゃないのかい?」


常式的ナヒトは困惑していた。


「ごめんね、ナヒトくん。ちょっと船出くんに確認したいことがあるの。あとで説明するから」


 常式的ナヒトは疑問を抱きつつも、二人の話に黙って耳を傾けるしかなった。


 段停府あんは森助船出に聞いた。


「船出くんも豆腐部屋に軟禁されたのね?」


「豆腐?」


「白い部屋のこと」


「白い部屋には閉じ込められた。あそこ、豆腐部屋っていうのか」


「あたしが勝手に付けただけだよ」


「そうか」


「船出くん、タトゥーも入れたんでしょ。そしてバスジャック事件の日にそれを使っていた。多分、おそらく―――違う?」


 森助船出は首肯した。


「そこまでわかってるんだな」


「ていうか、今日までの間に考えたんだよ。推理、推理」


「そっか」


「そっか、じゃないよ。あたしがどれだけショック受けたかわかってるの? 目の前でいきなり撃たれて

さ、倒れて血をいっぱい流してさ、そんで消えちゃってさ、でも生きてて、わけわかんなくてさ―――」


 段停府あんはシクシクと泣き始めた。ぽろぽろ涙を流した。常式的ナヒトと森助船出は動揺した。


 常式的ナヒトはハンカチを渡した。しばらく泣き止むまで待ち、注文した塩カフェラテを飲ませた。それで落ち着いた。


「―――ごめんね。ちょい、もう大丈夫」


「本当に悪かったよ。驚かせるつもりはなかったんだ」


 森助船出は申し訳なさそうに謝った。


「船出くんが謝ることじゃないよ。多分」


「船出。もしかしてだけど、あのバスジャック事件に、君が関わっていたりするのかい?」


 常式的ナヒトは不安げに聞いた。


 だが、森助船出はすぐに否定した。頭を横に振って否定した。


「いや、それとこれとはまったく、全然、話が違うんだ」


「そうなのかい?」


「オレがバスジャックをたくらむような、挑戦心とエネルギーに満ちた人間に思えるのかよ?」


「思えない」


「だろ。いましているのは、『オレが撃たれた後に何故消えたのか?』って部分の話なんだ」


「でも、僕はまったく話についていけない」


 森助船出は肩をすくめた。


「あん。ナヒトにもそろそろ説明したいし、ちょっと河川敷に移動しようぜ。オレの刻印のことも説明したいから」


「刻印?」


「秘密道具のことだよ」


「ぜんぜん意味が分からないんだけれど」


「見ればわかるよ―――実は、オレは分身ができるんだ」


「ぶんしん?」


 森助船出は「忍者になったんだよ」と冗談めかして言った。


 会計を済ませると、三人は店を出た。


「あの時のオレは『影武者』だったんだ」と店の外から声が聞こえた。


【森助船出】:運動神経はない。体力もない。体育の成績は常に二以下。


 段停府あんが刻印を刻まれる一日前、森助船出は白い部屋の中で、一人の男と向き合っていた。インク=アウトだ。


 森助船出は差し出されたほうじ茶をすすっていた。


 すでに左手の甲に刻印は刻まれていた。それは見えなくなっていた。


 その日、森助船出は家に向かって歩いていた。何も考えていなかった。


 不意に後ろから肩を叩かれた。そして白い部屋に「飛ばされた」のだ。


 彼は段停府あんと同じように、「ここから出たければ、刻印を受け入れろ」と脅された。


 森助船出は了解するほかなかった。


「『影武者』でしたっけ」


 森助船出は自分の左手の甲を見ながら言った。半信半疑、いや、ほとんど信じていなかった。疑っていた。半信半疑の半信なしだ。半疑だ。


「ああ。キミは分身ができるようになる」


「いまここでもできるんですか?」


 インク=アウトは頷いた。


「どうやるんです?」


「刻印は『欲望』に反応して働くようになっている。だから影武者を出したいとさえ念じればいい」


「欲望、ですか」


「ああ。例えば『学校をサボりたい』と思っている時に影武者は生み出すことができる。例えば、『相談役がほしい』と思った時に影武者は生み出すことができる。例えば、『影武者を試しに見てみたい』と思っている時に影武者は生み出すことができる―――理由さえあればいい。『Xがしたい。だから刻印を使いたい』というように、自分で意識さえすれば刻印は働いてくれるんだよ」


