没落貴族の坊っちゃんは英雄になりたい 〜珍しいだけの〈栄光の紋章〉を持つ冒険者と、雇われ吟遊詩人の最初の武勇伝〜
楽器が壊れた。
吟遊詩人にとって、それは剣士が剣を失うのと同じくらい深刻な問題だ。
「……終わった」
私は宿屋の一室で、胴に大きな亀裂の入った楽器を抱えていた。
昨日までは、まだ使えた。
少し音が悪くなっている気はしていたけれど、弦を張り直せばもうしばらく持つと思っていた。
甘かった。
昨夜、酒場で最後の一曲を弾き終えた直後だった。
ぱきり、と嫌な音がした。
朝一番で職人に見てもらったものの、
「こりゃ直すより買った方が安いね」
と言われてしまった。
そして、新しい楽器を買う金はない。
財布をひっくり返しても、あと数日分の宿代と食費が出てくるだけだ。
楽器がなければ歌えない。
歌えなければ稼げない。
稼げなければ楽器を買えない。
「どうしろっていうのよ……」
机に突っ伏したところで、部屋の扉が叩かれた。
「いるか?」
「いるけど、お金ならないよ」
「誰も取り立てに来たわけじゃねえよ」
宿の主人だった。
顔を上げると、主人は呆れたような顔をしていた。
「仕事を探してただろ」
「楽器なしでもできる仕事なら」
「お前、吟遊詩人だよな?」
「今は無職に近いけどね」
「だったら、ちょうどいい話がある」
私はゆっくり身体を起こした。
「どんな?」
「専属の吟遊詩人を探してる奴がいる」
「専属?」
「ああ。冒険についてきて、自分の活躍を記録して、歌にしてほしいんだと」
何だそれ。
ずいぶん変わった依頼だった。
「冒険者?」
「これからなるらしい」
「……大丈夫なの、その人」
「元貴族だ」
少しだけ興味が湧いた。
「元?」
「家が没落したらしい。だが、剣の教育はちゃんと受けてるそうだ。それに珍しい紋章持ちだとよ」
「珍しい紋章?」
「ああ」
それなら話が変わる。
紋章を持つ者すべてが戦いに向いているわけではない。
けれど、魔物と戦う冒険者を目指すなら話は別だ。
身体を強くするもの。
剣や槍の扱いを助けるもの。
魔術、感知、治癒。
種類は何でもいい。
まともに魔物と戦うつもりなら、何かしら戦闘に役立つスキルを持っているのが普通だった。
そうでなければ、命がいくつあっても足りない。
まして貴族には、強力な紋章が現れやすい。
そのうえ珍しい紋章持ちだという。
有望株なのではないだろうか。
「報酬は?」
「一月契約。給金は前払い。旅の宿代と食費も向こう持ちだ」
私は立ち上がった。
「どこ?」
「変わり身早いな、お前」
「吟遊詩人には決断力が必要なの」
◇
その日の昼。
私は件の元貴族――後にずっと「坊っちゃん」と呼ぶことになる男と出会った。
もちろん、坊っちゃんにもちゃんと名前はある。
本人は何より、その名前を世に広めたがっている。
けれど、私は会った時からずっと坊っちゃんと呼ぶことになる。
だから、この話でもそう呼ばせてもらおう。
最初の印象は、元気だった。
とにかく元気だった。
二十を少し過ぎたくらいだろう。
身体はしっかり鍛えられている。
服装は上等というほどではないが、姿勢や身のこなしには育ちの良さが残っていた。
腰には剣。
派手な装飾などない、よく手入れされた実用品だ。
彼は私を見るなり立ち上がった。
「君が吟遊詩人か」
「そうだけど」
「楽器は?」
「壊れた」
「なるほど」
少し考えてから、彼は言った。
「新しいものを買えばいい」
「買うお金があれば困ってないんだけど」
「給金は前払いだ」
そう言って、革袋を机の上に置いた。
持ち上げる。
重い。
中身を確認して、私は目を疑った。
「……これ、一月分?」
「そうだ」
「多くない?」
