増殖1体目「増殖」その1
大幅改稿しました。
「うわあああああああああああ!」
空間の亀裂に頭の先まで沈んだ瞬間に、さっきまでの泥の中にいるような重苦しさはなくなり、僕は空へと放り出されていた。
右腕を襲う痛みを必死にこらえながら、すさまじい勢いで近づいてくる大地をにらみつける。目算で高さは大体四、五百メートルくらいだろうか。とてもじゃないがこんな高さから地面にたたきつけられて生きている自信はない。だけど、
「みず…うみ…!」
眼下に、かなり大きな湖があった。あそこに上手く着水できれば、あるいは―――。
僕はじたばたともがきながら身体が地面に対して垂直になるように体勢を整える。
「っ―――!」
ざっぱーん、と、映画でしか見ないような量の水しぶきを上げて僕は湖に着水した。なんとか体中の骨がバキバキに折れる――だなんてことにならずに済んだが、僕は今右腕が使えない。その上この出血で湖に飛び込んだため、僕の肉を目当てに肉食の水棲獣が襲ってくるかもしれない。僕は着水時に深く沈んでしまった体を左腕と足とで何とか水面まで引き上げた。
水を吸った制服が重いし、冷えた水に体の熱を奪われていくが、こんなところで死ぬわけにはいかない。僕は濡れた上着を脱いで内側に空気を溜めて水面にかぶせた。水難防止訓練の時に教わったやり方だ。水で湿って通気性の悪くなった上着は、空気をためることでちょうど裏返した桶を水面に浮かべるように浮きの代わりになる。といってもこれはあくまで応急処置に過ぎない。浮き輪やなんかと違って、こうしている間にもどんどん空気は抜けていってしまうし、傷口が水につかっているから血も止まってくれない。
僕は最後の力を振り絞って岸を目指して泳ぎ始めた。
◆ ◆ ◆
どれだけの時間がたっただろうか、僕は力なく岸に横たわっていた。酷い気分という言葉を、これ以上ないほどに噛みしめながら僕は死に体の四肢に力を込めて、よろよろと立ち上がって岸辺の木にもたれかかるように倒れ込んだ。全身が痛い。今すぐここで泥の様に眠り込んでしまいたかったが、そういうわけにもいかない。こんなところで眠れば、どうぞ食べてくださいというようなものだし、そもそも腕の傷をどうにかしないとまずい。湖は驚くほど生き物が少なく、おかげで襲われることなく岸にたどり着けたのはいいが、長時間傷口を生水に浸けたのは正直危ない。感染症の疑いがあるし、そうなると抗体を持たない異世界の細菌にやられてしまうだろう。今は何としてでもこの怪我を治療できる場所を探さなくては。
「今が昼だってのが救いかな……」
夜だったらもうどうしようもなかっただろうが、幸い今はまだ日が高い。この世界の一日が何時間なのかすら分からないが、それでも希望は持てる。
「空から落ちてきたときに、村っぽいのが見えたんだよな」
ここは森のど真ん中の湖で、見渡す限り緑一色だったが、ここからそう遠くない場所に家のような持己が連なっているのが見えたのだ。果たしてあそこまでたどり着けるのかという話だが、見たところ水源はここ以外に無さそうだし、ここに水を汲みに来ているはずだ。その時に使う道か何かが見つかればいいが。
そんなことを考えていると、ふいにポケットから電子音が鳴り響いた。慌ててびしょびしょのポケットから取り出したそれは、防犯ブザーのついた、いわゆるキッズケータイだった。
これは、高校生になり本格的にバイトをし始めた僕を気遣って院長先生が持たせてくれたものだ。いくらこれが一番安いとはいえ、それでも結構な負担になるだろうに。ただでさえ高校に通わせてもらっているんだからいいと断ったのだが、それでも何かあった時のために、と。だが、
「なんで、鳴ってるんだ……?」
水の中にあれだけ浸かっていて壊れていない防水性の高さにも驚きだが、ここは異世界、電波なんて通じているわけが――いや、まて、確か。
「確か、『次元接触』が起きてからしばらくは、亀裂が閉じても空間自体は繋がってるって話だったな」
携帯電話の画面を見ると、電波は一本だけ立っていた。そして、掛けてきたのは―――
「っ、孤児院!?」
僕は慌てて携帯電話の応答ボタンを押す。電波が相当悪いのか、かなりくぐもってはいたが、声が聞こえてきた。孤児院の弟分、里山宗助だ。
『アニキ、一体どうしたんだよ。どこにいるんだよ。今日はアニキの誕生日だから皆準備して待ってたのに』
ああ、そういえばそうだったかもしれない。こんなことになるなんて、とんでもない誕生日になってしまったが。僕は、大きく息を吸い込んで、電話に向かって声を張り上げる。