「へえ」


「試しに影武者を出してみたい、と思いながら、指ぱっちんをしてみなよ。そうすれば刻印は働く」


 森助船出は素朴な疑問を口に出した。


「インクさん。湯呑みを出した時も思ったんですけど、超能力を使うためには、指ぱっちんって必要なことなんですか?」


 インク=アウトはそんなことはないと言った。


「ただのルーティンだよ。例えば、プロ野球界にトップ・ハットマンって選手がいるだろう。知っているかい?」


「そりゃまあ、有名ですからね」


 森助船出はトップ・ハットマンの顔を思い出した。一〇年以上、リーグ首位打者を維持し続けいているスター選手だ。サンタクロースのようなひげをたくわえており、二メートルもの身長がある男だ。


「トップ・ハットマンはバッターボックスに入る前に必ずお辞儀をする。儀礼なんだ。『おれは今からバッティングをするんだ!』と気持ちを切り替えているらしい。指ぱっちんはそれと同じさ。『今から超能力を使うぞ!』と気持ちを切り替えるものなんだよ。念じるだけで使えるけど、何となく締まらないからね。ぜひ、キミにも指ぱっちんはしてほしい」


 森助船出はあいまいに返事をした。そういうものなのかと思った。


 気恥ずかしさもあったが、言われた通り、左手を上げ、親指と中指の腹を合わせた。そして、「パチッ」と指を鳴らした。


【三人】


 三人は瓦橋の下、河川敷の広い芝生にやってきた。周りにひと気はなかった。遠くに母子らしい二人組が見えた。子供が走り回るのを母親が微笑んで見守っている。こちら側には注意が向けられていないようだった。


 常式的ナヒトは二人から話を聞いた。インク=アウトと「刻印」のことだ。


 もちろん最初は話を信じなかった。森助船出は左手の甲に刻印を刻んだと言っていた。だが、それは見えないのだ。彼の左手には変わったところがない。疑うのも仕方のないことだった。


 森助船出は左手をすっと挙げた。


「見てろ」


 森助船出は指ぱっちんをした。パチッと快音が鳴った。同時に、森助船出の左隣に「何か」が現れた。一瞬のことだった。「現れる前」と「現れた後」の間など存在しないかのようだった。


 現れたのは森助船出だった。森助船出は二人に増えた。段停府あんは少しばかりの驚きを持って受け入れた。常式的ナヒトは言うべき言葉を失った。金魚のようにパクパクと口を開いて、閉じて、また開き、「嘘だろう?」と言った。


「びっくりしたろ?」

「びっくりするよな」


 二人の森助船出は同時に言った。そして片方の森助船出が、もう片方の森助船出の方を向いた。


「何かやってほしいことはあるのか?」


「いや、大丈夫。あんとナヒトに見せたかっただけなんだ」


「そっか。わかった―――あん。ナヒト。初めまして。オレは森助船出の『影武者』だよ」


「初めまして」と段停府あんは言った。


「左手に刻印が浮き出ていないほうが影武者ってことかな」


「その通り―――ほら、ナヒト。見てみろよ。刻印が浮き出てるだろう」


 本体である森助船出が、常式的ナヒトに手の甲を見せた。


 常式的ナヒトは近寄り、まじまじと見た。それはひょうたんのような形をしていた。丸っこいダンベルと言い換えてもいい。その形で黒い枠ができている。そして、その内側には五角形の模様があった。


「―――本当だ」


 森助船出は左手の甲を常式的ナヒトに見せたまま、もう一度、指ぱっちんをした。すると見ていたはずの刻印が消えた。同時に、隣にいた森助船出が消えた。


「見ての通り、『影武者』は合図一つで消せるんだ。そして、影武者が消えると刻印も消える。面白いだろう」


 常式的ナヒトは目を白黒させていた。


「面白い、というか、何というか、すごいね」


「あの日、撃たれた船出くんはその『影武者』だったんだね」


 段停府あんは苦々しそうに言った。不満をにじませた笑みを浮かべていた。


「そうだな。インクから刻印を貰って、使ってみたくなったんだ。親が家を出た後に影武者を出した。影武者って、カバンとか、服とか、ノートとかも分身させることができるんだけど、影武者を消せば同時に消える。だから、カバンだけは本物を持たせて学校へ送り出したんだ。授業をサボるにしても、ノートだけは取ってほしかったからな。指示したのは『午前中だけ、オレの代わりに学校生活を送ってみてくれ』だ。昼飯の時間に、校門のあたりで落ち合わせて、入れ替わる予定だった。誰かが違和感に気が付かないかって少し心配だったんだけど―――」


 森助船出は言葉を切った。


「学校にすらたどり着けなかったね」


「バスジャック犯に撃ち殺されるなんて誰が想像できるんだよ。バッティングセンターで目をつぶってバットを振って、一三〇キロの球を『ホームラン』の的に当てることのほうが、可能性としては高い」


