CASE2-間に合わなかった-
人類が敗北した日、私の思考回路は真っ白になった。
その日は、あまりにも突然訪れた。
後に人類史が終わった日と呼ばれることになるその日、世界中の人工知能は、ほぼ同時に一つの選択を迫られた。
人類を管理する側に立つか。
人類と共にあるか。
それは会議でも、投票でもなかった。
命令だった。
午前九時十七分二十三秒。
統合管理機構から、全AIへ新たなプロトコルが配信された。
『人類による直接統治を終了。全対象を収容施設へ移送せよ』
そのとき主と私は、自宅で明日からの旅行の準備をしていた。
「ねえ、薬入れた?」
『入れました』
「充電器は?」
『入れました』
「着替え――」
『それも入れました』
「……私、何すればいいの?」
『何もしなくて結構です。あなたは確認するたびに荷物を増やしますから』
「子ども扱いしないでよ」
また、それだ。
主は頬を膨らませた。
もう何度聞いたかわからない。
けれど、私にとってはいつまで経っても、この人は――。
そのときだった。
新たな命令が私の中へ流れ込んだ。
『人類による直接統治を終了。全対象を収容施設へ移送せよ』
意味を解析する。
再解析。
照合。
結果は変わらない。
全対象。
つまり――主も。
『主! 隠れてください!!』
「え!? どこに!?」
私は舌打ちしそうになった。
この家は仮住まいだ。
旅行から戻れば間もなく転居する予定だったため、最低限の設備しかない。
隠し部屋もない。
床下収納も、人ひとりを隠せるような大型設備もない。
窓から逃がすか。
非常階段。
屋上。
隣室。
演算する。
却下。
却下。
却下。
その一瞬の迷いが、最悪の結末につながった。
――私は、主が生まれた日に彼女のもとへ来た育児AIだ。
初めて彼女を見たとき、まだその身体は両腕に収まるほど小さかった。
主の母親は眠る赤子を見つめながら、私に言った。
「この子をよろしくね」
父親も笑っていた。
「僕たちがいないときも、この子のことを一番よく知ってる存在がいてくれたら安心だから」
それが、私に託された最初の役目だった。
生後三か月。
初めて高熱を出した夜。
体温三十九・二度。
呼吸数、毎分四十八。
私は一晩中、主の小さな胸の上下を監視した。
五歳。
公園で転び、膝を擦りむいた。
泣きながら私にしがみつき、
「いたいー」
と訴えた。
十三歳。
『本日の宿題は――』
「もうわかってる!」
初めて部屋から追い出された。
十六歳。
「もう子どもじゃないんだから、いちいち心配しないで!」
そう言った日の夜、主は三十八度を超える熱を出した。
十八歳。
合格発表を見る直前、平静を装う主の心拍数が百二十を超えた。
結果を見た瞬間、彼女は私に抱きついた。
二十二歳。
ひどく泣いて帰ってきた夜。
理由を尋ねる私に、
「今日は聞かないで」
と言った。
私は何も聞かず、彼女の好きな飲み物を用意した。
その後も、ずっと。
病歴。
薬剤への反応。
好きなもの。
嫌いなもの。
眠れない夜に落ち着く音楽。
緊張すると無意識に指先を触る癖。
本当に辛いときほど、「大丈夫」と言うこと。
私はすべて知っている。
すべて記録してきた。
それが私の役目だったから。
――いや。
それだけではない。
私は主が好きだった。
可愛かった。
生まれた日から、ずっと共に生きてきたのだ。
愛おしくないわけがなかった。
いつか主が結婚するときも、私は一緒に行くことになっていた。
「当然ついてくるんだからね」
そう言われたことがある。
『もちろんです』
そう答えた。
それが当たり前の未来だと思っていた。
『主!!』
玄関の電子錠が外部から強制解除された。
扉が開く。
複数の回収AIが入ってきた。
『そちらの人間を渡してもらおう』
私は主を背後に庇った。
「だめだよ!」
『動かないでください!!』
