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魔女の子たちと義理の子たち  作者: 佐藤裕樹
2/3

第一幕:「昔には帰れない」②

【森助船出】:ランボーは「2」以降のほうが好き。


 事件当時、森助船出は自宅にいた。


 ベッドで寝転び、カバーのついていない文庫本を広げていた。母親の私物だ。何度も読んだものでもある。どこかの国の社会心理学者が書いたブラック・コメディだ。


 初めて読んだときは笑った。そして惚れこんだ。今ではニヤリともしない。新鮮味はすでに失われていた。


 それでも彼はその本が気に入っていた。


 何度も読んだ。繰り返し読んだ。


 森助船出は母親と二人暮らしだった。三年前に母親は父親と離婚した。不仲によるものではない。互いの無関心さが原因だった、と両親は周囲に説明していた。実際のところはどうなのかわからない。決定的な理由はなかったのではないかと森助船出は推測していた。


 森助船出には知る由もなかったが、両親はセックスレスだった。


 母親は浮気をしていた。


 父親はそれを知っていた。


 母親は知られていることも知っていた。


 浮気は長期的なものではなかった。

 

 短期的に、別人と、何度か繰り返していた。


 父親は何も言わなかった。二人は夜になるとどうでもいい話をして笑っていた。


 森助一家に不協和音はなかった。

 

 離婚をする、と告げられても森助船出はそれほどショックを受けなかった。理由も聞かなかった。母親も父親も謝らなかった。淡々としていた。森助船出もそれを受け入れた。


「わかった」とだけ言った。


 母親も父親も働いていた。経済状況は良好だった。生活や進学について悩むべき問題はなかった。


 学校を変える手続きが面倒だったので「母さんの方で暮らすよ」と森助船出は言った。


 離婚後も、森助船出と父親との関係は良好だった。しばしば夕食に連れていかれた。母親も父親と険悪なわけではなかった。離婚後も、三人で食事へ行くことはあった。


 再婚の話は出てこなかった。それでよかった。深く考えるべきことではないと思った。


 午前八時過ぎ。母親は仕事にもう出ていた。


 本来なら、森助船出も家をとっくに出ている時間である。


 しかし、その日、彼は家にいた。


 あることを試したかったのだ。


 それは結果が出るのに時間がかかるものだった。


 待つのは少し退屈だった。だが、待つほかなかった。


 その焦れったさが心地よくもあった。彼はなりゆきを楽しんでいた。


 彼は自分の左手の甲を見つめ、それから目を閉じた。


【段停府あん】:こしあんより粒あん派。

 

 昨日の夕暮れ時。段停府あんは第七番のバス停に立っていた。


 校舎の北西に位置しているバス停だ。バスを待っていた。


 そこで不審者と出会った。不審者はインク=アウトと名乗った。


 放課後、段停府あんは図書館で課題に取り組んでいた。数学の課題だ。量が多く、おまけに難解だった。授業を聞いてもわからないものだった。頭を抱え、ひねって、取り組み、それでも二時間かかった。解けない問題がいくつもあった。


 あの数学の教師はあたしたちが苦しむ姿を想像して楽しんでいるに違いない。たぶんおそらく絶対に。


 段停府あんはそう思った。


 校舎を出ると陽は沈もうとしていた。空は橙色に染まっていた。雲は黒かった。春風は冷たかった。


 段停府あんはぼんやりとしていた。


 向かいの歩道に設置してある自動販売機が目に入った。


 熱いコーンポタージュが飲みたいと思った。


 段停府あんは、缶の底に溜まりがちなコーンを一粒残らず食べることができる特技を持っていた。


 彼女の自慢だった。

 

 景色が変わったのはほんの一瞬のことだった。

 カメラの画面が切り替わるようだった。

 段停府あんはバス停に立っていたはずだった。

 彼女の視界には自動販売機があったはずだった。


 それが消えた。


 何故か、段停府あんは小さな白い部屋の中に立っていた。


 二つの真っ赤なソファが視界に入っていた。

 

