2.公安零課
なんとなく、右手に巻かれた包帯を眺めてみる。
冷静になって考えてみると、古びているとはいえ鋼で編まれた鎧を素手で殴るという行為はあまりにも愚かであり、その代償は右手の怪我というかたちでキッチリと支払われていた。
その結果に後悔はない。
あのときはああするしかなかったし……それに、初めての尋常の勝負の興奮はまだ俺の中に残っている。身体中の血液が沸騰していると思えるほどの熱。その熱を受けて活性化する筋肉。身体の芯から何かが湧き上がってくるかのような感覚。殺意を向けられて焼けそうな肌。心臓の鼓動は今にも爆発してしまいそうなほどに激しく、最高に気分が良かった。
殺されかけたというのに、俺はあのときに向けられた殺意を、殺意を向ける相手にどす黒い殺意を返すことを、快感だと思ったのだ。負けたからこそ良かったものの、初めての戦いでもしも骸骨侍に勝利していたら……俺は、快感のあまり絶頂に達し、そのまま帰ってこれなくなっていたかもしれない。
抗いがたい心地良さ。ただただ純粋な殺意と敵意。理性や道徳、そういったものがドロドロと融け、黒い感情に心が埋め尽くされる。思うのは、願うのはただひとつ。相手を壊し尽くしたいという願望。そういう感情を向け、向けられるという享楽。
戦いの中に身を置くということは、俺が期待していた以上に気分の良いものだった。
それまでの戦い、ルールに従った競技上での決闘を、ままごとだと感じてしまうほどに。
「…………」
包帯に巻かれた右手を握る。それだけで痛みが走り、反射的に手を開いてしまう。その痛みですらも心地いいと感じる。試しに左肩も軽く動かしてみる。こっちはまだ麻酔が残っているのか、動かしても痛くはない。だが、縫合に使われた糸が引っ掛かるのか、動かすと肉を引っ張られるような違和感が残る。
右手に残る痛みと、痛みを感じない左肩。それは俺が戦いの中に身を置いたという証。一度知ってしまった戦いの味はあまりにも甘美で、到底忘れられそうもなかった。
願わくば、再びあの闘争を。命を賭けた尋常の勝負を。血を血で洗う、漆黒の殺し合いを。心の底からそう思ってしまう。
まるで呪いの如く俺のすべてを苛む、イかれた願望。
狂っている。
だけど、止められない。
やっぱり、俺は人間として大切ななにかが欠けているんだな。
あまりの快感に、最後のタガが外れて狂ってしまうかと思った。心を覆う負の感情の暗闇に、いっそ取り込まれてしまいたいとすら思った。あれだけの快感の後に自分を保っていられるのは、戦いの後で、それを上回る感情に苛まれているからに過ぎない。
「はぁ……」
右手から視線を外し、ため息をつきながら背もたれに身体を預ける。俺が今座っているソファーはかなり質が良いらしく、寝転べば気持ちよく眠れそうなくらいに快適な座り心地だった。
このままソファーに身体を鎮め、戦いの余韻に浸ることができるのならば、ある意味で楽になれるのかもしれない。
だが、戦いの快感を思いだそうとするたびに頭の隅を過るのは、あの少女の姿だった。
人懐っこそうな愛らしい顔で微笑みながら、俺に銃口を向ける姿。
その表情と行動があまりにもアンバランスすぎて、却って現実感がない。
それに加えて、少女の深紫の瞳に灯った輝きと、その更に奥に感じた違和感。その瞳を見つめるだけで、吸い込まれそうな感覚に襲われた。俺がこれまでにあった達人達とも違う、吸引力を伴う視線に感じる、明らかに異質な感覚。
その少女に拳銃を突きつけられたというのに、俺は殺意を増すどころかすっかりと毒気を抜かれ、事情を洗いざらい話した。
そのときには、なにも感じなかったのに。
でも、それで良かったんだ。
あのまま戦い続けていれば、俺は漆黒の殺意に呑まれて、俺ではなくなっていただろうから。
嫌になるよ、本当に。
どうして俺は、こうなんだろうな。
現代の価値観には到底許容されない悪癖。戦いを求めて、戦わないと生きていけず、戦いに溺れることを是とする人間性。
俺は確かに、戦いを求めている。
だが、それと同じくらい、俺はそんな自分が堪らなく嫌いなんだ。
俺には戦いしかない。戦いを求めるたびに、嫌でもそれを思い知らされてしまうから。
自分だけでは止められない、悪意を伴わない殺意。