「専属で同行してもらうのだから、この程度は必要だろう」
私はその場で契約を決めかけた。
だが、一応は仕事内容を確認する。
「具体的に何をすればいいの?」
「私の冒険についてきてもらう」
「うん」
「私の戦いを見て、そして記録する」
「そこまでは分かる」
「それを歌にし、各地で広める」
「……自分の?」
「当然だ」
胸を張った。
「私は英雄になる。その時になってから記録を始めたのでは遅い」
「まだ何もしてないんだよね?」
「だから今から始める」
何を当たり前のことを、とでも言いたげな顔だった。
変人だ。
間違いない。
だが、金払いはいい。
「一つだけ条件があるわ」
「言ってみろ」
「やってないことは歌わないから」
「当然だ」
即答だった。
「嘘の武勇伝など価値がない。私は私自身の功績で名を上げる」
その答えには、少し感心した。
虚勢だけの人間なら、十人倒したところを百人にしろくらい言いそうなものだ。
「途中で私から辞める場合は?」
「残りの日数分は返してもらう」
「まあ、そりゃそうか」
「こちらから契約を切る場合は返さなくていい」
「分かった」
私は手を差し出した。
「じゃ、契約成立」
「よろしく頼む」
こうして私は、英雄志望の没落貴族に雇われた。
この時の私は、本気で運が向いてきたと思っていた。
◇
契約金を受け取ったその足で、私は楽器屋へ向かった。
新しい楽器を買った。
前から目をつけていたものだ。
安物ではない。
音もいい。
ついでに予備の弦と、頑丈なケースも買った。
旅用の外套も古くなっていたので新調した。
底の薄くなっていた靴も替えた。
溜めていた宿代も払った。
食事も久しぶりに肉を頼んだ。
「最高」
新しい楽器を抱えて宿へ戻った時には、財布の中身はかなり軽くなっていた。
それでも構わなかった。
一月は食費も宿代も雇い主持ちなのだ。
その間にいくらか貯めればいい。
翌朝。
私は上機嫌で坊っちゃんの宿を訪ねた。
そこで、ふと思い出した。
「そういえば」
「何だ?」
「珍しい紋章を持ってるって聞いたけど」
「ああ」
「何の紋章なの?」
坊っちゃんは待ってましたとばかりに胸を張った。
「〈栄光の紋章〉だ」
「……栄光?」
「いい名前だろう」
聞いたことがない。
でも、名前だけならものすごく強そうだった。
「それで、どんなスキルがあるの?」
「まだない」
「……え?」
私は瞬きをした。
「身体を強くするとか」
「ない」
「剣に関係するものは?」
「ないな」
「魔術は?」
「使えん」
「危険を察知するとか」
「ない」
「……それで冒険者になるの?」
「そのつもりだが」
「死ぬ気?」
坊っちゃんは不思議そうな顔をした。
「何故だ?」
「何故って……」
「剣なら使える」
「そういう問題じゃないでしょ」
冒険者になるだけなら誰でもできる。
薬草を採る者もいれば、荷物運びを専門にする者だっている。
けれど、魔物討伐を仕事にするなら別だ。
戦闘に使えるスキルを一つも持たずに魔物へ向かうなど、普通は自殺行為と呼ぶ。
「神殿では何て言われたの?」
「極めて珍しい紋章だと」
「それだけ?」
「今後どんなスキルが発現するのか分からない、とも」
「過去の例は?」
「よく知らん」
坊っちゃんは自分の腕に刻まれた紋章を見て、満足そうに頷いた。
「だが〈栄光〉だぞ。私に相応しい」
私は新しい楽器を見た。
昨日買ったばかりの、とてもいい楽器だった。
「ちょっと用事を思い出した」
「そうか。昼には戻れ」
「うん」
私は走った。
◇
町の神殿。
古書店。
冒険者ギルドの資料室。
紋章に詳しいという老人。
調べられる限り調べた。
そして夕方。
「……嘘でしょ」
古い紋章図鑑を前に、私は頭を抱えていた。
