共闘戦線
キィーン、という音叉のような耳鳴りの直後。
目に激痛が走るほどの光源、そして脳髄が痺れるほどの轟音が世界に轟く。
「エレナさんッ」
必死に空を見上げると、彼女が居た場所は入道雲のような白い煙が漂っていた。
しかし青空を漂白していた迷彩は長く続かない。ひゅう、と一陣の風が吹くと解けるように消失していく。
……最後に残ったのは半透明の球体に包まれたエレナさんと、その周囲に突き刺さる無数の雷刃だった。
【これは反射魔法。そうか、回復したのはエレナだけではないのだな】
「ご名答よ、ミウル。ポーションの味は不味いけど、効能は悪くないわね。体力も魔力も全快するほどじゃないけど、こうやって罠を張れるくらいには回復したわ」
【……ふむ。成功したとは言え、お前が治療した相手を即座に戦場へ戻すとはな】
「また怪我を負う事になっても全滅するよりはマシでしょう、と言われて反対できなかったのよ。でも何より、こうやって私が回復したことが最大の動機ね。うん、この結果なら試験薬の予算を増やしておくべきだわ」
【どうせなら、今度は人数分のポーションとやらを用意しておくが良い】
「えぇ、もちろんよ。でも正真正銘、今の私にはこれが最後の魔法。まぁ、攻撃する労力は全て相手持ちだもの。上々の成果よね」
背中越しに聞こえるソフィア姫の声とともに、パチンというフィンガースナップが耳に届く。その直後、被膜に囚われていた雷刃が、全て反転した。
「――――」
よほど混乱しているのか、カドモスは硬直してその場から動かずに居る。
いや、退避行動など取れる余裕さえないのだ。
反射魔法に触れず炸裂した数を除いても、二百近い雷刃がカドモスに殺到した。
そして再び、晴天に嵐が舞い込んだ。
紫電と狂乱に荒れ狂う空間は、数秒を経て静寂を取り戻す。
……結果は。
【むぅ、あれでもまだ倒れぬか。さすがに手負いは免れなかったようだが】
苦々しい感情が込められた神様の言葉通り、カドモスは未だ健在だった。
ただし、包むようにして身体を覆っている蝙蝠の羽根はボロボロだ。
どれだけ耐魔力に優れていても、さすがに限界はあるらしい。
しかしこれならば、勝ち目があるのではないか。
当然ながら、そう考えたのは俺だけではなかった。
「……さて、と。では仕上げに参ります。お覚悟を」
そう口にしたのは五体満足で上空に佇むエレナさんだ。
レイピアを構え、ジェットエンジンでも積んだような加速力で真っ直ぐカドモスに接近戦を挑む。
「――――」
だがカドモスも無抵抗にやられる気は無いようだ。
羽根を折り畳み、爪と牙を剥き出しにしてエレナさん目掛けて空を駆け抜ける。
両者の激突は一瞬で、ザシュッという肉を切る音と共に終わった。
そしてポタポタと血を滴らせながら、交錯した影が一つ傾く。
「だから言ったでしょう。空での戦いは私の方が有利だと」
露を払うように剣を振りながら、エレナさんが静かに呟く。
その背後では、カドモスの羽根がザックリと身体から切り離されていた。
「――――」
敗れたカドモスが再戦を望むように身体を反転させる。
……だが両者が向き合う事は無かった。
飛ぶ機能を失った獣は、重力に囚われて落下する。
「ふぅ。回復した分の魔力も僅かですが、何とか敗北の汚名は返上できそうですね」
安堵するように溜息を吐くエレナさんだが、その顔には影が差していた。
……だがそれも仕方ない。彼女の腹部はジワリと赤色に染まっているのだ。
「まったく、エレナったら治療する前より傷を広げるなんて。無茶は禁物って忠告した筈なのに」
地面に落下した敵よりも、怪我をした身内を気にするソフィア姫。
そんな心配する主人を意識しての事なのか、エレナさんは上空をゆっくり下降するだけで、すぐさまカドモスを追撃する気は無いようだ。
【やはり無傷では済まなかったか。なにより、あの様子では浮遊を維持するだけの気力しか残っていないようだが】
「大丈夫ですよ神様。今度は俺達が頑張れば良いだけなんですから」
【馬鹿を言うな。まだ魔力切れで戦えまい。お前は剣技や格闘も出来ない身の上だ】
「……いいえ。もう戦えますよ」
そう言いながら俺は、神様を文字通り杖にして身体を起こす。
正直、呼吸するだけでも全身に針が突き刺さるような痛みを覚える。
だからといって戦闘放棄は有り得ない。
何しろ俺の視界には地上に激突し、それでも身体を震わせながら立ち上がるカドモスが映り込んでいるのだから。
【ふむ、警戒する必要など無かったか。さすがに死にかけだな。見ろ、魔物の形態が崩壊しつつある。我らが手を下さずとも、あと十分も持つまい】
神様の指摘通り、カドモスの身体は少しずつ鱗が剥がれるように消失していた。
おそらく手を下さずとも、このまま跡形もなく滅びるだろう。
しかし。
「風の刃に慈悲はなく」
唱えるのは、今の俺が扱える最強の呪文。
一度は敗れ去ったが、あの時とは条件が異なる。
もはや、カドモスに優れた耐魔力を持つ翼と尻尾はないのだから。
「――――」
俺の魔法に反応して、カドモスもコチラへと近付いてくる。
あれほど脅威だったスピードはなく、その歩みは余りにも遅い。
だが、俺も似たような状態だ。疲労困憊はお互い様である。
【……おい待て、クロー。我の言葉を聞いていないのか? わざわざトドメを刺す必要など無いのだぞ】
戸惑う様子を見せる神様に、俺は無視を決め込んで呪文を続ける。