それを止めた少女は、ただ一人だけ。
その少女が呼んだ救急車で、俺は六区の学園都市にある大学病院ではなく、五区のオフィス街にある警察署に運ばれた。戸惑う俺に対し、あれよと言う間に傷の手当てをされ、今俺がいる応接室で待つようにと指示され、今に至る。
その間中ずっと、彼女の深紫の瞳と、微笑みが、忘れられなかった。
「ごめんなさい、待たせてしまって」
扉を開く音と共に聞こえた静かな声に、俺は反射的に視線を向けた。
部屋に入って来たのは二人の女性。声の主はそのうちの片方、二〇代後半くらいの女性だった。長い黒髪を毛先でひとつに束ねていて、おっとりとした穏やかな瞳をしている。大和撫子、というのは彼女のような女性のことを言うのだろう。その後ろに追従しているのは――深紫の瞳をした、先程の少女だった。
「まずは、初めまして……かしらね。戦場戦人君」
二人は俺の前にあるソファーに座り、それから自己紹介が始まった。
「私の名前は、八百万八雲。警視庁公安零課の課長を務めています。そしてこちらは芹沢梢さん。この子も私と同じように、零課に所属しています」
「…………!」
芹沢梢。
それは確かに先程、その少女が名乗っていた名前で。
その声を聞いて、思わず立ち上がりそうになる。
「聞きたいことはたくさんあるでしょうね。だからそれを、これから説明させていただきます」
だが、俺のその反応を予想していたのか。
片手を上げることで制され、俺は仕方なく言葉を呑みこんだ。
それから、八雲という女性は俺の瞳をじっと見つめたまま、改めて口を開く。
「戦人君は、公安零課という部署名を聞いたことがありますか?」
その瞳の色は、先程の少女とは違う深い色をしていた。例えるなら、先程の少女を紫水晶とするなら、目の前の女性のそれは深海。すべてを受け入れ、すべてを見通しているような、深い海を思い起こさせる色。
その瞳に見据えられ、まるで眼球を通して心の内側を探られているような、そんな気がした。
「…………」
言いたいことはあるが、まずは話を聞かないと始まりそうにもないな。
八雲と名乗った女性の問いかけに答えようとして、気付いた。
公安零課、だと?
「はい。公安零課。あなたが思う通り、本来存在していないハズの部署です」
疑問を先読みして答えられる。
もしかして、顔に出ていたのか?
まぁ、それはいい。
俺が知っている限り……テレビの特番で得た知識なんだが、警視庁公安本部は総務、一~四課、外事一~三課、そして機動警備隊の計九部署で構成されている。だから、零課なんて頓狂な名前の部署なんて聞いたことがない……存在していないハズなのだ。
「公安零課は、正式には存在していない部署であり……その名前の通り、正式には存在していない存在に対処するための部署です」
「存在、しないもの……」
「心当たりが、ありますよね?」
少し前までの俺だったならば、ないと答えていたのだろう。
だが、俺は知っている。忘れるわけがない。
巷では骸骨侍と呼ばれている、明らかに異質な存在を。それに追随する、どす黒い感情を。
それに纏わる顛末を……忘れられる、わけがないんだ。
「有体に言えば妖怪とか、幽霊とか。珍しいところだと、都市伝説とか怪異とか、かな。とにかくそういう風な、科学で存在が証明できない……つまり、法律で裁けない相手が起こす犯罪を解決するのが、公安零課のお仕事なの」
噛み砕いた言葉で梢というらしい先程の少女が捕捉する、作り話のような内容。
ありがちな少年向けアクション漫画の設定のようで、しかし俺はそれを認めざるを得ない。
突拍子もないと否定するのは簡単だが、俺はそれを否定する材料を持ちあわせていなかった。
「あの……八百万さん?」
「……ああ、私のことは八雲、と呼んでください。八百万、って言いにくいですし」
「なら、私のことは梢ちゃんって呼んでほしいの。呼び捨ても可だけど、できれば名前で、ちゃん付けがいいの」
「ちゃ……」
あんた、俺と同じくらいの年齢なんだよな?
学園都市でも評判の、お嬢様学校の生徒なんだよな?
と言うか、さっきの声と全然違うけど、こっちがお前の素なのか?
「ちなみに、私は今十七歳の高校三年生なんだけど、戦人君は何歳なの?」
「…………え?」
おいおい、冗談だろ?