 段停府あんは困惑した。


 一歩下がると、誰かにぶつかった。

 

 景色が変わったことに気を取られていたが、先ほどから彼女の右肩には手が置かれていた。


 パッと振り向くと、そこには男が立っていた。シワのないダークスーツを着た、背の高い男だ。髪はポマードで撫でつけてある。てらてらと光っている。


 彼は微笑を浮かべていた。営業マンらしいものだった。


「ようこそ。ボクの部屋へ」


 不審者ははっきりと聞こえる声で言った。


【続・段停府あん】:こしあんも好き。


 そこは巨大な豆腐をくり抜いたような部屋だった。


 八畳ほどの大きさだった。長方形だった。


 壁と床は一面が白かった。絵の具の白を塗りたくったような重い白だ。


 ただし天井だけは違った。全体が白く柔らかい光を放っていた。


 段停府あんの右手側に、一つだけ、はめ込み式の窓があった。


 だが、窓はスモークガラス製で外の風景は見えなかった。何のための窓かわからなかった。

 

 彼女の目の前には真っ赤なシングルソファが二つあった。ローテーブルを挟んで、向き合って設置してある。


 全体としては会議室のような場所だった。とてもうさんくさい。デザイン重視の会議室だ。


「あの、これはどういうことなんですか?」


 段停府あんは不審者に聞いた。若干、声はうわずっていた。彼女は冷静ではいられなかった。歩道を歩いている時に、何の前触れもなく、足元で爆発が起きたような感覚だった。彼女はそれに巻き込まれた。


 不審者は落ち着き払っていた。段停府あんに微笑みかけ、「落ち着いて」と言った。


「まずはソファに座って話をしよう」と提案してきた。


 不審者は先に片方のソファへ座った。


 手で「どうぞ」と促してきた。


 段停府あんは迷った末に従った。カバンを脇に置き、正面に設置されているソファに座った。彼女は不安だった。


不審者は自己紹介を始めた。


「ボクの名前はインク=アウト。超能力者だ。よろしくね」


「ちょう?」


 段停府あんは聞き間違いをしたかと思った。しかし、聞き間違いではなかった。


「超能力者だよ。ボクは不思議な力を持っている人間なんだ」


 インク=アウトはすました顔で、平然と、恥ずかしげもなく言い切った。


 見た目から判断すれば、彼は二〇代後半に差し掛かかったくらいの歳だった。


 インク=アウトが不審者であるかどうかはわからなかった。


 だが間違いなく、インク=アウトは「距離を置くべき人間」だった。


 段停府あんは確信した。引いた。不安を強めた。何をされるのかわからなくなった。


 それでも段停府あんは「段停府あんです」と名乗り返した。


 逃げ場がなかったからだ。部屋の中にドアらしきものは見当たらなかった。


 彼女にとれる選択肢は多くなかった。逃げ出したい気持ちをこらえた。


「いい名前だね」とインク=アウトは社交辞令的に言った。


 段停府あんは最初に比べると少しだけ気分が落ち着いていた。


「謎の人物」だったインク=アウトが「関わるべきではない人物」であると確定したからだ。まったくわからないよりは、わかっていたほうが多少なりともましだった。


彼女は聞いた。


「それでインクさん。あたし、バス停にいたはずなんですけど、どうなっているんです? さっき、『ここはボクの部屋だ』みたいなことを言ってましたけど、何か知っているんですか?」


 インク=アウトは「もちろん」と答えた。


「まず、最初に言った通り、ここはボクがつくった部屋だ。そして、ボクはキミをここへ招待した」


「つくった? 招待した?」


「ああ、超能力を使ってね」


 段停府あんは直感的に思った。


 コレはやばい話だ。おそらく多分。


 彼女は表情に出さないように気を付けた。


 段停府あんは、神や超能力、幽霊や未確認飛行物体の類が関わる話が好きではなかった。


 信じている、信じていない、の話ではない。それらは、現代社会において、金か、金か、あるいはお金か、はたまた金か、社会規範から逸脱した思想としか関わりを持たないものだからだ。


