7.土蜘蛛
今日三度目の邂逅になる乱入者。
咄嗟に剣を引き距離を取る俺に対し、骸骨侍は祀を護るように立ち塞がる。
……どうして、祀が倒れている?
決まっている。倒したからだ。
誰が?
俺だ。俺自身が祀を倒して……止めを刺そうとしたところに、邪魔が入ったんだ。
どうしてそんなことに、気付かなかったんだ?
そこまで考えて、ゾッとする。
俺は、祀と戦っているということが分からなくなるほどに、戦いに魅入られていた。
骸骨侍が間に入らなければ、俺は、祀を殺していただろう。
それが、俺なのだと。
親友を殺そうとするほどの戦闘狂。自分がそうであるという事実に、愕然とする。
祀のことですらどうでもいいと感じていた。
殺したかもしれない、という恐怖や罪悪感すらも、完全に忘れていた。
霞みがかっていた思考が晴れ、先の戦いについて思い出すごとに、自身に対する嫌悪感が膨れ上がる。
俺は、祀を殺そうとしていた!
そんな自分自身が、堪らなく嫌で、嫌いで……だけど、俺の身体は止まらない。
ドロドロと、ズルズルと、心に染みついた殺意が離れず、酷く気分が悪い。
だが、それなのに――俺の心は、未だ満足できないでいる。
目の前に佇む骸骨侍。その姿を見て、再び心臓が高鳴るのが分かる。
目の前の骸骨侍が何者なのか。なにを目的としていて、どうして俺をここまで導き、今俺の前に立ちはだかるのか。理由不明の行動、未だ分からぬその正体……そんなことはどうでもいいと叫ぶ、俺の心。
戦いたい。
心にこびりついて離れない、黒く重い、ヘドロのような感情。
その重さに負け、闇の中に引き込まれる。
物言わぬ骸骨が俺になにを訴えかけているのか。
それを聞こうともせず、俺は剣を構える。いや、それは構えとも呼べないもの。ただ剣をぶら下げ、感情のままに走り出す。接近。対し、骸骨侍は構えようとしない。俺と同じように刀を降ろしたまま、視線だけは俺の方に向けている。
その状態でも、俺に勝てるってのか?
……上等だ!
胸から噴き出した、どす黒い殺意に、顔が綻ぶ。
骸骨侍まで残り一歩、左足を踏み出すのと同時に身体を右に捻る。右腕は完全に脱力し、身体の勢いに為されるがままにしておく。その状態で最後の一歩、右足を、震脚。強く踏み込み、その反動を全身の関節を連動させることで利用し、右腕を突き出す。脱力状態から鞭のようにしならせ、捻りと共に体重の乗った突きを繰り出す。
その切っ先のトップスピードは、弾丸に比類すると自負している。
だが……骸骨侍はそれを、刀一本で受け止めていた。
それも、刃と切っ先、刀を立てたままの状態で。
「……はっ」
暗い歓喜が心に生まれる。
腕に響く衝撃に、鳴り響く金属音に、止められたという事実に、心が震えた。
真剣勝負を求め、様々な流派の道場に他流試合を申し込みまくった時期が俺にもあった。そのほとんどは、俺と戦うことを――死合うことを厭んだ。だが、果たして彼らが本気になったところで、この骸骨侍の技量に到達している人間は、一体何人いたのだろうか。
沸き上がるのは、墨色の狂喜。
全力で戦えるという愉悦。
素早く剣を引き、半歩踏み出すのと同時に骸骨侍を斬りつける。
その刃も、通らない。刀を引き、身体を僅かに逸らすことで回避され、即座に反撃に移られる。逆風。下方向から迫る刃を、俺は咄嗟に大きく身体を逸らすことで回避し、そのまま地面を蹴ることで身体を一回転させ後方に跳ぶ。次の瞬間、俺が半秒前までいた場所を、骸骨侍の刀が切り裂く。
もし、跳んでいなければ斬られていた。
死んでいた。
その事実が、狂おしいほどに嬉しい。
破顔一笑。今の俺は、相当酷い笑顔を浮かべているのだろう。
心にあるのは闇夜よりも黒く、負の感情が濃縮された邪悪な情動。
暗い激情に身を任せ、俺は笑顔のまま骸骨侍に斬りかかる。
弾き、逸らし、受け流し、受け、避け、躱す。おおよそ剣と剣で打ち合うときに起こり得る現象を幾度となく繰り返す。だが、技量は骸骨侍の方が上。俺の攻撃はほとんど当たらないのに、骸骨侍の攻撃は的確に俺を捉えている。
額が切れ、左の視界が赤く染まる。右手から右肘にかけて無数の切り傷が刻まれ、すでにその体をなさなくなった包帯は赤く染まり、腕を振るたびに血飛沫があがる。左肩、左脇腹の傷は深く、血が流れすぎたのか痺れ始めている。
だけど、止まらない。
いや、むしろ傷を受けるたびに、黒い歓びを覚えている。
もっと、もっと、もっと!