制服から同年代だとは思っていたが、まさか年上だとは。見た目が小柄で童顔、声から受ける印象が大分幼いから、制服を着ていなければ中学生、下手したら小学生でも通じるぞ。
なんだか、人体の神秘を見た気分だ。
「その反応を見ると、年下だね。だったら、お姉さんの言うことはちゃんと聞くものなの。ほら、『梢ちゃん』。りぴーと、あふたみー?」
勘弁してくれ。
この年で一応とはいえ年上の女子をちゃん付けで呼ぶのは、罰ゲームよりもタチが悪い。
せめて、呼び捨てで勘弁してください。
いや、割と本気で。
「梢さん。戦人君を困らせては駄目ですよ?」
「もう。女の子の名前をちゃん付けで呼ぶことに躊躇いを覚えるなんて、戦人君はとんだ童貞野郎なの」
「…………」
なぁ、俺の聞き間違いじゃなければ、今俺が知っているお嬢様学校の生徒の口から絶対に漏れてはいけない類の単語が聞こえた気がするんだが。
……とりあえず、気にしたら負けな気がするから、聞かなかったことにしよう。
と言うか、年上がどうこう言う以前に、梢は未成年だよな?
内容が胡散臭いというのはともかく、未成年が所属してて、本当にまともな組織なのか?
「あー……その、八雲さん。ひとつ、聞いていいですか?」
「どうして、梢さんのような未成年が公安部に所属しているのか、ということですか?」
「は、はい」
質問の内容をまた先回りされたことに戸惑いつつ、俺は頷いた。
どうなってるんだ?
もしかして、人の心でも読めるのか? それとも俺の疑問がそんなに分かりやすいくらいに顔に出てるのか、あるいはテンプレート的な質問なのだろうか。
「私達が相手にすることになる幽霊、妖怪、異能力者……そういったモノへの対処が可能な能力を持つ人となると、本当に数が少なくて……不本意ではありますが、公安零課は未成年の方々に頼らざるを得ないほどに、万年人手不足なんです。でも、公式には存在しない部署だからこそ、梢さんのような未成年でも零課に所属できるのです」
「方向性は色々あるけど、実力がある人なら訓練次第でそういう存在に対処できるようになるの。でも、そうなるためにはそれなりの年月と訓練と才能が必要だから、私みたいな見込みのある若い署員がいるだけなの。別に女子高生ばっかりが働いてる部署ってわけじゃないの。それとも、そういうのを期待してたの? もう、戦人君のむっつりすけべ」
「…………」
気にしたら負けだぞ、俺。
「対処できる人間ってのは……いわゆる、霊能力者みたいな人が所属してるってことですか?」
「もちろん、一般的に言う霊能力者も所属していますが、どちらかと言えば特殊能力や特殊技能持ちの方が多いですね。公式には存在していないモノ達とは、なにも幽霊や妖怪の類ばかりではありませんし。……梢さんも、霊能力者と言うよりは特殊能力者ですよ」
「私の能力は大したことはないの。もっとすごい子は他にたくさんいるの」
「梢さん。あまり卑下するものではありませんよ。梢さんは梢さんにしかない強さがあるから、私も頼りにしているのですから」
しかし、なんなんだ、この二人は。
話の内容もアレだが、それ以上になにかがおかしい。そのなにか、がなんなのかまでは分からないのだが。
予定調和、とでも言うのだろうか。
こちらの考えを見透かされている……と言うよりは、まるで演劇の世界に参加しているような、そんな感覚を覚える。
誰かと話していて、ここまで違和感を覚えるのは初めてだぞ。
「ここまでのお話で、他に質問はありますか?」
「いえ……今のところは、特には」
突っ込み所が多くて心労が溜まるけどな。
「では、……ここからが、本題です」
コホン、と咳払いひとつ。
それから改めて、八雲さんが口を開いた
。
「戦人さん。あなたは骸骨侍と戦いました。その勝敗は別として……あなたにはどうやら、彼らのような存在に対抗できる才能があるようです」
それまでのどこか砕けた雰囲気ではない。
神妙な面持ちで語る八雲さんが言葉を紡ぐたびに、空気が張り詰めていくような気がする。
その言葉を聞くごとに、心臓の鼓動が高鳴っていくのが分かる。
戦いのときに感じた、黒い感情が湧き上がるのも、分かる。
「先程も言いました通り、公安零課は万年人手不足です。ですので、才能のある方はもちろんですが、将来有望な方のスカウトや育成も積極的に行っています。そこで――」
俺は、致命的な欠陥を抱えた人間だ。
戦闘戦斗と呼ばれる存在。戦うために戦うことを望む狂人。
殺されかけたというのに、戦いに快楽を見出した。戦いで相手に無理矢理に打ちつけ、壊れかけた拳の痛みに心地良さを感じた。一歩間違えれば死んでいたというのに、それでもまだ、俺の心は戦いを求めている。それは本当に狂いそうなくらいの快感で、首の皮一枚のところで正気を保っていられるというのに。
どうしようもない戦闘狂。
戦いを求めて、求めて、求めて、目の前の二人とも戦いたいと思い初めている。
現代を生きる人間としての歪み、生物としての欠陥。その欠陥を埋めることができず、戦う機会を求めて彷徨っていた。
だから俺は、八百万八雲が告げるその言葉を、心のどこかで期待していたのかもしれない。
「戦場戦人さん。あなたを、公安零課にスカウトします」
骸骨侍のような存在を知り、公安零課の説明を聞いた瞬間に、真っ先に閃いた。
ここにいれば、戦う機会が生まれるんじゃないか?