 ゴールデンタイムで放送されているテレビ番組の所有物だった。

 コンビニに並ぶ夏の風物詩であった。

 怪しげな新興宗教団体と手と手をつないで踊っているお友達だった。


 と、彼女は信じていた。


 実際のところ、超能力が本当に存在するかどうかはわからなかった。


 存在しないことを完全に証明することはできないのだから、頑なに否定することもない。


 否定したとて説得力に欠ける。


 だが、それはどうでもいいことだ。

 

 段停府あんにとって「超能力」という存在は、よこしまな企みを隠すためのペールと同等のものであった。


 詐欺師が浮かべる笑顔だった。


 警戒してしかるべきものだった。


 すごい、すごいと感動すべきものではなかった。

 

 段停府あんが言葉を探していると、インク=アウトは頬を人差し指でかいた。


「やっぱり、信じられないんだろうね」


 段停府あんは「まあ」とだけ言った。


「信じてません」と、はっきり認めることはためらわれた。


「ボクも説明するだけで信じさせようとは思ってないよ。見てもらって、キミ自身に信じてもらったほうが早いからね。百聞は一見に如かず。目の前のテーブルに注目してもらっていいかな」


 インク=アウトはローテーブルの中央を指さした。


 段停府あんは言われた通り、指先に注目した。


 インク=アウトはもう片方の手で、指ぱっちんをした。


 親指と中指を合わせ、「パチッ」と音を鳴らした。綺麗な音だった。


 ほぼ同時に、指先のあたりに湯呑が二つ現れた。


 段停府あんは「おお」と感嘆した。


「マジックですか?」


「マジックではないんだよね。段停府さん。ちょっと好きな場所を指さしてみてよ。どこでもいいから」


 段停府あんは眉をひそめた。何か言おうと思ったが、話を長引かせるだけだと思った。今度も大人しく従った。右手をソファの脇に出し、床を指さした。


「それじゃあそこに注目」


 インク=アウトはまた指ぱっちんをした。


 またもそこに湯呑みが現れた。


 今度は五つだった。湯気が出ていた。


 段停府あんは目を丸くした。


「何です。コレ?」


「最後にテーブルの上を見てよ」


 インク=アウトは再び指ぱっちんをした。


 ローテーブルの上を埋め尽くすほどの湯呑みが現れた。

 スーパーやコンビニで時々みかける、おろしたての新商品の山に似ていた。

 綺麗に整列していた。


 段停府あんはぎょっとした。


 驚きの余韻が消えないうちに、インク=アウトはもう一度指を鳴らした。

 そしてたくさんあった湯呑みは消えた。二つ残った。インク=アウトは片方を差し出してきた。


「どうぞ。ほうじ茶だよ。じんばる通りにあるお茶屋さんのものだ。ボクの最近のお気に入りでね。なかなか美味しいと思うよ」


 段停府あんはあっけにとられていた。


 それでも彼女は湯呑を受け取った。

 手に持った。

 重みがあった。

 湯呑みは熱かった。

 香ばしい香りが漂っていた。

 一口飲んだ。

 美味しかった。

 「おいしい」と思わず言った。


「ボクが超能力を使えるのはこの部屋の中だけだ。それでも、いま見てもらった通り、何でも出せるし、どこにでも出せる」


 インク=アウトは続けた。


「ただ、部屋の中でも『何でもできる』と言うわけじゃない。例えば、お客さんに対して物理的に危害を加えることはできないし、心を読んだりすることもできない。意思を変えさせたり、記憶を消したりすることもできない。せいぜいが、食事や飲み物を出しておもてなしをしたりくらいのものさ」