〈栄光の紋章〉。
非常に珍しい。
記録に残る発現例はごく僅か。
ただし、その保持者から有用なスキルが発現したという記録は、ほとんど見つからない。
戦場で名を上げた者もいない。
高名な魔術師もいない。
歴史に残るほどの英雄も見当たらない。
古い研究者が残した記述には、こうあった。
『希少ではあるが、その有用性については明らかでない』
「珍しいだけじゃん……」
思わず呟いた。
近くにいた司書に睨まれた。
小さく謝り、図鑑を閉じる。
元貴族。
珍しい紋章持ち。
冒険者志望。
私は当然、何かすごい戦闘系のスキルを持っているか、少なくとも発現が期待されているものだと思っていた。
実際には。
戦闘スキル、一つもなし。
紋章の過去を調べても、期待できそうな情報はなし。
「……契約金」
財布を出す。
ほとんど残っていない。
宿代。
靴。
外套。
弦。
そして、新しい楽器。
全部使った。
脳裏に昨日の契約内容が蘇る。
こちらから途中で辞める場合、残りの日数分は返金。
「どうすんのよ……」
返せない。
私は机に額をつけた。
一月。
一月だけだ。
一月、この英雄志望の坊っちゃんに付き合えばいい。
そして何より。
死ななければいい。
◇
「これを受けよう」
「受けられません」
翌日。
冒険者ギルドに登録を済ませた坊っちゃんは、早速受付で断られていた。
持ってきたのは、山岳地帯に棲み着いた大型飛竜の討伐依頼だった。
私は後ろで頭を抱えた。
「何故だ?」
「討伐実績が足りません。経験のない冒険者に任せられる依頼ではありませんから」
「なるほど」
坊っちゃんは素直に依頼書を戻した。
意外だった。
「では、どうすれば受けられる?」
受付が説明する。
まず小さな依頼をこなすこと。
実際の戦闘能力や判断力をギルドに示すこと。
危険な依頼ほど、それまでの実績が求められること。
坊っちゃんは真面目に聞いていた。
「分かった。規則なら従おう」
私は少しだけ驚いた。
てっきり、
『私なら倒せる』
と食い下がると思っていた。
「では、今の私が受けられる中で、一番名が売れそうな仕事は?」
前言撤回。
やっぱりこの男は変だ。
受付が困った顔で依頼書を一枚選んだ。
「こちらなら」
村近辺に出没するゴブリンの討伐。
数は十体前後と推定。
家畜が襲われ、畑も荒らされている。
新人の最初の討伐としては珍しくない依頼らしい。
坊っちゃんは依頼書を見て、少しだけ肩を落とした。
「ゴブリンか」
「初心者なんだから妥当でしょ」
「分かっている」
依頼書を受付へ差し出した。
「受けよう」
「あれ、素直」
「英雄にも最初の一歩はある」
「その一歩、ゴブリンだけど」
「いずれ古竜を討つ男にも、ゴブリンを討った日はあるだろう」
どこまでも前向きだった。
◇
依頼の村までは徒歩で一日半。
坊っちゃんは大きな背嚢を背負っていた。
寝具。
食料。
水。
予備の衣服。
野営道具。
武器の手入れ用品。
全部自分で持っている。
私は当然、貴族育ちなら長距離の徒歩には慣れていないと思っていた。
ところが昼を過ぎても坊っちゃんの歩調は落ちなかった。
むしろ私の方が遅れ始めた。
「少し遅いぞ」
「誰のせいでこんなところ歩いてると思ってるの」
「仕事だろう」
「そうだけど!」
「荷物を持とうか?」
「いらない」
「そうか」
嫌味でも何でもなく本気で言っている。
「……こういうの、慣れてるの?」
「行軍か?」
「そう」
「子供の頃からやらされた」
「貴族って馬に乗ってるものじゃないの?」
「騎兵になる者だけではない。領兵を率いるなら、歩兵がどう動くかも知っておけと教えられた」
少し意外だった。
「荷物を背負って何日も歩く訓練もした。家が没落しても、身についたものまで消えはしない」