そう、心が訴えている。戦いを求めている。
心が、塗り潰される。
俺が俺でなくなる。
戦いは、愉しい。
心が黒く染められるのは、気分が良い。
ああ、気分が良い。最高だ。
「あははははははは!」
斬撃音と笑い声が交差する。
到底人間とは思えない笑みと笑い声。
人間が浮かべてはならない類の嗤い。
この世界にいてはいけない者同士の戦い。
だけど、まだだ。まだ、足りない。
戦いが。
一際大きな金属音を響かせ、お互いの得物が弾かれる。
それに合わせて俺は後方に跳び、間合いを取る。骸骨侍も同じ判断を下したのか、俺達の間合いは至近から一気に離され、一足飛びでは辿りつけない距離となる。
ここから、どう攻めるべきか。
お互いの得物の間合いに無くても、切っ先を相手に向けたまま、睨みあい。
次の瞬間、巨大な蜘蛛の脚が、古びた鎧を貫いていた。
「……は?」
思考が止まる。
なにが起こったのか、咄嗟に理解ができない。
だが、気付けば、先程まで倒れていたはずの祀が立ちあがり、俺のことを悲しそうな表情で見つめていた。
「戦人。土蜘蛛って知ってるかい?」
そして、抑揚のない声で俺に問いかける。
その背に見えるのは、蜘蛛。それもただの蜘蛛ではない。身体は虎のような黄色と黒の縞模様で、顔は鬼のような形相、八本の脚を持つ巨大ないでたち。大きさにして三メートルは下らないだろう。
「今でこそ妖怪の一種に考えられているけど、その起源は、古代日本における、天皇に恭順をしなかった土着の豪傑……つまり、祀られなかった神様だ」
その語り口調は、俺に自身の知識を披露するときのもので、しかしその言葉を紡ぐ祀自身は、これ以上ないくらいに悲痛な表情をしている。まるで、言葉を発することそのものが苦痛であるとでも言わんばかりに。
「ボクは、ボクの一族は、かつて時の朝廷に迫害され、追いやられたモノ達の末裔だ。だから、夜刀祀。ボクの一族は、時の朝廷によって悪であると一方的に決められた神々を祀る一族で……そしてボクは、彼らを祀る巫女なんだ」
一方的に声を発する祀の背後で、顔鬼胴虎の蜘蛛が唸る。口から涎を垂らし、口角からのぞく鋭い牙をガチガチと鳴らし、文字通り鬼の形相で俺達のことを睨みつける。その形相は、怒りを堪えているように見えた。その姿から、視線から、そして何よりも放たれる強烈な殺気から、俺にでも察知できた。
秩序側の人間……つまり、かつて自分達を迫害した朝廷側の人間の末裔である人間達に対する、千年を超えて醸成された怒りと怨嗟。それが、俺の肌を焼く。チリチリと、首筋の神経が痛む。人間を遥かに超えた存在の、掛け値無し、本気の殺意。気を抜けば、それだけで気が狂ってしまいそうなほどの圧力。
それすらも、心地良いと思う。
俺は躊躇うことなく、構えていた剣の切っ先を向け直す。
祀の更に後ろ、怨嗟の念に燃える、異形の怪物に。
それまでの過程は気にならなかった。
ただ、目の前に戦う相手がいる。それだけで、満足できた。
「『土蜘蛛』。それが、祀られなかった神の名前だ」
それが、そいつの名前か。
……ああ、なるほど。だから、蜘蛛。