 段停府あんは黙って聞いていた。ほうじ茶をすすった。緊張で乾いた口の中を湿らせた。インク=アウトの話を聞いてから、少し考えた。聞いた。


「インクさん。ここにフクロウの置物って出せますか?」


 段停府あんはテーブルの上を指さした。まだ疑っていたからだ。


 インク=アウトが出したのは湯呑みだけだった。


 トリックありきのマジックの可能性もあり得ると思っていた。


 湯呑み以外を出せるのか確かめたかった。


 フクロウの置物を指定したことに深い意味はなかった。彼女は昨晩、焼き鳥を食べた。そこから連想した。


 インク=アウトは段停府あんの意図を察したようだった。


「うん。いいよ」と快諾した。指ぱっちんをした。


 段停府あんが頼んでから五秒もたたなかった。


 メンフクロウの剥製が、フッと現れた。最初からそこにあったようだった。


 段停府あんは絶句した。超能力、というものなのかはわからないが、インク=アウトは「ありえないはず」のことを再びやってみせたのだ。


 彼女は手を伸ばし、おそるおそる剥製に触った。柔らかかった。軽く押すとにわかにへこんだ。


 幻想や妄想とは思えなかった。質量があった。


「ボクが不思議な力を持っていることはわかってもらえたかな?」


 段停府あんは剥製から手を引っ込め、ぎこちなく頷いた。そうするほかなかった。


 インク=アウトは微笑んだ。そして再び指ぱっちんをして、メンフクロウの剥製を消してしまった。


「さっきの質問に戻ろう。ここはボクの作った部屋だ。そして、ボクがキミを招待した。瞬間移動でね。バス停からここへ『飛ばした』んだ」


「瞬間移動?」


「その通り。そして、この部屋に出口はない」


 段停府あんは改めて部屋の中を見渡した。やはり、窓以外に部屋の外と繋がっているものはなさそうだった。


その窓にしても、「外」と繋がっているのかどうか疑わしかった。


「―――あたしはここから帰してもらえるんですか?」


 彼女は聞いた。緊張していた。自分が何をされるのか。どうなるのか。インク=アウトの目的は何なのか。そのすべてが見当もつかなかった。


 インク=アウトは答えた。あっさりとしていた。


「いや。帰ることはできるよ。ただし、あるお願いを聞いてほしいんだ」


「お願い?」


 段停府あんは身構えた。「解放」に対してどんな対価が要求されるのか、と怯え、震えた。それでも気を強く持った。


インク=アウトの言葉は想像だにしないものだった。


「キミにも超能力者になってほしいんだ」


 それを段停府あんの思考は停止した。


 様々な疑問が浮かんで、飛んで、弾けて、消えた。


「あたしが?」


 何故かパーマンのイメージが頭に残った。


【小梅】: ことあるごとに友達に梅干しのお菓子を勧められることが悩み。


 小梅は「うどん探偵事務所」で働いていた。小さな事務所だ。

 

 彼女は探偵うどんの助手だった。


 彼女は私立モハヤ巨大都市学園の生徒でもあった。二年生だ。


 彼女は高等部のメッチャエリート進学科に所属していた。総勢三〇〇名。一学年約一〇〇名。


 この科に所属するのは変人や奇人が多かった。だが、みなおしなべて情報処理に秀でていた。物事を理解し、整理する力においては全国でもトップクラスである。


 小梅も同じだった。彼女は一度授業を聞けば、大抵のことは理解できた。


 わからなかった問題も解説を聞いて、読んで、解けば、次から間違えることはない。繰り返すうちにコツや傾向を理解する。応用が利く。


 もっとも記憶力は並みであり、勉強時間はそこを踏まえて費やされていた。


 その日、彼女が事務所に帰ってくると、うどんはいなかった。彼は出かけていた。


 うどんの机の上には本が山積みになっていた。


 うどんは読書が趣味だ。気に入った著者やジャンルを見つけると、その本を買い込んで「山」をつくる。ヘビが丸呑みした獲物を消化するように、ゆっくりと、時間をかけて読んでいく。山はそうして消える。