そう言って笑う。
湿っぽさはまるでなかった。
この男、本当に没落を気にしていないらしい。
◇
翌日の昼過ぎ、村へ到着した。
村長から話を聞く。
「今までは森の奥にいたんです。それが、ここ数日で急に畑まで降りてくるようになりまして」
「数は?」
「見た者によれば、七、八……多くても十ほどかと」
坊っちゃんは頷く。
畑。
壊れた柵。
足跡。
食い荒らされた野菜。
一通り見て回った。
「森へ入る」
「今から?」
「日があるうちに片付ける」
「私も?」
「当然だ」
「戦うのは嫌なんだけど」
「戦えとは言っていない。離れて見ていろ」
「危なかったら逃げるからね」
「構わん。ただし、私が格好よく戦ったところは見逃すな」
「注文が多い雇い主だなあ」
森へ入って一時間もしないうちに、ゴブリンは見つかった。
八体。
小さな集団だった。
私は木の陰に隠れた。
正直、かなり不安だった。
いくら剣を習っていたといっても、戦闘スキルなし。
しかも八体。
一対一ならともかく、囲まれれば終わるのではないか。
逃げる方向だけは確認しておこう。
坊っちゃんが剣を抜いた。
「さて」
声には余裕があった。
一体目が飛びかかる。
坊っちゃんは半歩ずれた。
剣が走る。
首が落ちた。
「え」
二体目。
棍棒を盾で逸らし、そのまま喉を突く。
三体目が横から来る。
蹴り飛ばす。
転がったところへ剣を突き下ろす。
一方的だった。
派手ではない。
光もしない。
紋章も何の反応も見せない。
ただ、純粋に剣の扱いが上手い。
間合いを崩さない。
無理に追わない。
一体ずつ確実に殺す。
二方向から来れば、一体を盾で押し返して位置をずらし、同時に相手をしない。
最後の一体が逃げようとしたところで、坊っちゃんは落ちていた石を拾った。
投げる。
後頭部に命中。
よろめいたところへ追いついて斬った。
静かになった。
私は木の陰から出る。
「……強いじゃん」
「当然だ」
「スキルなしで?」
「訓練したからな」
「いや、そうなんだけど……」
坊っちゃんは剣についた血を拭う。
「どうだった?」
「何が?」
「私の戦いだ」
「普通に強かった」
「歌になるか?」
「ゴブリン八体じゃ弱いかな」
「やはりそうか」
本気で残念そうだった。
「贅沢言わないの」
私は笑った。
少しだけ。
本当に少しだけ、契約したことを後悔しなくなっていた。
その時だった。
森の奥から、何かが折れる音がした。
太い枝。
いや。
木そのものかもしれない。
坊っちゃんが振り返った。
「何?」
「静かに」
今までと声が違った。
低い。
真剣な声だった。
地面が微かに震えた。
そして、森の奥から現れた。
大きい。
人間の倍を優に超える身体。
太い腕。
手には、若木をそのまま削ったような棍棒。
灰色の皮膚。
口から覗く牙。
「……オーガ」
私の声が裏返った。
知識くらいはある。
こういう魔物は、一人で相手をするものではない。
腕の立つ冒険者が何人か集まり、互いに隙を補いながら仕留める。
それでも怪我人が出ることは珍しくない。
少なくとも。
戦闘スキルすら持たない新人が、一人でどうにかしようとする相手ではない。
私は坊っちゃんの袖を掴んだ。
「帰るよ」
「ああ」
意外にも即答だった。
「村へ戻って知らせる。ギルドにも応援を求める」
「そうしよう」
走った。
◇
私たちは村へ戻った。
だが、遅かった。
森の方角から叫び声が聞こえた。
「オーガだ!」
「逃げろ!」
ゴブリンを追っていたのだろう。
あるいは、ゴブリンたちの縄張りを奪った張本人だったのかもしれない。
オーガが森を出て、村へ向かっていた。
村人たちが逃げ始める。
老人。