俺の予想は、間違っていなかった。
ただ、問題があるとすれば。
「いいんですか? 俺みたいな、どこの馬の骨とも知れないような人間をスカウトして」
それは、聞いておかなければならないことだ。
公安零課は非公式組織であるとはいえ、間違いなく秩序を守る側の存在だ。
人々を守るという崇高な使命のもと設立された組織。所属している人間が全員聖人君子というわけではないだろうが、基本的には『守ること』を目的としているのだろう。俺のような人間として大切なものの欠落した人間が、『戦うこと』を目的に戦いを求める人間が、秩序側にいてもいいのだろうか。こんな、真っ黒な感情を抱く、敵を斃し毀すことを望むような人間を、本当に戦わせてもいいのか。
だが、そんな心配をする俺に対して、八雲さんはため息をひとつ。
それから微かな苦笑を浮かべ、まるで小さな子供に言い聞かせるような穏やかな言葉で。
「戦人さん。人間とは、必ず何かしらの欠陥を抱えているものです。それを補うために、仲間がいるのですよ」
その穏やかな言葉に、俺は戦慄した。
どうして、それが分かるんだ。
いや、今だけじゃない。
八雲さんは初めから、俺が聞きたいこと尋ねたいことに先回りして答えている。
俺がなにを考え感じているのか、すべて理解しているかのように。
まるで眼球を通して心の内側を探られているようだ。最初に感じたその感覚は、決して気のせいなどではなかった。彼女は本当に、俺の心を覗いているのか? 心を見透かされたかのような感覚に、気持ち悪さすら覚える。
八百万八雲。あんたは一体……何者なんだ?
「安心するの、戦人君。私達は戦人君が心配しているような、正義の組織じゃないの」
呆然とする俺に対して、梢が語りだす。
「例えば、私達には人命保護は義務付けられていないの。公式には存在していないモノ達が基本的に人間以上の力を持っていて、人命を優先すると私達の方が危なくなるからなんだけど……それって捉え方によっては、ものすごく残酷なことなの」
言葉を紡ぐ梢から、先程までの人懐っこさを感じない。いや、喋り口調も声質も、本当に変化していないのだ。変わったのは、本質。声を発し、聞く条件は同じなのに、そのなにもかもが異質なものに思えた。
「だから、安心して欲しいの。ここにいる人間に、戦人君が考えているような真っ当な人なんていないの。みんなみんな、人としてどこか欠けた人達ばっかりなの。戦人君と、同じだよ?」
あくまで笑顔で、梢は語る。
その笑顔が、酷く悪魔的なものに見える。
それだけじゃない。
言葉を交わすたびに、芹沢梢という存在が分からなくなる。その言葉を聞くたびに、得体の知れないなにかを感じる。
俺が会話している、お嬢様学校の制服に身を包んだ小柄な少女は……本当に、人間なのか?
それを自覚してしまった今、目の前の二人から、骸骨侍という存在以上に、異質なものを感じる。
だが。
それ以上に――戦えるということは、俺にとって抗いがたい魅力を有していた。
光に吸い寄せられる蛾のように。
あるいは、薬物依存患者のように。
俺は、戦うという行為から、逃れられそうもない。
「……分かりました。俺を、公安零課の一員にしてください」
「ありがとうございます、戦人君」
「良かったね、戦人君。あなたの願いが叶えられて。私も嬉しいの」
頭を下げる八雲さんと、子供のような邪気のない笑顔を浮かべる梢。
その行為を、笑顔を、俺は額面通りに捉えることができない。
だけど、それで構わない。
戦いの場を提供してくれる。今はそれで十分だ。
「では、早速で申し訳ないのですが、明日から仕事を初めてもらいます。と言っても、しばらくは研修期間ということで、梢さんの下で指示に従ってもらうことになりますけど」
「個人的には、戦人君にはとっても期待してるの。戦人君が望むなら英雄にだってなれると思ってるの。だけど手を抜くつもりはないから、しっかりついてきてね、戦人君」
二人の説明を聞きながら、俺は思う。
戦いの場が与えられることに対する歓喜。思い出されるのは、戦いに感じた快感。あの感覚をまた味わうことができる。殺意を向け、向けられることができる。そのことに血肉が反応し、喜びに打ち震える。
暗く、黒い、願い。
そんな自分自身が、俺は大嫌いなんだ。
それはこれからも、変わりそうにない。