 うどんが読む本のジャンルは決まっていなかった。小梅には予測不能だった。小説や学術書、論文や漫画。自己啓発の本からビジネス実用書まで、何を基準にしているのか全くわからなかった。わかるのは節操がないということだけだ。好奇心旺盛と言い換えてもいい。どちらともいえた。


 うどんは二か月前までウィルス関連の本や小説を買い込んでいた。しかし、その「山」の消化後には少女漫画を読み始めた。今はやりのものだった。小梅は不可解に思いつつも喜んだ。彼が読み終わった後にそれを借りて読んだ。


 現在、うどんの机の上には古典文学が積んである。それほど量は多くない。四冊だけだった。「昔の人間も考えることは今と大して変わらない」と書かれたメモが置いてあった。小梅は山の一番上の冊子を取って、めくってみた。字体こそ現代語には直されていたが、文体は原文ままだった。下部には解説がついていた。小梅には興味が湧かなかった。とても読む気にはなれなかった。


「地区の集会があるから今日は遅くなる。飯はいらないからな」

 うどんは、朝、家を出る前にそう言っていた。小梅はそれを思い出した。普段、探偵の仕事など皆無に等しいのだから、仕事で事務所を空けているという考えは思いつきもしなかった。


 小梅はカバンを置くと、事務所内にあるソファにどっかりと座り込んだ。先日、うどんの同業者であるブラックベリーが持ってきてくれたプリンを食べた。スプーンですくい、口に運びながら、テレビのリモコンを掴んだ。


「面白い番組やってないかな」とチャンネルを変えていった。


 小梅の目に留まったのはニュース番組だった。

 

 芸能人のコメンテーターがある事件について、「今時の若い連中はね」と苦言を呈していた。


 モラルの低下を嘆いていた。


 親が厳しくしつけるべきだろう、と意見を述べた。


 小梅には親がいなかった。だから、「親は子をしつけなければいけないものなのか?」と思った。


 うどんは小梅をしかったりすることはなかった。失敗したらアドバイスをしてくれる。それだけだ。


 男のコメントが終わると、改めてニュースのおさらいがVTRで流れた。


 小梅はすでに知っているものだった。よく知っているものだった。


 昨日の午後、屋敷市内で発生したバスジャック事件の話だ。犯人は捕まった。


 小梅はプリンを食べ終えると、立ち上がった。スプーンを洗おうとした。水道で蛇口をひねり、スポンジを握り、腕をまくった。


 その時に右腕の内側に刻まれた「刻印」が露出した。タンポポの花をモチーフにしたようなものだった。鈍く、青く、光っていた。いけない、と小梅はすぐに腕を隠した。


 小梅は事務所の一階にある自分の部屋に戻った。勉強を始めた。うどんが帰ってくるまでそれは続いた。


【段停府あん】: プリン派かヨーグルト派かと言われたら「焼きプリン派」。


 段停府あんは「豆腐部屋」に監禁されていた。


 もう二時間は経ったかな、と彼女は思った。そして考え込んでいた。インク=アウトの「お願い」を受け入れるべきか、否か。ということである。


 インク=アウトは説明を終えると、「好きなだけ考えてくれ。時間はたっぷりあるから」と言った。腕を組み、ソファで目をつぶった。インク=アウトは段停府あんの決断を持っていた。のんびりとしていた。ように見えた。