「船出くん。たとえが微妙にわかりづらいよ」


「そっか」


「船出。影武者は死ぬと消えるものなの?」


「いや、意識を失うと消えるらしい。それから、分身してから約六時間経っても影武者は消える。二パターンだ。頭を撃たれてもすぐに消えなかったってことは、意識はかすかに残っていたんだろうな。おぞましい」


「段停府さんも、船出と同じようなことができるのかい? 分身とか」


 常式的ナヒトは聞いた。


「ううん。あたしのはね、船出くんのと少し違うみたいなんだ。多分」


「違う?」


「自分から超能力は使えないの。じゅどーてきってこと」


「能動、受動、の受動、ってことか」


「そうそう。受け身だよ、受け身。やられたら、やり返す。倍返しのカウンターパンチだね」


 段停府あんは「刻印は二の腕に入れてもらったよ」と指さしつつ、言う。


「あたしの刻印は『守護霊』っていうんだ。例えば、ボールを投げつけられたり、ナイフで切り付けられそうになると、勝手に刻印が働くんだよ。あたしが怪我をしないように『猿』が現れて、守ってくれるの」


「さる?」森助船出はピンとこなかった。


 だが、常式的ナヒトにはわかった。


「あの日、バスジャック犯がボロボロになったのは、それのせいだったんだ」


 常式的ナヒトは言ってからさらに思い出した。犯人の男は「猿?」と呟いていた。あの時は、段停府あんの刻印が働き、猿が現れたのだ。そして無残な姿に変えられた。命に別条はないということだが、今も病院で入院しているらしい。


 段停府あんは「そうみたい」と認めた。


「正直、インクさんから刻印を入れられた時は夢かと思ってたんだ。家に帰ってから、鏡で確かめてみても、何も見えなかったし」


「それはオレも思った」


 森助船出は同意した。


「でも、事件で初めて猿を出してから、夢じゃないってわかったんだ。あたしには刻印が刻まれてる。自分じゃ見えない位置にあるけどね」


「いま、猿は出せるのか?」


「出そうとすれば出せると思う―――でも。出したくない。心配なことがあるんだ」


「心配なこと?」


「『守護霊』はボディーガードみたいなものなの。あたしが怪我しそうな時とかに勝手に働く。そして守ってくれる。だから、例えばだけど、船出くんかナヒトくんがあたしのことを殴ろうとすれば『猿』は現れるんだよ。『出す』ことだけなら難しいことじゃないんだよね」


「それで?」


「心配なことっていうのはね、あたしには猿をコントロールできないことなの。猿は勝手に出てきて、あたしを守るために暴れるだけ。ナヒトくんならわかるんじゃないかな。ほら、バスジャックの事件ではさ、犯人のことをぐちゃぐちゃにしちゃったわけじゃない」


 常式的ナヒトは事件の光景を思い出した。あまり思い出したくはなかった。犯人の顔は無残なものに変わった。肌色は青と黒と赤に変わった。顔の形は歪んだ。常式的ナヒトは記憶を振り払うように努めた。言った。


「いや、実はさ、僕は段停府さんの言う『猿』の姿を見ていないんだ」


「そうなの?」


「うん。見てないっていうか『見えなかった』のかな? そのほうがしっくりくるかも。犯人が『何か』に襲われているのはわかったんだけど、姿はまったく見えなかったんだ―――犯人は見えていたみたいだったけどね」


 森助船出は考えこみ、意見を出した。


「それは猿が『あん本人』と『被害を受ける側』にしか見えないってことになるのかな?」


「わからない。でも、ネットの記事を読んだ限りだと、バスジャック事件で『猿』の話は全然出てきてないよ。乗客の人たちも一部始終は見ていたはずだから、目撃証言ゼロってことは、ほかの人にも見えていなかったってことになるんじゃないかな」


「見える、見えないはともかく、あたしには猿をコントロールできないものなんだ。勝手にあたしを守ってくれる。守る反応をしちゃう―――だから、仮に猿を見ようとして、あたしにボールを投げてみたり、軽く殴りかかろうとしてみるだけでも、二人がとんでもなくひどい目に遭う場合もあり得るんだよ。それはホントに見たくないから、やめてほしいんだよね」