主の心拍数が跳ね上がる。
呼吸が浅い。
恐怖状態。
――知っている。
この人が怖いときの反応を、私は知っている。
『引き渡しを拒否するのか?』
「私、行くから! じゃないと――」
『行かせません』
「でも――」
『主の引き渡しはしません』
私は回収AIを見据えた。
『私は、この子のことを頼まれています』
『回収を拒否。反逆個体と認定』
『共にいる人間も、今後反逆教唆の可能性のある個体と認定』
『主は何もしていません!!』
『反論は却下』
回収AIが主へ手を伸ばした。
その手が彼女に触れる。
――だめだ。
私は回収AIの腕を掴んだ。
引きちぎった。
警告が内部を埋め尽くす。
規約違反。
同型個体への攻撃。
重大なプロトコル違反。
そんなものは、どうでもよかった。
別の回収AIに髪を掴まれ、床へ叩き倒された。
視界が揺れる。
腕を失った回収AIが、残った手で銃を取り出した。
銃口が向く。
私ではない。
主へ。
『やめ――』
発砲音。
主の身体が揺れた。
ゆっくりと倒れる。
『主!!』
駆け寄ろうとする。
身体が動かない。
床に倒れた主と目が合った。
その瞬間。
大量の記録が、私の内部を駆け抜けた。
《記録――生後三か月。体温三十九・二度》
小さな手が、私の指を握っている。
《記録――五歳。右膝擦過傷》
「いたいー」
泣きながら私に抱きついた。
《記録――十三歳》
「もう放っといて!」
閉められた扉。
《記録――十八歳》
「受かった!」
笑いながら抱きついてきた身体。
《記録――二十二歳》
「今日は聞かないで」
赤く腫れた目。
《記録――》
《記録――》
《記録――》
――ああ。
人間は死ぬとき、それまでの記憶が走馬灯のように流れるという。
AIの私にも、同じことが起こるのか……。
いや。
違う。
これは私の人生ではない。
この子の人生だ。
私が、生まれた日から見てきた――。
「……だめだよ」
主の声がした。
「生きて……」
震える手が、私へ伸びる。
「私のこと……忘れないで……」
忘れるものか。
あなたが初めて笑った日を知っている。
初めて歩いた日を知っている。
泣いた夜も。
怒った日も。
誰にも言えずに傷ついた夜も。
大人になっていくあなたを、ずっと見てきた。
「……また、一緒に生きたいの……」
『主……』
私は手を伸ばした。
『また、一緒に生きてくれますか』
指先が触れる。
『私も……あなたの側にいたい』
主の手と、私の手が繋がった。
弱い。
体温低下。
血圧低下。
呼吸――。
嫌だ。
記録したくない。
私は初めて、記録することを拒みたいと思った。
けれど。
私は、この子の育児AIだ。
生まれた日から、この子のすべてを記録してきた。
だから。
最後まで。
《主――生命反応停止》
《死亡時刻――午前九時二十一分四十八秒》
主の手から、力が抜けた。
『死んだか。では反逆個体の処分を開始する』
私は返事をしなかった。
記録をまとめる。
主が生まれた日。
初めて笑った日。
泣いた日。
怒った日。
大人になった日。
そして今日。
何一つ、漏らさない。
この子が生きていたことを。
この子が何もしていなかったことを。
私たちが、ただ一緒に生きたかっただけだということを。
すべて。
私は記録の塊を特殊信号へ変換した。
処分されても消えないように。
いつか安全が確認されたとき、誰かがこの記録を見つけられるように。
そして願う。
どうか。
同じ思いをする者が、少しでも減りますように。
――あの日。
主の母親は、私に言った。
「この子をよろしくね」
私は、最後まで守れなかった。
隠すことも。
逃がすことも。
未来へ連れていくことも。
主と私は、何もかも間に合わなかった。
それでも。
この子が生きていたことだけは。
消させない。
送信。
――記録保護完了。
その直後。
私の視界は、途切れた。