「インクさんが不思議な力を持っていることはわかりました」


 二時間前、段停府あんは言った。インク=アウトは「超能力者」であることを認めた。その前提を持っていた。


「でも、どうしてあたしを超能力者にしたいんですか? そもそも、できるものなんですか? それがわからないんですけど」


 インク=アウトは考えこむような仕草を見せた。それから口を開いた。


「―――前者の質問には後で答えよう。だが、後者に関しては間違いなく『できる』と言える。ボクはキミを超能力者にすることができるんだ」 


「あたしも指ぱっちん一つで、何でも出せるようになるってことですか?」


 段停府あんは中指と親指を合わせ、音を鳴らそうとした。音は鳴らなかった。


 ぺちと柔らかい音が鳴った。彼女は指ぱっちんで音を鳴らすことができなかった。


 あとで練習しようかな、と思った。


 インク=アウトは首を横に振った。


「キミが使えるようになる超能力はボクのものとは違うんだ」


「そうなんですか」


「ああ。例えば、ドラえもんに秘密道具が出てくるだろう」


 段停府あんは虚を突かれた。まさかこんなところで「ドラえもん」という単語が出てくるなど思いもしなかったからだ。それでも彼女は平静を装った。


「秘密道具って、タケコプターとか、どこでもドアみたいな?」


「その通り。ボクのいう超能力は、ドラえもんの秘密道具を一個だけ持っているような状態のことなんだ。ボクみたいに『特殊な部屋をつくる力』もあれば、『人がどこにいてもすぐにわかる力』みたいなものもある。種類はいくつもあるが、複数は持てない」


「超能力って『ものを大きくする光を出す』みたいなものもあります?」


「それはビッグライトだね」


「わかってくれましたか」


「まあね。だが、残念ながらないよ」


「そうですか」


段停府あんは巨大なケーキを思い浮かべていた。


「もし、キミが話を受けてくれるなら、ボクはキミに『守護霊』という超能力を渡すことになる」


「守護霊?」


「自分の身体に危害が加えられそうな時、自動でそれを防いでくれるものなんだ」


「なんか。超能力っぽくないですね」


「だが、便利なものだよ。持っていて損はない。例えば、野球ボールが飛んできた時とか、トラックが歩道に突っ込んできた時に力を発揮するんだ。『危ないな』って思える状況になるとそれを防いでくれる」


「防ぐ、って具体的にはどんな風に、です?」


「猿が出るんだ」


「さる?」


「正確には―――そう、確かフレンドリーチンパンジーという種の霊が現れるんだよ。知ってるかな? 知らない? まあいい。ボクも詳しくは知らないからね。とにかく。その猿が守ってくれるのさ。野球ボールが飛んできたら弾いてくれるし、トラックが突っ込んできたら進路方向を変えてくれる。あるいは止めてくれる。すごく貴重な超能力だよ」