「いいか、宗助、悪いが兄ちゃんは帰れそうにない」
『? どういうことだよ』
訝しげに聞き返してくる宗助。だが、いつ電波が切れるか分からない。僕は早口で続けた。
「『次元接触』に巻き込まれた」
『は? 何言って』
「学校で起きたんだ、多分明日辺りにニュースで流れると思う」
『え、待って、アニキ、本当なのか?』
「僕がこんなくだらない嘘をつくかよ。いいか宗助、今から僕の言うことをしっかり聞けよ」
すう、と息を吸い込む。
「いいか、僕はこれからそっちに帰る方法を探す。何年かかったって必ずそっちの世界に帰ってみせる。約束だ。絶対に帰る。だから」
僕は、その言葉を強く噛みしめるように叫んだ。
「だから―――それまでみんなの事を頼んだぞ」
そう告げるのと同時に、携帯電話はツー、ツー、と音を立てた。電波が完全に途絶えたらしい。
「……」
でも、伝えることは伝えた。僕は必ず帰る。帰ってやる。この右も左も分からない世界から。
「待っててくれよ」
僕は体に力を込めて立ち上がる。―――行こう。
◆ ◆ ◆
ギギギ、ギ、とどこか遠くの方で歯ぎしりに似た妙な音が聞こえる。先程から視界の隅をちょろちょろと子犬位のサイズのトカゲが這いずり回っていたり、ガサガサと明らかに僕の知っているサイズのそれが発する音でない音を上げながら巨大な虫が飛び回っていたりと、確実にこの森はやばかった。一瞬たりとも気を抜けない緊張感の中、僕はきしむ体に鞭を売って歩き続ける。
先ほどけたたましい鳴き声がしたので空を見上げると、インド象くらいのサイズはありそうな巨大な鳥が全身を赤と紫の斑模様の鱗に覆われた巨大なトカゲにばりばりと頭から食われているのを見たばかりだ。あの巨体で空高く飛ぶ鳥に食らいつくような化け物みたいな奴がうろついてる森で一休みとか、いくら図太い僕でも無理だ。
もしこの森に蠢く化け物に襲われたら、たとえ相手が何であろうと死ぬ自信があった。来たくもないのに無理やり飛ばされて、それでこんなところで野垂れ死になんて御免だ。それだけは嫌だ。絶対に帰ってみせる。
僕はそう自分に言い聞かせながら周りの獣たちの品定めするような嫌な視線の中を歩き続けた。
どれだけ歩いただろうか。木々の葉の隙間から覗いていた太陽は傾き始め、周りから感じる視線はより強い殺気をはらんでいた。
夜が近い。獣たちの時間が。
自然と歩く速度が上がる。深い森の中を上履きで歩き続けていたせいで足はずきずきと痛んだが、それよりもわずかに死への恐怖が勝った。僕は一心不乱に行く当てもなく足を進める。
しばらく歩を進めてから、辺りを見渡した。かなり暗くなってきた。さすがにこれ以上暗くなると何もできなくなる。だからせめてその前に夜の間獣たちから身を護る術を探さないと。そう思って動こうとしたその時—―
「きゃあああああああ!」
後ろから、悲鳴が聞こえた。誰かが襲われでもしたのか——————誰か? 誰か、いるのか?
僕は思わず声のした方へと駆けだしていた。取るものも取り敢えず、僕は笑顔を浮かべていたと思う。うれしかったのだ。この恐ろしい森の中を一時も気を休めることなくひとりぽっちで歩き続けてきていたから、ただただ人の声がしたというだけでうれしくてたまらなかったのだ。
常識的に考えて、悲鳴がしたのだから普通その方へと走って行ってはいけないことなんてわかりきっていることなのだろうが、この時の僕は人がいるかもしれないという一縷の希望に突き動かされていた。人が一人いるのなら、この近くに人が住めるところだってあるはずだと、そういい方へとばかり考えてしまっていたのだ。
「——————ッ」
密集した木々を押しのけ、開けた場所に飛び出した僕の目の前に広がっていた光景は案の定というかなんというか、巨大な影のような靄に覆われた巨大な獣が、今まさに一人の人間を食らおうとしているところだった。
一瞬思考が停止する。分かりきっていた光景。けれどそれを認めたくないのか、僕の体はそれ以上動こうとしない。襲われていたのは、かなり重そうな鎧を身に着けた女だった。まあそもそもが異世界だしあんな化け物が跋扈している世界だ、女の人でもこれくらい頑強でないといけないのだろう。ただ、凄く強そうに見えるのにその前身は血まみれで、動けはするだろうが戦えはしないだろうと思われた。
ただそれでも一目見て僕なんかよりよっぽど強いことが理解できる。僕なんかが助けに入ったところでどうにもならないなんて嫌でも理解できたし、僕はこんなところで死にたくはない。だから僕は逃げようとした。そうするべきだと思った。
