076. 日記
――彼は、街の診療所の仮眠室に横たわっていた。誰もと同じように、ただそこに存在していた。
息はしている、けれど意識のない姿を視界にいれた友歌は、そっと目を逸らす。本当なら、城で疫病を調べているはずだった人…ちょっとしたタイミングで、ここに単身乗り込むことになった人。
近くの机には紙とペンが置いてあって、おそらくここから鳥便を発信していたのだろう。窓の近くには、羽根が数枚落ちていた。
*****
「…これか。」
レイオスが手に取ったのは、赤い表紙の厚い本だった。題名も何もない、ただ同じ赤のしおりがついているだけの、飾り気のない本。
確かに、読み手に“買いたい”と思わせるような見た目はしていない。捲《めく》れば、確かにそれは日記のようだった。
書いていたのはそれだけのようで、レイオスはその日記と書きかけの手紙を持って部屋を出る。その後ろを着いていきながら、友歌はふと後ろを振り返った。
仰向けに、脱力したように横たわっている人影…暗い濃紺色の髪の、年配の男性…、それを再度しっかりと視界に収め、ぺこりと頭を下げる。
――深い意味はない。けれど、たった一人この村に派遣されて、おそらく指揮を取らされていただろう彼に、礼を表さずにはいられなかった。
(…治ったら、話してみたいな。)
出来れば、自分が言うのはお門違いだろうけど、面と向かって感謝を伝えたい。城からの命令とはいえ、疫病の感染真っ直中に向かうのは相当勇気のいったことだろうと、友歌は思った。
友歌の場合は、頼りになる騎士が三十人も着いてきてくれた。たとえ武力的な意味での護衛が主流だとしても、精神的に安心はする。
手探りの状態で挑んでいたのだろう彼は、けれど城に使わされた精霊使いということで、縋《すが》られる方だったに違いない。
扉を丁重に閉めながら、友歌は待っていてくれたレイオスのもとに駆け寄る。――その手の中にある本が、今の友歌たちの貴重な情報源だった。
「…文を書くことで、自我も保てるんだ。」
器用に、歩きながら中身を読んでいるレイオスが、ぽつりと声を漏らす。隣に並びながら、友歌は邪魔にならないよう静かに歩く。
「不安と先の見えない絶望の中、自己を確立し続けるのは難しい。
けれど、今の状況を整理し、形にしていくことで、冷静になれるんだ。
そういう意味でも…特にこういう場面では、後の資料という意味でも、自分を保つためにも、何か書き残すことは推奨されているんだ。」
「…それが、役に立つかもしれない?」
「確実にな…彼は城の精霊使い、水の精霊医師だ。
おそらく、自分が倒れた後のことなど、考え尽くしていただろう。」
“こうなること”をあらかじめ想定して、これを書き残していった。それはつまり、友歌たちの望むものが書いてあるはずだということ…自分がどうなるかわかっていながら、後に託していったということ。
やはり直接お礼をしようと、改めて友歌は決意した。――と、レイオスが急に立ち止まり、友歌は数歩先に進んだ状態で振り返る。
見れば、難しい表情をしたレイオスが、けれど、口元に小さな笑みを浮かべて日記を見ていた。
「…レイ?」
「ああ、モカ…やはり、原因は山のようだぞ。」
――原因の特定。直接的ではなくても、間接的な媒体でもなんでも、それは確実な一歩だ。
友歌はぎゅっと拳を握りしめ、頷いた。
*****
『――城から通達がきた。どうやら、私の居る近場で疫病が流行り始めたという。
それの調査と、感染者への対応を命じられた。休暇というのは、やはり簡単に潰れるものだな…無視するわけにもいかないし、どうせすぐ私のところまでやってくるのだろう。
速いか遅いかだろうし、どうせなら年を食った者の根性を見せてやろう。まだまだ、若い者どもには負けん。
今日中に出発する気でいるが、着くのはおそらく明後日以降になるだろう。急ぐのは体に響くのだが…まあ、そうも言っていられない。』
『――疫病の発生地は、炭坑の街。ラディオールでは、特産品ながらそれを生業とする者も少ないため、街単位で興《おこ》しているのだろう。
山では様々な鉱石が採れるらしく、その量も尋常ではないらしい。けれど、今は作業も全て中止…着いたは良いが、発病者たちの治療に追われた。
最初は、炭坑ならではのガスか何かの発生も考えたが…魔法での診断の結果、本当に病であるようだ。けれど、いくら患者の体温を上げようが、体の水を捜査しようが消え去る気配はなく、それどころか増殖まで始めている。
これは、骨の折れる日々となりそうだ…。』
『――症状が悪化し始める者が出てきた。どこが最終段階なのか探ることもせねばならないが、せめてこの世との別れでないことを祈る。
第一症状としては、体の節々の痛み。関節部分がとくに酷いらしく、歩くことすら困難になってくるという。