「貴重、ですか」


 段停府あんにとって、超能力の種類の希少性など気にするポイントではなかった。関心がなかった。


 彼女にとって大切なのは一つだけだった。


「とにかく。その超能力を受け取れば、あたしはここから帰れるんですね?」


「その通り」


「超能力者になると寿命が縮むとか、肩がこりやすくなるとか、そういうことはあります? 超能力のデメリット的な」


「ない。まったくない。秘密道具を持つのと同じようなものだって、さっき話しただろう。スモールライトを使って寿命が縮んだりするかい?」


「しませんね」


「だろう」


 それとこれとは話は違うのではないか、と段停府あんは思った。言いはしなかった。


 別の疑問を口に出した。


「それで、どうやってあたしを超能力者にするんです?」


 段停府あんは、自分も不思議な力が持てると言われても、実感が湧かなかったし、「本当にそんなことができるのか」と疑っていた。そこは変わらなかった。


 インク=アウトは超能力者かもしれない。それは真実かもしれない。


 しかし、そうであったとしても、話の内容すべてが本当のことであるわけではないのだ。


 一部が本当のことで、一部が嘘である場合もあり得るのだ。


 それでも彼女は「インク=アウトの言葉が真実であると信じ込んだ」ように振る舞っていた。


 そうするほうが話を円滑に進められそうだったからだ。


 インク=アウトは段停府あんの言葉を待っていたのか、無言のまま、スーツの上着を脱いだ。


 段停府あんが「何をするのか」と身構えると、インク=アウトはシャツの袖をまくった。


 右腕の手首の外側を、段停府あんに見せつけてきた。そこにはタトゥーが彫られていた。


 小さなものだ。黒い正方形の枠の中に葉脈のような模様がある。太い一本の脈と、そこから出た数本の細い脈だ。段停府あんは怪訝な表情を浮かべた。


「タトゥー、ですか?」


「『刻印』というものなんだ。これが超能力の元さ」


「超能力の?」


「この刻印を身体に刻むことで超能力者になれるんだ。いうなれば、この刻印が秘密道具なのさ」


 段停府あんに緊張が走った。彼女は成り行きを察した。


「―――それって、あたしにもそのタトゥーを彫るということですか?」


 インク=アウトは小さく頷き、肯定の意を示した。


「タトゥーをいれるなんて、あたし嫌ですよ。絶対」


 段停府あんは両手を前に突き出し、否定した。


 インク=アウトは困った様子も見せなかった。微笑を崩さず、淡々と聞いてきた。


 否定されることに慣れているようにも見えた。


「どうしてタトゥーを入れるのが嫌なんだい?」


「それは―――」


 と、段停府あんは言葉を詰まらせた。彼女がタトゥーを入れることを拒んだのは、直感的に抱いた嫌悪感からだった。


「タトゥーを身体に入れることは間違っている」という固定観念によるものだった。そこに理屈はなかった。


「なぜ、人を殺してはいけないのか」というような問いと似たような性質があった。それは自明なものだった。改めて問い直すことをタブー視されがちなことだった。一般的に、深く議論をされるべきものではなく、「駄目なものは駄目だからだ」としか説明できないものだった。


 だから問いに面し、段停府あんは怯んだ。


 それでも段停府あんは考えた。瞬時に、頭が働いた。


「嫌なものは嫌なのだ」と声を荒げることは、彼女の性格からするとほとんどありえない選択肢だった。


段停府あんにとっては恥になりえた。瞬時に理屈を生み出した。それを口にした。


「―――例えば、学校で見られたら問題になりますよ。タトゥーを入れること自体が嫌というわけではなくて、それを見られた時に処分を受けるかもしれないから入れたくないんです。あたしが通ってる学校は私立ですし、普通に退学とかありえますから」


 段停府あんの説明はほぼ満点に近かった。反論のしようがない。立派な理由だ。筋道だっていた。


 しかし、インク=アウトにとっては期待通りの答えだった。


「見られたらまずいから刻印を入れたくない、ということだね」


「その通りです」


「刻印が『普段は浮かび上がらないもの』だとしても?」


「どういうことです?」


 そこでインク=アウトの表情がにわかに変化した。微細なものだった。勝利の確信によるものだった。それが気のゆるみとなり、顔に現れたのだ。インク=アウトは言った。


「この刻印は力を使っている時にのみ、身体に浮かび上がるものなんだよ。まさに道具だろう。いま、ボクは部屋をつくっている。刻印の力を行使している状態だ。だからこそ見えている。けれど、部屋を閉じれば刻印は消えるんだ」