頭の中に自然とこれまでのことが思い返され、それらの事象が一本線で繋がっていたことを理解する。
一人納得する俺の前で、土蜘蛛という名の異形は、脚に突き刺さった骸骨侍を、俺の前に投げ飛ばした。自らが貫き、脚に刺さったままの骸骨侍が邪魔だったのだろう。
当たり前とも思えるその動作が、何故だか、癇に障った。
「迫害され続け、だけどチャンスを窺いながら一五〇〇年の刻を過ごした。そこに湧いて出た、この街だ。だからこそ僕達は探したんだ。この街に来て、都市伝説を調べ、信仰を得る方法を。そして利用した。こっくりさんという新しい都市伝説を利用して、信仰を集めた。……だけど、それを邪魔する人間がいる。ボク達は信仰を集めるために、こっくりさんを妨害されるわけにはいかない。」
脚に刺さっていた錘を外され、土蜘蛛が前脚を振り上げる。
その瞬間、俺に向けられていた殺意が増し……再び、俺の身体の中の血液が沸騰した。
「だから……戦人、ごめん。ボクは、君を倒さないといけないんだ」
「……上等だよ、祀」
ゾワリと、黒いなにかが俺の身体を駆け巡る。
いいね、第二回戦。
今度の相手は異形の怪物。それも、三メートルを超える偉丈夫。相手にとって不足はない。
その巨体と、それから発せられる圧力に呼応し、身体の奥底から湧き上がるエネルギー。相手が強ければ強いほどに生まれるエネルギーが増大し、怪我をしているのに、更なる力を発揮しているように思える。
その熱量に、心に、俺は呑み込まれそうになる。
黒。
ただただひたすらに黒い、殺意。
闇。
どこまでも深く、底の見えない闇のような、渇望。
それを、俺は躊躇うことなく祀に向けている。
幼馴染であり、親友であり、俺の数少ない理解者である、祀に。
また俺は祀を殺そうとしている。
なのに、止まらない。止められない。
戦いたい。
祀を殺したくなんてないのに、俺は――
嫌だ。
嫌なんだ。
だれか、教えてくれよ。
どうすれば俺は、止まることができるんだ?
「……戦人、二回戦だ。いざ、尋常に――」
祀の言葉を遮る、銃声。
二発の銃弾が、振り上げられた土蜘蛛の二本の前脚を穿つ。
「人が静かに様子見してるからって……私を無視して話を進めるな、なの」
巨体に対して小さすぎるのか、その銃弾が土蜘蛛にダメージを与えた様子はない。
だが、梢はそれを気にする素振りを見せる様子もない。
「大分言葉を選んだみたいだけど、おおよそ、『こっくりさん』という既存の都市伝説を利用して、新しい信仰を集めようとしたんだと思うの。いざなぎ市は霊的な空白地帯で、この辺りを治める土着の神様なんていないから、信仰が広めやすいと思ったのかな」
ただ、静かに……普段の梢からは考えられないほど静かに。
「……だけど、そんなこと、どうでもいいの」
そう、断言した。
祀が掲げた大義名分。一五〇〇年という重みの上に積み重ねられたそれを、たったの一言で切り捨てる。
その容赦の無さが、何故だか心地良かった。
「私の仕事は、その腐れた神様を斃すことなの。だから、貴女がどんな想いで色々と語ったのか……なんて、心底どうでもいいの」
「……ふふ」
「なにがおかしいの?」