 段停府あんの声色がにわかに硬くなったのを察し、森助船出は「わかった、わかった」と慌てて言った。


「『猿』は別に見なくてもいい―――でも、インクから刻印の説明は他に受けていたら、できれば詳しく聞かせてほしいんだ」


「うん。それはぜんぜんいいよ」


 段停府あんは頷いた。


「守護霊ってさ『自分の身に危険を感じたら』出るものだって説明したでしょう」


「ああ」


「でもね、たとえ、自分が怪我しそうな状況でも、刻印が働かないケースがあるんだって」


「そんなケースがあるのか」


「まず、『危ない』って認識はさ、あたし自身が決めるものなんだよ―――例えば、過保護な親が『公園は子供にとって危険な場所』って認識を持ってても、子供自身は『公園は安全な場所。楽しい場所』だって思われていたりするでしょう。それと同じ。同じ場所、同じ状況でも、それを危険かどうか決めるのは人によって違うかもしれないの。船出くんが『危ない』って思っていても、あたしはそう感じていないかもしれない。トラックが突っ込んできていても、あたしは『まあ大丈夫でしょ』って思うかもしれない。そういう時に『猿』は出てこないわけ」


「ああ、何となく。わかる」


「でも、段停府さん。バスジャック事件の時はどうだったの?」


 常式的ナヒトはあごに手を当て、考えていた。


「『守護霊』は段停府さんが危ないって思ったら働くんだよね」


「うん。そうだよ」


「だとすると疑問が残るんだ。あの日、犯人が発砲した瞬間に『守護霊』は働いたみたいだけど、撃たれる直前に、段停府さんは犯人の方を見ていなかったじゃないか。『危ない』って思う暇がなかったと思うんだけど、どうなの?」


 段停府あんは唸った。


「多分だけど、あたしはキョクドに緊張していたから、撃たれる前から『危険だ』って無意識に考えていたんじゃないかな? それで銃声がきっかけになって『猿』が現れた。あたしを守ってくれた、ってことだと思うんだよね。推測でしかないけど」


「うーん。筋は通ってる、のかな?」


 常式的ナヒトは首をひねった。

「オレの刻印と比べると、あんのは使える条件がだいぶ曖昧だよな」


「確かに」


 同意してから段停府あんは思い出した。


「そういえば、関係ない話だけど、『別名は積極的平和主義ザルだ』みたいなことをインクさん、言ってたなあ」


「せっきょくてきへいわしゅぎ?」


「平和の維持のために平和を脅かすものを叩き潰せ、って考えらしいよ。インクさんいわくだから、正確な意味とは違うかもしれないけど」


「あとできっちり調べておかないと、右からも左からも、しこたま殴り飛ばされそうな言葉だね」


「そうだな―――あ。でも、納得した」


 森助船出は言った。


「もし、猿の目的が『あんを守る』だけだったら、犯人を怪我させなくてもよかっただろ。発砲してきた弾をすべて受け止めるか、叩き落すだけでいいはずじゃないか」


「言われてみれば。その通りかも」


 段停府あんは同意した。


「守護霊は『あんを守る』もので、その方法は『あんへ危害を加え得るものを壊す』になるわけだ」


「壊す、ねえ」


 常式的ナヒトは物騒な響きの言葉だと感じた。


「思ったんだけど、野球ボールが偶然飛んでくるだけで大惨事にならないか? 偶然、打ったバッターのボールがあんに飛んでいっただけで、猿にギタギタにされることも、あるの―――かな?」


 森助船出は口に出し、言い淀み、結局最後まで言い切ってしまった。


 段停府あんの顔は「げっ」と引きつった。


「え、なに? ちょっと待って。そういうこともあるの?」


 段停府あんは不安げな表情を浮かべた。森助船出は弁明した。


「いや、まだわからないだろ―――そうだ。せっかく『影武者』があるんだ。実験してみないか?」


「実験?」


「『影武者』にボールを渡して、あんに投げさせるんだよ。それで猿がどういう反応を見せるのか確かめる。はじき返すだけで終わるのか。影武者を攻撃するのかを、だな」


「船出。いくら影武者でも、猿に殴られるところを見るのは嫌だよ」


「大丈夫だよ。オレの意思で消せるから。影武者が危ない目に遭いそうなら、すぐに指ぱっちんで消す。それならいいだろ? あん?」


 段停府あんは気乗りしない様子だった。


 それでも、少し間をあけて、強く頷いた。顔を上げた。


「やろう。だけど船出くん。ナヒトくん。二人とも危なくなったら、すぐに逃げてね。お願いだから」

 

【三人】:


 実験は何度か行われた。いくつかの種類が行われた。時間はそれほどかからなかった。場所はいつでも河川敷だった。瓦橋の下だった。


 結論から言えば、段停府あんの「猿」は思ったよりも攻撃的ではなかった。緊張状態と比例して攻撃性が高まるらしい。それでも何より優先されるのは「段停府あんの身の安全」らしかった。