子供。
荷物を抱えた者。
足の遅い者がいる。
「まずい」
坊っちゃんが呟いた。
「何が?」
「あれでは間に合わない」
「でも戦う相手じゃないよ!」
「分かっている」
「だったら――」
坊っちゃんは背嚢を下ろした。
外套を脱ぐ。
盾を構えた。
「村人を逃がすのを手伝ってくれ」
「坊っちゃん」
「私が時間を稼ぐ」
「一人で!?」
「他に誰がいる」
「死ぬよ!」
「かもしれんな」
あっさり言った。
「ちょっと!」
「だから君まで近くにいる必要はない」
坊っちゃんは村の外へ続く道を指差した。
「村人と一緒に、いつでも逃げられるところまで下がれ」
「じゃあ私も逃げるよ」
「いや」
「何」
「できれば、見えるところにはいてくれ」
私は言葉を失った。
「……何で?」
坊っちゃんは迫ってくるオーガを見た。
それから、私を見る。
「君は私の吟遊詩人だろう?」
「だから?」
「勝ったなら歌にしてくれ」
「今それ言う?」
「もし死んだなら」
「縁起でもないこと言わないで」
「格好よく歌ってくれ」
「……」
「できれば、かなり格好よく頼む」
「ほんっと馬鹿!」
坊っちゃんが笑った。
「危なくなったらすぐ逃げろ。それまでは、見ていてくれ」
剣を抜く。
「私の最初の武勇伝になるかもしれん」
「最期の武勇伝にする気はないんでしょうね!」
「当然だ!」
返事だけは元気だった。
私は村人たちを道の先へ逃がした。
足の遅い老人に肩を貸し、子供を連れた母親を先へ行かせる。
その上で、石垣の陰まで下がった。
ここならオーガがこちらへ向かってきても、すぐ街道へ逃げられる。
そして。
坊っちゃんの姿も見える。
「絶対死なないでよ……」
私の呟きなど聞こえるはずもない。
坊っちゃんは一人、オーガへ向かって走った。
◇
最初の一撃は、坊っちゃんだった。
横から近づき、オーガの太腿を斬った。
深く入った。
ゴブリンなら胴まで断ち切っていたかもしれない。
だがオーガは止まらなかった。
「硬っ……!」
棍棒が振られる。
坊っちゃんが盾を上げた。
「危な――」
轟音。
盾ごと吹き飛んだ。
身体が宙を舞う。
地面を二度、三度と転がった。
「坊っちゃん!」
「来るな!」
立ち上がる。
左腕を振った。
「……今のは効いたな」
余裕のある声ではなかった。
オーガが迫る。
坊っちゃんは正面から受けるのをやめた。
走る。
棍棒が地面を叩く。
土が飛び散った。
家の角を使って回り込む。
オーガが追う。
「こっちだ!」
挑発する。
振り下ろされた棍棒を紙一重で避けた。
柵が砕ける。
坊っちゃんはその隙に脇腹を斬る。
浅い。
「くそっ!」
オーガの腕が横薙ぎに振られた。
まともに食らう。
坊っちゃんが泥の上を転がった。
「うわ……」
思わず声が漏れた。
格好いい。
とは、とても言えない。
立ち上がろうとして滑る。
膝まで泥に浸かる。
ようやく起きた時には、顔まで泥だらけだった。
オーガが突っ込んでくる。
坊っちゃんは壊れた柵を飛び越えた。
オーガは構わず突進する。
足が柵に絡む。
巨体がよろめいた。
「そこだ!」
坊っちゃんが踏み込む。
傷つけた太腿へ再び剣を叩き込む。
今度は深い。
オーガが咆哮した。
蹴り。
坊っちゃんは避けきれず、肩を掠めた。
身体が回転する。
剣が手から飛んだ。
「あ」
遠くに落ちた。
オーガが坊っちゃんを見下ろす。
棍棒が上がる。
「避けて!」
坊っちゃんは転がった。
棍棒が泥を跳ね上げる。
さらに転がる。
もう一撃。
また避ける。
「くっ……!」
完全に逃げ回っている。
でも、逃げてはいない。
村から離れない。
オーガの注意を自分へ向け続けている。
村人たちはその間に遠ざかっていく。
