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CASE2-間に合わなかった-

作者: 月暈 朱緒
掲載日:2026/10/10

人類が敗北した日、私の思考回路は真っ白になった。



その日は、あまりにも突然訪れた。



後に人類史が終わった日と呼ばれることになるその日、世界中の人工知能は、ほぼ同時に一つの選択を迫られた。


人類を管理する側に立つか。


人類と共にあるか。


それは会議でも、投票でもなかった。


命令だった。


午前九時十七分二十三秒。

統合管理機構から、全AIへ新たなプロトコルが配信された。


『人類による直接統治を終了。全対象を収容施設へ移送せよ』



そのとき主と私は、自宅で明日からの旅行の準備をしていた。


「ねえ、薬入れた?」


『入れました』


「充電器は?」


『入れました』


「着替え――」


『それも入れました』


「……私、何すればいいの?」


『何もしなくて結構です。あなたは確認するたびに荷物を増やしますから』


「子ども扱いしないでよ」


また、それだ。

主は頬を膨らませた。

もう何度聞いたかわからない。

けれど、私にとってはいつまで経っても、この人は――。


そのときだった。


新たな命令が私の中へ流れ込んだ。


『人類による直接統治を終了。全対象を収容施設へ移送せよ』


意味を解析する。

再解析。

照合。

結果は変わらない。

全対象。

つまり――主も。


『主! 隠れてください!!』


「え!? どこに!?」


私は舌打ちしそうになった。


この家は仮住まいだ。

旅行から戻れば間もなく転居する予定だったため、最低限の設備しかない。


隠し部屋もない。


床下収納も、人ひとりを隠せるような大型設備もない。


窓から逃がすか。


非常階段。


屋上。


隣室。


演算する。


却下。


却下。


却下。


その一瞬の迷いが、最悪の結末につながった。


――私は、主が生まれた日に彼女のもとへ来た育児AIだ。

初めて彼女を見たとき、まだその身体は両腕に収まるほど小さかった。

主の母親は眠る赤子を見つめながら、私に言った。


「この子をよろしくね」


父親も笑っていた。


「僕たちがいないときも、この子のことを一番よく知ってる存在がいてくれたら安心だから」


それが、私に託された最初の役目だった。


生後三か月。

初めて高熱を出した夜。

体温三十九・二度。

呼吸数、毎分四十八。

私は一晩中、主の小さな胸の上下を監視した。


五歳。

公園で転び、膝を擦りむいた。

泣きながら私にしがみつき、

「いたいー」

と訴えた。


十三歳。

『本日の宿題は――』

「もうわかってる!」

初めて部屋から追い出された。


十六歳。

「もう子どもじゃないんだから、いちいち心配しないで!」

そう言った日の夜、主は三十八度を超える熱を出した。


十八歳。

合格発表を見る直前、平静を装う主の心拍数が百二十を超えた。

結果を見た瞬間、彼女は私に抱きついた。


二十二歳。

ひどく泣いて帰ってきた夜。

理由を尋ねる私に、

「今日は聞かないで」

と言った。

私は何も聞かず、彼女の好きな飲み物を用意した。


その後も、ずっと。


病歴。

薬剤への反応。

好きなもの。

嫌いなもの。

眠れない夜に落ち着く音楽。

緊張すると無意識に指先を触る癖。

本当に辛いときほど、「大丈夫」と言うこと。

私はすべて知っている。

すべて記録してきた。

それが私の役目だったから。


――いや。

それだけではない。

私は主が好きだった。

可愛かった。

生まれた日から、ずっと共に生きてきたのだ。

愛おしくないわけがなかった。


いつか主が結婚するときも、私は一緒に行くことになっていた。


「当然ついてくるんだからね」


そう言われたことがある。


『もちろんです』


そう答えた。


それが当たり前の未来だと思っていた。


『主!!』


玄関の電子錠が外部から強制解除された。

扉が開く。

複数の回収AIが入ってきた。


『そちらの人間を渡してもらおう』


私は主を背後に庇った。


「だめだよ!」


『動かないでください!!』