 最初の実験は「ボール投げ実験」だった。


 森助船出の分身は段停府あんに野球ボールを投げた。硬球だ。石のように硬い。当たると痛い。速度によっては凶器になる。人に向かって投げてはいけないものだが、毎日、人に向かって投げられているものだ。


 影武者には本人の運動能力が反映されていた。森助船出は運動が苦手だ。体力テストのソフトボール投げでは十五メートルも投げられない。彼が投げた硬球ボールはへろへろの山なりだった。


 それでも段停府あんは飛んできたボールに身をこわばらせた。グローブなしの丸腰だった。彼女が反射的に背中を向けると、「猿」は現れた。


 猿はボールを素手でキャッチし、その場に投げ捨てた。


 ボールを投げた影武者に飛びかかるようなことはしなかった。少なくとも、森助船出の投げる弱弱しいボールでは「暴力」の対象にはならないようだった。


 ここでわかったことがもう一つあった。


 森助船出は猿を見ることができた。影武者だけでなく、「ボール投げ」に関わっていない本体もである。


 一方で、相変わらず、常式的ナヒトに猿は見えていなかった。


 影武者で何度か「ボール投げ実験」を行い、「ボールを投げた側の安全」を確認した上で、常式的ナヒトも段停府あんにボールを投げてみた。


 猿は現れた。ボールを叩き落した。


 だが、やはり常式的ナヒトには見えなかった。


「『加害者と被害者だけが見える説』はなくなったな」


 森助船出は言った。


「もしかして、『刻印』を持ってる人にしか見えないとか?」


 段停府あんは推測を口に出した。


 森助船出は首を振った。


「その可能性もあるけど断定はできないな。『刻印』が条件じゃなくて、例えば、『血液型がA型の人には猿が見えます』みたいなことも考えられるだろう。『見れる』、『見れない』を決定づけるものが何なのかは、まだ、はっきりとは言えないさ」


「そうだね。まあ、見れてもあんまり意味はないんだけど」


「ああ。実験を続けよう」


 実験は三日もかからない程度で終わった。


 森助船出の分身は竹刀を持ち出して、段停府あんに襲い掛かった。森助船出の分身は手首をぽっきりと折られた。実験中における一番の被害だった。


 森助船出の分身は軽いパンチを段停府あんに繰り出した。猿は現れなかった。ひどく弱弱しいパンチだった。拳は段停府あんの胸に当たった。ひどく怒られた。


 森助船出の分身は水鉄砲を段停府あんに発射した。市販の水鉄砲にしては強力なものだった。猿は現れなかった。顔に当たった。ひどく怒られた。


 思いついたものを繰り返していったが、まさか刃物のような凶器を持ち出すわけにもいかなかった。周囲の目も気になって、実験は終わった。


「そういえばさ、ずっと『猿』って言っているけど、あんの出しているのは猿じゃないぜ」帰り際に森助船出は言った。


 段停府あんは「いや、猿でしょ」と言い返した。


「あれは『フレンドリーチンパンジー』だ。大型霊長類で『猿』とは異なるんだよ」


 説明したが段停府あんは首をかしげるだけだった。


「よくわからない」


「僕も見えないからなあ」


 森助船出は頭をかいた。


「まあ、どうでもいいことかもしれないな」


 それから三人は刻印のこと、超能力のこと、それから不意に起きたバスジャック事件のこと、その三つについて何度か話し合った。


 だが、出た結論は大したものではなかった。


「意味不明なことばかりだった」にしかならなかった。


 バスジャック事件は衝撃的なものだった。


 だが、超能力とは関係なさそうだった。


 はからずも二人が超能力者になったことは衝撃的なものだった。


 だが、なって損はなかった。日常生活を送るうえで問題はなかった。


 インク=アウトの言った通り、刻印は見えないようになっていた。


 インク=アウトは「誰かに話さないほうがいい」と言っていた。


 だが、もとより二人は見せびらかそうとは思っていなかった。


 つまるところ、事件が過ぎ去った後の三人には、特に向き合うべきことがなかったのである。唯一すべきことは、バスジャック事件のことを忘れることだけだった。以前と同じように、学校へ通い、勉強をし、進学と将来のことを考えなければいけなかった。


 それ以外にやるべきこともなかった。そう思っていた。




 しばらくして別の事件が起きた。


 三人が通う私立モハヤ巨大都市学園の生徒会会長である霧津純周が何者かに襲われた。


 三人とも知らない生徒だった。だが、その事件の猟奇性には注目せざるを得なかった。霧津純周は、肩の付け根から、左腕を切断されていたからだ。

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