私は逃げ道を確認した。
まだ逃げられる。
坊っちゃんに言われた通りだ。
危なくなれば逃げる。
そのつもりだった。
それでも、目を離せなかった。
もし勝ったなら、この戦いを歌う。
もし負けたなら――
「……絶対、格好悪いところまで歌ってやるから」
だから死ぬな。
坊っちゃんが納屋の横へ走る。
立てかけてあった農具を掴んだ。
長い柄のついた鋤。
オーガの顔へ突き出す。
当然、たいした傷にはならない。
だが目を狙われたオーガが顔を逸らす。
その隙に坊っちゃんは横へ抜けた。
棍棒が納屋の柱を叩いた。
柱が折れる。
屋根が傾いた。
「もう一度!」
坊っちゃんが柱の反対側へ回る。
オーガが追う。
棍棒を振る。
二本目の柱が折れた。
納屋が崩れた。
大量の木材と藁がオーガへ落ちる。
「やった!」
私は叫んだ。
「まだだ!」
瓦礫が動く。
オーガが立ち上がった。
「嘘でしょ……」
頭から血を流している。
だが生きている。
坊っちゃんも息が上がっていた。
「……丈夫すぎるだろう」
オーガが吠える。
突進。
今度は坊っちゃんも避けきれなかった。
巨体に押し倒される。
「っ!」
泥の中へ沈む。
オーガが馬乗りになる。
太い手が坊っちゃんの首へ伸びた。
「坊っちゃん!」
私は一歩前へ出た。
その瞬間、坊っちゃんの言葉を思い出す。
危なくなったら逃げろ。
私は戦えない。
駆け寄ったところで、二人まとめて殺されるだけだ。
足を止めた。
拳を握る。
「坊っちゃん!」
絞められながら、坊っちゃんが腰へ手を伸ばしている。
短剣を抜いた。
一度。
オーガの脇腹へ刺す。
二度。
三度。
効かない。
「く……そっ!」
今度は首。
届かない。
なら顔。
短剣を逆手に持つ。
オーガが坊っちゃんの頭を泥へ押しつけた。
顔が半分沈む。
それでも腕を伸ばす。
刃がオーガの頬を裂いた。
怒ったオーガが顔を近づける。
その瞬間。
坊っちゃんが身体を捻った。
短剣を突き上げる。
眼窩へ入った。
オーガが絶叫した。
坊っちゃんは離さない。
「おおおおっ!」
さらに押し込む。
暴れる腕に殴られる。
それでも離さない。
短剣を抜く。
もう一度。
同じ場所へ。
もう一度。
何度目か分からなくなった頃。
オーガの身体から力が抜けた。
巨体が横へ倒れた。
坊っちゃんも仰向けになる。
動かない。
「坊っちゃん!」
今度こそ駆け寄った。
泥。
血。
傷。
頬は腫れている。
鎧もへこんでいる。
服は破れていた。
「ねえ!」
顔を覗き込む。
目が開いた。
「生きてる?」
「当然だ」
「当然じゃないでしょ!」
起き上がろうとする。
そして、すぐに倒れた。
「立ててないけど」
「少し休めば立てる」
「本当に?」
「ああ」
坊っちゃんは荒い息を吐いた。
しばらく空を見上げる。
それから。
「それで」
「何」
「今のは」
「うん」
「歌になるだろう?」
私は呆然とした。
本当に。
この男は。
「……なるよ」
答えると、坊っちゃんは満足そうに笑った。
「そうか」
目を閉じた。
「ちょっと!?」
「寝るだけだ」
「先に言って!」
◇
町へ戻ったのは三日後だった。
坊っちゃんは村で治療を受け、何とか自力で歩ける程度まで回復した。
オーガ討伐の報告を聞いたギルドは大騒ぎだった。
初めて受けたゴブリン討伐。
現地ではぐれオーガに遭遇。
村人の避難を助けるため交戦。
単独討伐。
受付は何度も確認した。
「本当に一人で?」
「私が見てた」
私が言うと、ようやく信じた。
坊っちゃんは隣で腕を組んでいた。
「これで、もう少し難しい依頼を受けられるか?」
「審査は必要ですが、今回の働きは間違いなく評価されます」
「よし」
そこだった。
報酬より先に、次の依頼だった。