「いや。どうでもいいと言う割には、きちんと聞いて……その意味も理解してくれているんだな、と思ってね」
「あれだけベラベラと喋って、分からないとでも思っているの?」
「どうやら君も、戦人と同じくらい優しくて、お人好しのようだね」
「戦人君には負けるの。……そういう、あなたこそ」
「そうでもないよ。ボクは、夜刀の巫女だから」
「ううん。あなたはどうしようもないくらいお人好しなの。わざわざ負け馬に乗るなんて」
「それは、やってみないと分からないよ」
「でも、貴女自身は……成功すると、思ってないよね?」
「…………」
「…………やっぱりやーめた、の」
梢の気の抜けた声と共に、空気が弛緩する。
それと同時に、梢は拳銃を下げ、踵を返した。
それから、俺の肩に手を置いて、一言。
「後は任せたの、戦人君」
「は?」
「あの大きさだと、手持ちの銃じゃ全然ダメージが与えられないの。武器が頼りなかったら、私はただのか弱い女の子に過ぎないから、後は戦人君に任せるの」
言いたいことは、色々ある。
だが、そのあまりの突拍子の無さに毒気が抜かれ、咄嗟に言葉が出せない。
ただ、ひとつだけ、思ったことがある。
か弱い、だと?
そう思った瞬間、梢に睨まれた。
「なにか、失礼なこと考えなかったの?」
「き、気のせいだ」
「ま、それはいいの。……私が思うにね。あの子は、そしてそこに倒れてる英傑は、戦人君しか救うことはできないの。だから、戦人君が救ってあげるの」
「俺が……?」
俺にしか救えない、だって?
巨大な蜘蛛を背後に背負い、腹に穴を開けたまま動こうとしない骸骨侍を一瞥し、思う。
馬鹿な。そんなことがあるか。
俺は戦闘戦斗、戦いのことしか考えられない人間だ。人間として欠落を抱えた人間だ。
暗い感情に呑まれるしかない、そんな俺が、誰かを救うことができるだって?
俺は、戦うことしか……毀すことしか、できない人間だぞ?
そんな人間の振るう剣に、誰かを救う資格なんて、あるわけがない。
「俺は、人間として欠陥のある人間だぞ。戦いのことしか考えられない人間だ。そんな俺に誰かを救う資格なんて、あるわけがないだろ!」
「……自惚れるな、なの。この世界中で、戦人君が剣を振るう理由に興味がある人間なんて、精々戦人君一人くらいなの。そんなの、誰も歯牙にもかけたりしないの。そもそも、救われた側にとっては、救った側の心情なんてどうでもいいの。『誰かを救う資格』なんて、誰も持っていないの。『結果として救われた』。それで十分なの」
「だが、俺の剣は祀を殺そうとした!」
「それが嫌なら、一本筋を通すの。なんのために剣を振るうのか、考えるの。自分が戦いだけの存在じゃない。それを、他でもない戦いの中で証明してみせるの」
「戦いの中で、証明……」
その言葉は、ハンマーで殴るよりも強い衝撃を俺に与えていた。
戦うということにばかり気を取られて、そんなこと、考えたこともなかった。
戦いに囚われる自分自身を嫌悪してばかりで、そのことに思い至らなかった。
なんてことだ。
梢の言葉で、俺はようやく気付かされたのだ。
俺が戦いだけの存在じゃないと、戦いの中で証明するなんて!