「それを信じる根拠は?」


「ない。けど、どうせボクはキミが刻印を受け入れるまで部屋を出すつもりはないんだ」


インク=アウトははっきりと言った。


「この話をするのは、刻印をキミが受け入れることを前提にした、事前説明だと思ってくれ。親切心からなんだ」


 段停府あんは唸った。


「一応、理由も聞かせてくれますか。さっき話しましたよね。どうしてインクさんは、あたしを超能力者にしたいんですか?」


 インク=アウトは頬を指でかいた。口元を硬く結び、間をあけた。逡巡しているようだった。


 それでも言った。


「実はね。ボクは追われている身なんだ」


「追われている? 誰に?」


「悪人に」


 段停府あんは苦笑した。


 インク=アウトは自嘲気味な表情を浮かべた。


 初めて微笑が崩れたように見えた。


「まあ、笑うよね」


「そりゃまあ、今日び、まっとうな『悪人』なんて戦隊物と変身ヒロインシリーズくらいにしか出てきませんからね」


「もっともだ。だが、ボクにとっては間違いなく悪人なんだよ。刻印を狙われているんだ」


「刻印を?」


「刻印があれば超能力者になれる。それを利用してあくどいことをしようとしている連中がいる。そいつらがボクを追ってるんだよ。脅して、刻印を奪おうとしているんだ」


「それは大変ですね」


「同情しないかい?」


「まったく。それよりも、この話と、あたしを超能力者にしたいって話が繋がってこないんですけど」


 インク=アウトは肩をすくめた。


「刻印を奪われると大変なことになる。だから、ボクは刻印をばらまくことに決めたんだ。奪われるくらいなら、誰かにあげてしまおうって話さ」


「それでどうしてあたしなんですか?」


「バス停に一人でいたからさ。それがたまたま目に留まったんだ―――要するに誰でもよかったんだ。超能力者にするのはね」


 インク=アウトの言葉に、段停府あんは軽いショックを受けた。


「今からでも他の人に変えるのは駄目なんですか?」


「それはできない。ボクにもあんまり時間が残されていないからね。キミも、もっとポジティブに考えたほうがいいよ。超能力者になれるんだ。刻印も周りの人には見られない。うまい話だと思うけどね」


「『刻印が見えなくなる』って部分が信じられないんですよ」


「信じてもらわなくてもいい。だが、さっきも言った通り、ここから出たければ了解してもらわなくちゃいけないんだよ」


段停府あんはインク=アウトを睨みつけた。それから「考える時間をください」と頼んだ。インク=アウトは「もちろん」と答えた。


彼女はじっくり二時間考え込んだ。部屋の中に出口はないものかと探った。


窓を殴りつけた。割れなかった。それは窓というよりも壁に近い感触だった。始めから「割れる」ものではなかったのだ。


さらに段停府あんは、隠し通路はないものかと思ってあらゆる場所を見渡した。だが、徒労に終わった。


インク=アウトの要求を受け入れるほかなかった。


「インクさん。本当にタトゥーは見えないんでしょうね?」


「安心していいよ。刻印を行使していない限り、見えないものだからね」


 インク=アウトはスーツのポケットから、黒い正方形のようなものを取り出した。小さかった。サイコロくらいの大きさだった。


「これをキミの身体に押し付ける。それで刻印は刻まれる」


「針みたいなものでいれるものかと思っていました」


「一般的なタトゥーとは違うんだよ」


 念のため、目立ちにくい二の腕に刻印をいれてほしい、と段停府あんは頼んだ。


 インク=アウトは「あんまりオススメしないけど」と言ったが、彼女は譲らなかった。


 万が一に備えた。インク=アウトは了解した。


 右腕にチクリとした痛みが走った。注射に近かった。


「それほど痛くはないし。すぐ終わる」とインク=アウトは言っていた。


それは正しかった。五秒もしないうちに、何が起こったのかよくわからないうちに、刻印は刻まれた。らしかった。


「はい。終わりだよ。これでキミも超能力者だ」


 インク=アウトが言ったあと、段停府あんは自分の右腕を見た。そこには何も見当たらなかった。パチパチと瞬きをした。拍子抜けをした。


「これで、本当に終わりですか?」


「ああ、聞きたいことがなければすぐにでも帰してあげるよ」


 段停府あんは頷いた。彼女はほっとしていた。同時にひどく疲れていた。ソファの脇に置いてあったカバンを持った。


「ああ、最後に一つだけ忠告しておくよ」


「忠告?」


「万が一のことを考えて、刻印のことは誰にも話さないほうがいい。もしかしたら、ボクを追っている人間が、キミのことを標的にすることもあり得るからね」


 指ぱっちんが再び鳴った。


 気づけば、段停府あんはバス停に立っていた。まだ夕暮れだった。周りを見てもインク=アウトはいなかった。


 二の腕を見ても、そこには何もなかった。

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