その間にもカドモスは俺との距離を縮め、徐々に体勢を低く構え始めた。
おそらく、アレは獲物を狩り取る動作なのだろう。
まったく往生際が悪い。しかしそれでこそ倒し甲斐があると言うものだ。
「弓より早く」
……ここまでに至る過程は、文字通りの消耗戦だった。
ソレも、もう終わる。
「その身を喰らう」
途切れ途切れの詠唱は、結局のところ回復した魔力が微弱だからだ。
まぁ仕方ない、足りない分は命を対価に魔法を放つ。
「無色の咆哮」
あと一言。
その僅かな猶予を、カドモスは最後のチャンスと踏んだらしい。
「――――」
敵の取った行動は、怯むことのない正面突破だった。
負傷している上に崩壊の始まった肉体とは思えないほどの加速で、遠距離攻撃に有利だった間合いは一気に詰められる。
「――――」
電光石火の早業に、武術に疎い俺では対処など出来ない。
そして、とうとうカドモスの吐息が俺の顔にまで届く。
しかしそれでも、突き出された爪牙が俺に触れることはなかった。
「……無粋な真似であることは承知している。だがこれ以上、仲間が傷付くのは見過ごせないのだ」
そう言ってイーシュさんは俺とカドモスの間に立ちはだかり、襲いかかる敵の身体に血だらけの拳を叩き付けた。
ドカン、と。砲台の玉のようにカドモスは宙へ舞う。
……同時にベキベキという骨が軋む音を立てながら、キメラの身体は再び地面へと落下した。
「先程とは違い、鋼のように固い身体を失っているのだな。察するに、あれも魔法の効果だったという訳か」
敵を殴りつけた右手を見つめながら、イーシュさんが小さく呟く。
その言葉に反応したのは神様で、勝敗が決したかのような口調で語る。
【……魔力の流れが正常化しつつあるアッカドの森で、あれだけ大量の魔力消費を行えば自滅は当然だがな。こういう状況でなければ、結末は違っていただろうさ。そういう意味では、同情してやっても良い】
神様の言葉通り、俺も状況が違えば勝っていたのはカドモスだったと思う。
たとえばアッカド基地周辺の魔力が正常化していなければ、あるいはソフィア姫がポーションを使用しなければ。
しかし結局『もしも』は起こらず、カドモスは衰弱寸前の身体で何とか立ち上がろうとしている。
「――――」
……そこからは、敵ながら哀れな末路と言えた。
立ち上がったものの、もはや魔獣の姿は死骸以外の何物でも無い。
プルプルと震える前足を持ち上げ、何とか進もうとする。
しかし闘志だけで身体が維持できる訳でもない。
ボトリ、と果実が落下するようにカドモスの前足が体から剥離した。
それが引き金になったのか、強靱だったカドモスの肉体は砂埃のようにボロボロと崩れ落ちていく。
……なのに、それでもなお俺を睨み付けている瞳は未だに意思が感じられた。
【ちっ。晩節を汚す気か。勝ち目などある訳もないのだ、大人しく滅びを受け入れれば良いモノを】
苛立たしそうに呟く神様に反発しているのか、カドモスは朽ちていく身体を這いずらせながら、俺に近付こうとする。
傍目からすれば、アレは往生際が悪いと感じるのだろう。
だがどうにも、俺には侮蔑や悪態がつけない。
命が終え尽きようとも自分の目的を達成しようとする気持ちは、殺したくなるような敵であっても否定したくはないのだ。
……この感傷は、勝者の余裕からくるものだとは自覚している。
でも、だからこそ驕ってはいけない。決着は、自らの手でつけるべきだ。
「――死神の嵐」
途端、百を超える無色の刃がカドモスに向かって吹き荒れる。
鉄さえ切り裂く破壊力を前にして、死に体の魔獣は為す術もなくザクザクと切り裂かれていく。
オーバーキルと批判されても仕方ないくらいの瞬殺だった。
静寂が戻ったときには、既にカドモスの姿は跡形もなく消失していた。
しかし、あれだけ苦戦した相手に勝ったというのに達成感はない。
……むしろ。
【クロー。何故、無意味に魔法を放ったのだ。放置しても勝手に死んでいた相手だぞ】
神様の不機嫌な声。
上手く返せず言葉に詰まっていると、イーシュさんが庇うように口を出してくれた。
「いえ、デミウルゴス様。アレは要な行為です。クローが手を下さなければ、きっと吾輩がトドメを刺していた」
【それはどういう意味だ?】
「勝負が決していた事は敗者が最も理解していたでしょう。それでも立ち向かって来たのは、彼が死に場所を求めていたからだ。ただ朽ちるのではなく、最後まで戦士として倒されたかった」
【ふん、魔物風情に慈悲を与えたつもりか? 身を削ってまでする価値などない】
「少なくとも、クローには在ったのでしょう」
【魔法と命は有限だ。くだらん感傷で減らして良いモノではない。以後は気を付けることだ。判ったな、クロー】
「…………」
【む? おい、返事はどうした】
そんな耳元で囁かれた神様の言葉が、遠く聞こえる。
だが、この現象は不可解ではない。自分で結論は導き出していた。
カドモスが魔力切れを起こしたように、俺も余力を使い果たしたと言う事だ。
「――――」
寿命間近の電灯のようにチカチカと視界が点滅する。
誰かが何かを言っているようだが、理解できない。
まるで夜間、燃え尽きそうな蝋燭のように思考が弱まっている。
朦朧とする感覚は、身体がゆっくりと倒れていく事しか認識してくれない。
そしてフッと火が消えるように。
俺の意識は、暗闇の中に溶けていった。