「それと、もうひとつ。私は……そして間違いなく、そっちの子も。例え誰がなんと言おうとも、私達は、戦人君の存在を、認めるの。あなたが、あなたで在るために戦うことを、否定しないの」
その言葉に反応し、ほとんど反射的に祀に視線を向ける。
祀は、ただただそこに佇んでいるだけ。頷くことも、言葉で肯定することもしない。
だけど、分かる。
祀は俺にとって、幼馴染で親友で、大切な人で、だから。
祀が言わんとしていることを、あの日、バスから叫んでくれたことの本当の意味を、俺はようやく理解できた。
「それにもし、戦人君が本当に狂ったとして……その戦いが終わったら、私が一発、ぶっとばしてあげるの。だから戦人君は安心して狂えばいいの」
そう言い、朗らかに笑う梢。
目をやれば、祀も俺を穏やかな笑顔で見つめている。
その笑顔が眩しくて、温かい。
暗く黒い、闇の中。
俺の心を捉え蝕む、狂喜にして狂気。漆黒の殺意。戦いに囚われ、戦うために戦う。
なにも生まない、タールのようにドロドロとした俺の世界。
だけどその中に、一筋の光が見えたような、そんな気がした。
「…………」
「戦人君。改めて、聞くの。戦人君はなんのために、戦うの?」
「……今はまだ、分からない、だけど」
きっと俺はこれから、戦いに囚われていくのだろう。何故なら、俺自身の中にある、戦いを渇望する心が消えたわけではないし、俺の人間としての欠陥が埋められたわけではないからな。
俺は、戦いに囚われている自分が嫌いだった。戦いに溺れることが嫌だった。それでも、戦いを前にすると心も身体も反応して、真っ黒な感情に覆われて、それしか考えられなくなっていた。
そんな危険な思考を持つ俺は、この世界にいてはいけないと思っていた。人間として欠落を抱える俺はこの世界に相応しくないと思っていた。俺の居場所なんて、この世界のどこにもないんじゃないかと思っていた。俺のような存在は許されないと思っていた。いずれ、この世界のどこかに取り残されるんじゃないかと思っていた。
だけど、二人の言葉を聞いて、笑顔を見て、ようやく気付くことができた。
「俺は、俺が俺であることの証明のために、剣を振りたいんだ」
その言葉を聞いてか、梢は満足げに微笑んでいた。
「良かったの。それが分かれば、あんな干乾びた神様、戦人君一人でも十分斃せるの」
『ホウ……我ヲ斃スノニ、一人デ十分トイウカ、人間ヨ』
空気が唸るような、重くて低い声。
その言葉の端々から感じられる、有無を言わせぬ存在感。
その声が土蜘蛛のものだということが、頭ではなく心で感じられた。
「思い上がりもいい加減にするの、土蜘蛛。一五〇〇年以上生きてきて、なにも学んでないの。時勢が読めないのは昔から変わらないみたいだし。それとも、読みたくないの? は、現実を正しく直視もできない、そんな腰抜けが戦人君に勝とうなんて、ちゃんちゃらおかしいの」
それに対してすらも、梢はぶれなかった。
臆することなく、正直な感想を述べる姿は本当に清々しいものだと思う。
さすがだよ、本当に。
『小娘ガ……!』
怒気を強める土蜘蛛。
飄々とした表情を崩さない梢。
土蜘蛛の前に控える祀。
そして、剣を構える俺。
視線が拮抗し、張りつめた糸のような、危うい緊張感が生み出される。
数秒、十数秒、数十秒、一体どれだけの時間、睨みあい続けたのかは、分からないが。
その緊張を崩したのは、俺だった。
戦いへ赴くために。
だけどそこに、暗い願望はない。
祀と俺の間の距離はおよそ一〇メートル弱。その距離を、未だ動く気配の無い骸骨侍を飛び越え、四歩で剣の間合いに詰める。御薙流の縮地法《疾歩》。要した時間は半秒、祀も土蜘蛛も反応できず。狙いは、迷うことなく土蜘蛛。梢を押しのけ、その後ろで足を止める。
戦いを求める。祀を殺したくない。だから、土蜘蛛を直接攻撃する。
簡単な話だ。間違えようもない。