でも、目が合った。目が合ってしまった。今まさに死のうとしている彼女と。そして、彼女は僕と目が合った瞬間、何やら手をこちらに向けて叫んだ。
この世界の言葉は、僕にはわからない。分からないけれど、その鬼気迫る表情で、何が言いたいのかは理解できた。
「逃げろ」と、言っているのだ。この人は。自分が死にそうになっているのに。必死に「いいから逃げろ」と言っているのだ。
僕は、体が芯から熱くなるのを感じた。確かに僕は弱っちいかもしれない。でも、こんなボロボロの体のくせして、死にそうな自分よりもこんな僕なんかの心配をしているのだ。
僕はきっと、それが許せないのだ。どうしようもなく許せないのだ。
何故許せないのかは分からなかった。ただ、これを許してはいけないような気がした。この胸の中から湧き上がる思いはきっと、自分を顧みないこいつに対する怒りと、何もできない自分に対するふがいなさからの憤りだ。
いいじゃねえか畜生、やってやるよ。僕は震える手でポケットの中に入っていたキッズケータイを握りしめた。
「こっちだクソッタレ——————!」
大声を張り上げて、ブザーを鳴らす。
「PLIIIIIIIIIIIIIIIIIII!!」
『——————!』
「ヒッ」
僕に気付き、こちらに向かって吠え立てる怪物に思わず上ずった声が出る。がしかし、そうぼやっともしていられない。僕はきしむ体に鞭を打ち先ほど来た道に向かって駆けだした。
ベキベキと木々のなぎ倒される音が聞こえる。どうやらちゃんとあの化け物は僕に標的を変えたらしい。この隙に逃げてくれよと叫びながら森の中をひた走る。
僕を見ていたあの無数の視線は蜘蛛の子を散らすように掻き消えていた。どうやら僕を追いかけてくるこいつから逃げ出したようだ。逃げた先で別の化け物に出くわして挟み撃ちなんてことにはならなさそうだ。
『—————!』
「っとまあ、お前から逃げきれるってわけでもないんだがな」
思っていたよりもあっさりと回り込まれてしまった。碌に時間稼ぎすらできない自分が不甲斐無い。あの人はきちんと逃げ切れただろうか。僕はそんなことを思いながら、立ち止まって目の前に立つ化け物をにらみつけた。
ああ、僕はこいつの殺されて死ぬのか。僕の人生は、そうやって終わるのか。
そう考えると、なんだか自分の事ではないように思えてきた。きっと実感がわかないのだ。いきなり女神と名乗る謎の人物に化け物達の蠢く森に放り出され挙句の果てに襲われている人に出くわして、そいつを庇って死ぬなんて。
「まあ、僕らしい最後ではあるな」、
いじめの原因だって「それ」だった。物心ついたころから、僕の在り方は「こう」だった。だからきっとこれは僕の生まれ持ってしまったもので、きっとこれが僕なんだ。だから、怖いけれど、後悔はない。
ないけれど、ただやられるのは癪だ。だから僕は近くの棒きれを拾い上げ、化け物に殴り掛かり———
「え?」
化け物の正体に気付き、絶句した。
黒い靄のような物を纏った怪物、ではない。これは、『無数の蝗の群れ』だった。
「ま、まさか」
こいつが無数の蝗でできているのだとしたらあの女の人は、分離した別の蝗に襲われたんじゃあないだろうか。くそ、これでもしあの人が死んでいたら僕は犬死にじゃないか。
『安心しろ、あいつは逃げた』
「え?」
蝗の群れの中から、緑色の目を光らせた人型の巨大な蝗が現れて僕の前に立った。
『お前でいいか』
こいつが何を言っているのか、それを理解するよりも先に僕の意識は途絶えた。
◆ ◆ ◆
「う、ぐ……」
全身が灼ける様に痛い。痛いってことは、どうやら死んだわけじゃなさそうだ。僕は何とか体を起こし、傍の木に背中を預ける。あの蝗の化け物は一体どこに行ったのだろうか。というか僕は確実にあいつの吞み込まれたはずだが、何故生きているのか。気になることはいくらでも出て来るが、うまく考えがまとまらない。呑み込まれる直前に聞こえた声は一体誰のものだったのか。わからないことだらけだが、とにかく行動しなくては。僕は立ち上がろうとして、
「何、そんなに急ぐことは無いだろう」
「ん?」
思わず、言葉が詰まる。……これは、僕の目の錯覚か何かだろうか。目の前に、『僕がいる』。
「ひとまずは「おめでとう」と言っておこう、いや、この場合は「ご愁傷様」の方がいいか?」
その「僕」は、僕と似ても似つかぬ表情をして嗤った。
「何はともあれお前は力を手に入れたんだ。誇れ、そして嘆くがいい、【獣宿し】」