第1章 The Midnight Carnival 1
本日最後の講義が終わった。春の陽気に催眠術をかけられていた生徒たちは待ってましたとばかりに教室から出て行き、ものの3分でもぬけの殻となった。
(帰るか…)
帰るのにバスで30分、電車で10分。最寄り駅までもバスで20分かかる。
都内にこんな自然豊かな場所があり、なぜこんな山奥に大学があるのかという疑問はここの教授になって働くうちに消え去った。
多摩工科大学。いわゆる中堅私大で昔は東生大学という大学の理工系キャンパスだったものが分離したものらしい。
「ドクトルシュウジ! 質問があるんですが」
この学部では珍しい女子学生が話しかけてきた。といってもこの講義終了後に質問に来るのは大体決まって同じ人物であるので、この女子学生の顔も名前も覚えている。
「肝付教授と呼べ。まあ准教授だが。んでなんだ、今回の講義内容に質問されるようなことはないと思うんだが」
今日の私、肝付修二の講義内容は工業マーケティングの話だった。
ロボット工学を学ぶこの大学にて、自分は工業史や工業マーケティングの講義を行っているため、受講している生徒は少なく、やる気も低い。
「はい、今日鍵忘れちゃって、家の鍵は閉めてないから大丈夫なんですけど、ロビーから内に入れないことを家を出てから気付いてですね…」
「つまり鍵を貸せと」
鍵をポケットから出してコイツの目の前にちらつかせる。
「そういうことです。ありがとうございま〜す」
鍵を受け取ろうとしていたので腕を引いて遠ざけた。
「3点ほど物申したい。まず1点、それは質問じゃない、お願いだ。
ご近所だから仕方ないとはいえ、教室で話す内容じゃない」
「でももう誰もいませんよ」
「そういう問題じゃねえ。そして2点目、女子大生が鍵もかけずに家を出るのは防犯上問題がある。家に帰ったら下着がなくなっていたなんて言っても俺は驚かん。世の野郎どもは恐ろしいのだ」
「ドクトルは欲しいんですか、下着」
かなりイラつく表情をしている。
「答えはノーだ。その顔イラつくからやめろ。そして3点目、これが4回目だということだ。いい加減鍵を忘れるな。違うバスに乗るな。飯を切らすな。そして何よりもそれを俺に相談するな」
この女子生徒、桐谷玲奈はマンションの二つ隣に住んでおり、教授である自分に頻繁に助けを求めてくる非常識なヤツだった。
(相変わらず美人だな。だからと言って何も無いが)
桐谷は工学部の学生で長い茶髪をポニーテールにしており、身長も168cmと高くモデルのようないでたちをしていた。
このような女子を男子大学生がほっとくわけがないとおもわれるがここは工科大、そんなことはないのである。
「ご近所さんとの交流はだいじですよ〜」
「これを交流と呼べるのか、驚きだ」
こんなところを見られたらあらぬ疑いをかけられかねない。
教授と女子大生。実は二、三回他の教授に小言を言われたこともあるのだ。
(どうせこの後用事もないしさっさと帰ってしまおう)
「すまんが俺はもう帰るから鍵は貸せない。開けて欲しけりゃ俺の部屋のインターホンを鳴らせ」
「じゃあ一緒に帰りましょうよ。私も今日はこの講義で終わりなんですよ」
(ファッキュー。なぜそれを同じ学生に言わずに私に言うのだ)
こいつには男子生徒の中に隠れファンがいる。というかこいつを見るためだけに俺の授業を取っているやつもいる…らしい。
そいつらに言ったら泣いて喜ぶだろう。
かわいそうな教え子たちに思いを馳せていたがすぐに我に帰り、
「訂正だ。少し仕事が残っていた。鍵は貸してやるから先に帰れ」
君子危うきに近寄らず。このスキャンダラスな女の160kmの豪速球ばりの誘惑をうまく回避する。
「本当ですか。ありがとうございます。ではまた明日」
本当にこの女は誘惑するつもりなどなく鍵を借りれれば満足なのだろう。自分の手から鍵をもらうとすぐに教室を出て行った。
「鍵はポストに入れておけよ」
最後の言葉は聞いていたのだろうか?
そうして自分はヤツと時間をずらす暇つぶしについて考え始めるのである。
(帰りに駅でラーメンでも食って帰るか)
こうして教授としての1日は幕を閉じた