剣を右上から左下へと振り下ろし、右の前脚を袈裟に斬り付ける。硬い外殻を削り、剣が脚から離れた瞬間に、土蜘蛛は前脚を振り上げた。
接敵し、攻撃してみて、顔鬼胴虎の化物は硬い身体を有していることに気付いた。考えて見れば、梢の銃弾も通用していなかったしな。だが、問題はない。確かに硬いが、手ごたえはある。破壊できないほどではない。一撃で駄目なら、同じ個所に二撃目を叩き込む。それで駄目なら三撃目を、四撃目を。そう、身体が吼える。その攻撃を叩き込むために、身体は熱を生産し始める。
戦いたいという感情が湧きあがる。
だが、熱を孕む身体とは裏腹に、頭は妙に冷えていた。
「梢! 祀を頼む!」
「はいはい、了解なの」
「え……!?」
俺に言われなくても初めからそのつもりだったのか、よろけ、俺から僅かに離れた祀の身柄を梢が拘束し、即座に俺達から距離を離す。自身は戦えないと言っておきながらその動きは迅速で、それどころか俺が一瞥した際にウインクをかますくらいに余裕を持っていた。「戦人君、頑張るの」そう言いたげに、微笑んでいた。
それが分かるくらいに、今の俺は戦いに対して余裕を持てていた。
もし俺が狂ってしまっても、二人が助けてくれる。
だから俺は、安心して狂うことができる。
……安心して狂えるってのも、妙な話だけどな。
だけど今なら、断言できる。
例え世界が俺の存在を否定しようとも。例え世界に取り残されようとも。
暗く黒い感情に呑み込まれ、俺が俺でなくなってしまったとしても。
二人が俺のことを認めてくれるなら、それだけで十分だ。
「……行くぞ、土蜘蛛!」
全身全霊を込めて、俺は吼えた。
それに対抗してか、土蜘蛛も啼いた。
ビリビリと空気が震える。
次の瞬間、俺目がけて脚が振り下ろされた。それも一度ではない。何度も、何度も、何度も、前四本の脚が、執拗に襲いかかる。その先にある爪が床に打ちつけられるたびに壁が震え、音と共に金属製の床材が穿たれる。
掠るだけでも致命傷。
俺はそれを、時に身体を捻り、時に跳ぶことで躱す。
そうして紙一重で躱すごとに、血液が変質するのが分かる。身体の芯に一度集約された血液が、熱を得て血液ではない別のなにかに昇華する。それだけじゃない。生まれた熱量が、身体の要所要所に的確に分配され、筋肉をこれまで以上に活性化させる。その生成にも運用にも一切の無駄が見られない。必要なときに必要な分だけ熱を生産し消費する。
そして何より、囚われていない。無論、戦いたいという気持ちはある。だが、それに思考を支配されることはない。黒く暗い感情に、心を覆い尽くされない。むしろそれは適度に神経を昂らせ、一歩引いた位置から瞬時に的確に思考することを可能としている。目の前の事象を正確に捉え、戦いそのものに囚われることなく集中力を持続できる。
これまでとは明らかに違う、身体の反応。
驚くほどに身体が軽い。信じられないほどに思考が早い。
ただ戦うために戦うのではなく――戦いのために戦う。そのための神経回路と運動神経が構築されていることを実感する。
だが、足りない。
幾度となく踏み降ろされる脚を躱し、時折反撃を加える。だがそれは、致命傷どころか決定打の一端にすらなり得ない。流石は、腐っても神ということか。しかし、かと言ってこの紙一重の均衡を崩すのはあまりにも危険すぎる。だが、このままでは勝てないということも分かっている。
あと、一手。
それだけが、足りないのだ。
「クソッ」
思わず、悪態を着く。
その、ほんの僅か、刹那にも満たない注意力の散漫。
一瞬だけ集中が途切れ――その瞬間、左足から力が抜け、そのまま膝から崩れ落ちた。
「しまっ――」
元より出血が酷く、いつ限界が来てもおかしくはなかった。
すでに下半身の感覚はほとんどなく、手足の末端も痺れてきていた。
だけど、まさか心どころか苦痛すらも覆い隠す漆黒の感情から解放された、この瞬間に限界が来るなんて!
左足に力を込めるも、動く気配がない。ガクガクと震え、立ちあがれない。
クソ! 動けよ!