次に、感覚が鈍くなるようだ。わかったのは、食事に味が感じられないと言う患者の意見だったのだが…どうやら風邪で麻痺しているだけではなく、本当に味覚を失ったらしいことがわかった。
だが、五感にまで影響が及ぶとなると…他も怪しくなってくるな。原因の特定を急がねば、手遅れになるだろう。
まだ無事な者たちからここ最近の様子を聞いていこう。何かヒントが得られれば良いが…。』
『――やはり五感を冒され始めた。順番としては、味覚から始まり、嗅覚、聴覚、触覚、視覚…これは誰もが同じだったので間違いないだろう。
だが、発症して五日から一週間。眠り続ける者が出てきたのには不安を覚えたが、まさかこうなるとは。
意識を失い、返ってこない者が出始めた。確かに、体を動かせず五感を失えば、反応をすることもままならないだろうが…診断の結果、本当に意識が奥底に沈められていた。
生きてはいる。息はしているし、生体反応もちゃんとある。
けれど、眠っているかのように意識が閉じられているのだ。これは、急ぐ必要がある…ラディオール王国中が機能を失う前になんとかせねば、冷戦が崩される。
やれやれ…老体には厳しいことだな。』
『――街の人々の半数以上が病に伏した。予想は出来たことだが…なんとも速い。
隔離しようとも思ったが、健康体の者たちがそれを拒否した。どうやら、すでに手遅れだとわかっているらしい…まあ、街から出ることを禁じればそれもそうか。
だが、城に降りたというヒトガタの精霊のことを知っているため、あまり悲観はしていないようだ。その気持ちはわからないでもないが、もう少し危機感を持って貰いたいと思うのは間違っているだろうか。
城から送られてくる手紙には、精霊とレイオス王子、それに精鋭の騎士・精霊騎士を三十人を送ってくれるという。だが、病の広がりようから見て、おそらくこの街に着く頃には…いや、考えないでおこう。
とにかく、精霊が動いてくれるのであればありがたい。街の人々にも伝えたが、疫病がもう退けられたかのように狂気乱舞だった。
…うむ、もしかしたら私のせいで楽観視しているのだろうか…。まあ、円状に広がる感染地域のせいで、この街以外には知らされないらしい。
それはそうだ、感染者が出たところ全てを回っては【春冬の祈願】には間に合わない。直線上の村や街にしか向かえないらしいので、口止めをしっかりせねば…街からは出られないが、鳥便は行き来できるからな。
また、感染者に死人は出ていない。意識を刈り取られて終わりのようだ…これが最終段階のようだ。
一つ、肩の荷が下りた。』
『――聞き込みの結果、どうやら原因は山にあるらいしい。最近、精霊石が採れなくなったという。
精霊の力の結晶である精霊石は、通常は我々精霊使いが生成していく。そのため、天然は非常に珍しく、倍以上の値段で取引されることも多い。
もともとすくなかった精霊石の枯渇…確かに、原因はそれにありそうだ。けれど、精霊石の産地は片手で
足りるほどながらも存在するし、以前にも枯渇した地域は存在する。
まだ何か理由がありそうだな…調べに行きたいが、この老体ではどうにもなるまい。街の人々も、この街から出ることは禁じられているし…否、すでに感染地域は広がり始めたのだから、意味はないのだろうが、それでも解除の命令は出ていない。
私に出来ることはここまでのようだな…せめて、これ以上絶望を増幅させないようにするだけだ。とりわけ、休暇前に接することもあった精霊への感心は高い。
こんな老人の言葉で勇気づけられてくれるなら、いくらでも話そうではないか。まあ、精霊には無断だが…心の広い精霊のことだ、笑って許可してくれるだろう。』
日記は、ここで終わっていた。全員で回し読みした後、静かな沈黙が流れる。
再び手元に戻ってきた日記に視線を落とし、レイオスはふ、と息を吐き出す。丁重に袋で包むと、それを掲げて口を開く。
「彼の残してくれたものだ。
ここで日記は終わり、どうやらこの後、残りの全員が昏睡状態に陥った。
山で採れていたはずの精霊石の枯渇…おそらく、直接でないにしろ、関わっていることは間違いない。」
誰も反論はしなかった。息を整え、レイオスは目を伏せ――強く見開いた。
「炭坑に入るぞ。今日は一日準備だ。
詳しいことは今から決めるが、出発は明日。
…最後の頼みだ…力を貸してくれ。」
「はっ!」
騎士たちが敬礼をし、サーヤが深々と礼をとる。友歌もそっと頷き、山を見上げた。
――“精霊石”。精霊の力の結晶と呼ばれる、欠片とは違い少ないながらも多数存在するもの。
見たことがないせいか、それが原因を言われてもあまりしっくりこないが…それが、疫病が流行りだしたきっかけだとしたら。友歌はそっと、裾のあたりを強く掴み、動き始めた騎士たちをぼんやりと見ていた。