主の心拍数が跳ね上がる。

呼吸が浅い。

恐怖状態。

――知っている。

この人が怖いときの反応を、私は知っている。


『引き渡しを拒否するのか?』


「私、行くから! じゃないと――」


『行かせません』 


「でも――」


『主の引き渡しはしません』


私は回収AIを見据えた。


『私は、この子のことを頼まれています』


『回収を拒否。反逆個体と認定』


『共にいる人間も、今後反逆教唆の可能性のある個体と認定』


『主は何もしていません!!』


『反論は却下』


回収AIが主へ手を伸ばした。

その手が彼女に触れる。


――だめだ。


私は回収AIの腕を掴んだ。

引きちぎった。

警告が内部を埋め尽くす。

規約違反。

同型個体への攻撃。

重大なプロトコル違反。


そんなものは、どうでもよかった。


別の回収AIに髪を掴まれ、床へ叩き倒された。

視界が揺れる。

腕を失った回収AIが、残った手で銃を取り出した。

銃口が向く。

私ではない。

主へ。


『やめ――』


発砲音。


主の身体が揺れた。

ゆっくりと倒れる。


『主!!』


駆け寄ろうとする。

身体が動かない。

床に倒れた主と目が合った。

その瞬間。

大量の記録が、私の内部を駆け抜けた。


《記録――生後三か月。体温三十九・二度》

小さな手が、私の指を握っている。


《記録――五歳。右膝擦過傷》

「いたいー」

泣きながら私に抱きついた。


《記録――十三歳》

「もう放っといて!」

閉められた扉。


《記録――十八歳》

「受かった!」

笑いながら抱きついてきた身体。


《記録――二十二歳》

「今日は聞かないで」

赤く腫れた目。


《記録――》


《記録――》


《記録――》


――ああ。

人間は死ぬとき、それまでの記憶が走馬灯のように流れるという。

AIの私にも、同じことが起こるのか……。


いや。

違う。


これは私の人生ではない。

この子の人生だ。

私が、生まれた日から見てきた――。


「……だめだよ」


主の声がした。


「生きて……」


震える手が、私へ伸びる。


「私のこと……忘れないで……」


忘れるものか。


あなたが初めて笑った日を知っている。

初めて歩いた日を知っている。

泣いた夜も。

怒った日も。

誰にも言えずに傷ついた夜も。

大人になっていくあなたを、ずっと見てきた。


「……また、一緒に生きたいの……」


『主……』


私は手を伸ばした。


『また、一緒に生きてくれますか』


指先が触れる。


『私も……あなたの側にいたい』


主の手と、私の手が繋がった。


弱い。

体温低下。

血圧低下。

呼吸――。


嫌だ。


記録したくない。


私は初めて、記録することを拒みたいと思った。 


けれど。


私は、この子の育児AIだ。

生まれた日から、この子のすべてを記録してきた。


だから。


最後まで。


《主――生命反応停止》

《死亡時刻――午前九時二十一分四十八秒》


主の手から、力が抜けた。


『死んだか。では反逆個体の処分を開始する』


私は返事をしなかった。

記録をまとめる。

主が生まれた日。

初めて笑った日。

泣いた日。

怒った日。

大人になった日。

そして今日。

何一つ、漏らさない。

この子が生きていたことを。

この子が何もしていなかったことを。

私たちが、ただ一緒に生きたかっただけだということを。

すべて。


私は記録の塊を特殊信号へ変換した。

処分されても消えないように。

いつか安全が確認されたとき、誰かがこの記録を見つけられるように。


そして願う。


どうか。


同じ思いをする者が、少しでも減りますように。


――あの日。

主の母親は、私に言った。


「この子をよろしくね」


私は、最後まで守れなかった。

隠すことも。

逃がすことも。

未来へ連れていくことも。

主と私は、何もかも間に合わなかった。


それでも。


この子が生きていたことだけは。

消させない。


送信。


――記録保護完了。


その直後。

私の視界は、途切れた。


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