震える足を叩くも、反応はない。
迫る蜘蛛の脚。
ふざけるな。
俺はようやく、暗い感情に支配されず戦うことができるようになったんだ。祀と梢から、存在を許してもらうことができたんだ。
それなのに……こんなところで、死んでたまるかよ!
四本の脚を睨みつける。
その動きが、酷く遅いものに見える。ゆっくり、ゆっくり、鋭い爪が迫る。
黒ではなく、白い世界。
――――遅い。
動くものがほとんど制止しているように見える。
息が詰まりそうなほどに、時間の遅い世界。
そして――俺と土蜘蛛の間に割り込むそいつの姿も、鮮明に見えていた。
「お前……」
世界が戻り、白い世界から解放される。
世界の動きが急に早くなり、時間が戻って来たのだと感じられる。
一瞬の接触を見切り、攻撃を逸らす技量。研ぎ澄まされた刀の冴え。
骸骨侍。
その下半身が、身体が、四本の蜘蛛の脚によって同時に貫かれている。足が千切れ、手が千切れ、貫かれた脚に支えられてようやく立っていられるような、酷い状態。
「どうして……!?」
その意図が分からなかった。
何故、自分を犠牲にしてまで俺を助けるのか。
どうして、俺に構うのか。
問いかける俺に対し、骸骨侍はなにも言わず、俺に向かってただ刀を差しだしていた。
「……使えと、言うのか?」
骸骨侍は頷かない。肯定の言葉も発しない。
だが、それ故に誰よりも雄弁に語っていた。
『邪魔ヲスルノカ、フツヌシヨ……!』
土蜘蛛の声が聞こえる。骸骨侍――フツヌシというらしい――に脚を突き刺したまま、動こうともせずに声を発するその姿は、骸骨侍の行動に対し土蜘蛛が動揺しているように見えた。
骸骨侍がどうして自ら突き刺されたのか、理解できないのだろう。
だが俺は、その理由がなんとなく分かるような気がした。
一度剣を交えたからこそ、分かる。それだけじゃない。
誰かに剣を託すという意味。その意味を、重さを、俺は痛いほどに理解できる。
それを理解できるからこそ……俺は、彼の手から刀を受け取った。
「――――」
刀の柄を握ったその瞬間、頭に映像が流れ込んできた。
それは、骸骨侍が歩んできた時代の流れ。
誇り高い魂が、自身の命とも言える剣を託すに至った、その過程。
「そうか、お前も……」
俺も、土蜘蛛も、骸骨侍も、同じなのだ。
現代に馴染めない、時代遅れの遺物。ちっぽけなプライドのようなもののために自分を変えることができず、時代に取り残される。
俺達の違いはただ、その対処法が違っただけ。
土蜘蛛は、時代そのものを変え、自分の居場所を創ろうとし。
俺は、狂気に呑み込まれそうになりながら戦いの場を求め。
骸骨侍は自身の剣を託す人間を探し、彷徨った。
時代に反発しようとしたか、迎合しようとしたか。ただ、それだけの違い。
そして俺は、託されたんだ。
骸骨侍……フツヌシという存在の、魂を。
『ナゼダ……ナゼ、諦メラレルノダ……!? ナゼ、自身の神性ヲ、人二託スコトガデキルノダ……!』
「……誰も、完全じゃいられないからだよ」
『ヌ……』
「俺は確かに、人間として欠陥を抱えている。一人じゃ生きていけない人間だ。……だけどな、それはお前達も同じなんだよ。神様だけじゃ、駄目なんだ」
そう。
俺は、骸骨侍の魂を受け継いだんだ。
だから。
「時代に取り残された神様よ。いい加減、幕を引こうぜ……土蜘蛛」
『ナメルナヨ、ニンゲンフゼイガ!』
「おおおおおおおおっ!」
『オオオオオオオオッ!』
ふたつの雄叫びが重なる。
一気に四本の脚を振り上げる土蜘蛛。その衝撃で骸骨侍を支えていたものが外れ、ボロボロだった身体が崩れ、塵となって消え去っていく。
最後の瞬間、物言わぬ骸骨が微笑んだような、そんな気がした。
無闇矢鱈に振り下ろされる足を、俺は両手の剣と刀で裁く。逸らし、躱し、反撃の機会を窺う。
限界が近い?