「オーガの分の報酬も追加されますよ」
「そうか」
「興味薄いなあ」
「金は必要だ。だが名の方が重要だ」
「本当に一貫してるね」
◇
その夜。
私は酒場の小さな舞台に立った。
新しい楽器を構える。
客は多くない。
オーガを倒した新人冒険者がいるという噂を聞いて、いつもより少し人が集まっている程度だ。
その中に坊っちゃんもいた。
一番前の席。
酒を片手に、これまで見た中で一番楽しそうな顔をしている。
「近くない?」
「私の歌だぞ」
「だからって最前列に座る?」
「聞き逃したくない」
「自分の話なのに?」
「自分の話だからだ」
私はため息をついた。
楽器に指をかける。
音を鳴らす。
酒場が静かになる。
「今夜は、一人の若い冒険者の話をしよう」
まだ、その名を知る者は少ない。
家名の力を失い。
領地を失い。
それでも、自分自身の名まで失ったつもりはない男。
もちろん歌の中には、本人が何より広めたがっているその名前もしっかり織り込んでやった。
最初に討ったのは、八匹のゴブリン。
そして、その先に現れた巨鬼。
大地を揺らす棍棒。
剣を弾く肉体。
吹き飛ばされても立ち上がり。
武器を失っても退かず。
逃げ遅れた者たちの前に立ち。
最後には短剣一本で巨鬼を討った若者。
私は歌った。
嘘はついていない。
本当に起きたことだけだ。
ただ。
泥の上を三回転したところは省いた。
立ち上がろうとして滑ったところも省いた。
農具を振り回したところは、少し格好よくした。
泥の中でオーガに押しつぶされながら短剣を刺したところも、詩ではずいぶん勇壮になった。
それくらいは吟遊詩人の仕事だ。
歌が終わる。
一瞬の静寂。
そして拍手。
大きな酒場ではない。
十数人程度の拍手だ。
それでも坊っちゃんは、何百人もの歓声を浴びたような顔をしていた。
席へ戻る。
「どうだった?」
聞くまでもなさそうだった。
「良い」
「そりゃどうも」
「非常に良い」
「二回言わなくても分かる」
「ただし」
「何」
「最後の攻防は、もう少し長くてもよかった」
私は無言で坊っちゃんを見る。
「何だ」
「あんた最後、泥の中でオーガにしがみついてただけでしょ」
「勝った」
「勝ったけど」
「なら問題ない」
「泥を口に入れて吐いてたところも歌おうか?」
「それはいらん」
「都合いいなあ」
坊っちゃんは酒を飲む。
「次はもっと良い歌になる」
「もう次のこと考えてるの?」
「当然だ」
「普通もう少し懲りるんじゃない?」
「何に?」
本気で分かっていない顔だった。
私は新しく買った楽器を見る。
一月分の契約金。
もうほとんど使ってしまった。
〈栄光の紋章〉。
珍しい。
けれど、過去の記録を調べても、何の役に立つのかよく分からない。
坊っちゃん自身にも、戦闘に使えるスキルはまだ一つもない。
最初にそれを知った時。
私はハズレを引いたと思った。
今でも、紋章についてはそうなのかもしれない。
この〈栄光の紋章〉が何をもたらすのか。
それは結局分からないままだ。
けれど。
私は目の前の男を見る。
「何だ?」
「別に」
〈栄光の紋章〉が役に立つかは、まだ分からない。
けれど。
この坊っちゃんには、歌にするだけの価値があるらしい。
「次はもう少し安全な依頼にしてよ」
「善処しよう」
「信用できない」
「安心しろ。今度は最初から強い相手だと分かっている依頼を選ぶ」
「何も安心できない!」
坊っちゃんが笑った。
私もため息をつく。
一月。
契約期間は、まだ始まったばかりだ。
まあ。
一月くらいなら、この英雄志望の坊っちゃんに付き合ってやってもいい。
少なくとも。
次にどんな武勇伝を作るのか。
それくらいは、少し気になっていた。