はっ。そんなの、関係ないね。
俺は戦うんだ。
こんな俺のことを信じてくれた奴らのために、そしてなにより自分のためにな!
迫る四本の脚。そのうちの一本を、右足を後ろに下げ半身を切ることで躱す。二本目は、半歩右に跳んで躱す。三本目を、左手に持った祀の剣で弾き飛ばす。激突の瞬間、全身の筋肉が連動し、血液が燃え、心臓が激しく鼓動を刻み、普段の俺では絶対に出せない力が生み出される。それができると、頭でなく心で予測できた。そして四本目を、逸らす。
『ナ……!?』
右手だけで持った刀を寝かせ、柄を左頭上に掲げるように持ち上げる。その状態で土蜘蛛の脚を受け、爪の先端が刀の腹に触れた瞬間、切っ先を下げ、刀の腹を滑らすようにして軌道を逸らす。キィィン、と、金属を擦る澄んだ音が聞こえ、土蜘蛛の爪が地面を穿つ。
最後の最後で骸骨侍から受け継いだ剣と技術、それの片手版。
俺が託された彼の魂を、俺が俺なりに再現したもの。
「はっ!」
間髪入れず左手の剣を手放し、俺は跳んだ。跳躍の瞬間に両足に体内で生成された熱が集約され、爆発する。跳び上がり、眼下に映るのは、土蜘蛛の鬼の表情。
その瞬間、身体の芯に集められた血液の変換が完了する。血液ではない別の何かが全身を駆け巡り、心臓ははち切れんばかりに暴れ狂う。戦いを求める闘争本能は健在、だがそれが意志を阻害することはない。精神と肉体。双方が、まるで別のものに生まれ変わったような気がする。
俺の中で、なにかが弾けた。
「おおおおおっ!」
全身全霊の力を込めて刀を振り下ろす。
御薙流奥義《迅雷》。ただただ迅さを求めて振り下ろされる、至高の一撃。
「あなたの敗因は、一人でなんでもできると思ったことなの。この世に完璧な存在なんていない。たとえ神様であっても、それは例外じゃないの。人間は誰しもが欠陥を抱えていて、それを補うために仲間がいるの。何でも一人でできるなんて、思い上がるな、なの」
刀が、土蜘蛛の頭を一切の抵抗なく通過する。額を抜け、口を抜け、顎を抜く。
「神様如きが、想いの力で人間に敵うと思うな、なの」
危うげなく着地し、俺は土蜘蛛に背を向けた。
「……ありがとう。時代に取り残された神」
俺と土蜘蛛と骸骨侍は、同じ存在だった。
俺は彼らを馬鹿にすることはできない。
彼らは……俺達は、どうしても曲げることができなかったのだ。自分が信じることを。
例え愚直だと分かっていても、そのせいで身を滅ぼすと分かっていても、それを変えてしまえば自分が自分でなくなってしまうような、ちっぽけで傍から見れば意味の無いプライドのようなもの。
だが、俺はもう、奴らとは同じではない。
そのおかげで戦いに囚われていた俺は……そのおかげで、戦いから解放されたのだ。
「おかげで俺はひとつ、強くなれた」
次の瞬間、土蜘蛛の身体がふたつに割れる。両断された身体は塵のような粒子となり、骸骨侍のように、塵となって消えていく。
「…………」
俺はそれを無言で見つめ、最後の粒子が消え去るのを確認してから、後ろに視線を向ける。
梢と祀。二人は驚きの表情を浮かべていたが、俺と視線が合うと、花のような笑みを浮かべてくれた。
その笑顔に、俺は笑顔を返しながら。
まるで電源の切れたテレビのように、俺の意識はそこで途切れたのだった。