058. 感染地帯【中】
「精霊様…っ!」
友歌がクロナの居る民家に行く途中、必死そうな声がそれを止めた。振り返れば、クロナの息子のケインが真剣そうな――けれど泣き出しそうにも見える表情で立っていた。
ケインは友歌たちが立ち止まったのを見ると、一瞬戸惑ったように足下の砂利を踏みつけ、そして一歩一歩友歌たちに近付いた。友歌はケインに、昨日の崇拝の瞳はまだちらつきながらも、少し違う光が宿っているような感覚を覚える。
後ろのサーヤもじっとケインを見つめるのをちらりと見て、友歌はケインに視線を合わせる。戸惑ったように口を開き、ケインはそっと友歌に語りかけたのだった。
*****
「クロナさん、起きあがれますか?」
友歌がそっとクロナに近付き、肩に手をあてながら言うと、クロナは頷いた。腕で体を支えながら起きあがろうとするのを、友歌は背に腕を回すことで補助する。
その際、びくりと体を震わせたクロナに苦笑し、友歌はその背を撫でた。恐る恐る友歌を見つめるクロナには、泣き出してしまいそうな表情が浮かんでいる。
「精霊様…あの、」
「大丈夫ですよ。
…うつされたりなんて、しませんから。」
クロナの恐怖の原因をさらりと言った友歌に、クロナとサーヤは沈黙する。――クロナの心配は、友歌には、手に取るようにわかっていた。
本当は、近付くのも、触れるのもやめてほしい…けれど、精霊様に口答えするなどしてはならない。そんな葛藤がずっとあるのにも気付いていた。
それでも、友歌は近付くし触れる。本当にうつされるかもしれないという気持ちはあったが、それ以上に――クロナの姿を見て、いろいろと吹っ飛んだものもあった。
苦しんでいる本人が自分を気遣い、なんとか出来ないかと視線を彷徨わせているのに、自分がそれに甘んじて拒絶することは出来ない。クロナの行動が、逆に友歌に決心させてしまったものがあった。
上半身を起こしたクロナに、友歌は横付けた机の器を一つ手に取る。温かそうに湯気を出すそれに、クロナは申し訳なさそうに眉を下げた。
「…申し訳、ありません。
あまり食欲がないのです…。」
「少しは食べてください。
食べないと、病と闘う体力もなくなってしまいますよ。」
――最初に、全く食欲がなくなる。それが、この病の初期症状らしい。
もちろん、健康な状態よりは感じないと言ってもお腹も空くのはわかるし、食べなければとも思う。けれど、それ以上に食べたいと思わなくなるというのだ。
人は食べることで体を機能させ、動かし、生命活動を続けている。もちろん、食べなければ免疫力も驚くほど低くなるわけで…。
人から食欲という生きるための活動を奪うことこそ、ここまで疫病が広がる原因なのではと、友歌は思っていた。
「…食べやすいよう考えて作りました。
クロナさんは食べられます…食べて、ゆっくり休んでください。」
「……作った…?」
呟かれた疑問に、友歌はにこりと笑う。信じられないという風に友歌を見たクロナは、友歌の持つ器にそっと視線を落とした。
液体につかった、全体的にドロドロとしたもの。食材の原型もわからないそれに、黒は息を詰まらせた。
「…これ、」
「…“私たち”の料理です。
見た目は、受け入れられないかもしれませんが…病人には、これが一般的です。」
「精霊様方の料理…!?」
友歌がわざと伏せた言葉に、クロナがそれらしい意味を当てはめる。それに答えることはせずに、友歌はただ笑った。
――友歌が作ったのは、お粥《かゆ》もどきである。もちろん、地球と同じ食材はないようなので、それに似た代用品で作ったものだが。
こちらでの一般的な食用の卵に、野菜。それらは簡単に見つかったが、肝心なのは米だった。
友歌が召還されてから数ヶ月、友歌は米に代わるものをそれなりに探してはいた。日本食の再現に、米は欠かせないものだったからだ。
それでも、友歌は見つけることが出来なかった。城にある食材の穀類は、全てすり潰して使うものばかりで、応用しようにも米独特の食感はなかったからである。
けれど、それはこの村の人々が解決してくれた。庶民の料理にはよく使われるという、雑草の扱いにも近い穀類があったのだ。
図鑑にも、食材としてではなく植物としての分類で分けられているという。試しに炊いてみた友歌は、見つからないはずだと頷きながらも、心の中で感動の涙を流した。
少し固めだが、食べられないほどではなかった。料理には、その固さをトッピングとして柔らかい料理に使ったり、それを固めて焼き、煎餅《せんべい》のような菓子を作るらしい。
今までそれ単体で“炊く”ことはなかったのか、台所を貸してくれた家主とサーヤは目を丸くしてそれを見ていた。けれど、サーヤに食べさせたところ、エルヴァーナ大陸の人々にとっても食べられる味ではあったようである。
それをさらに煮立ち、刻んだ野菜を投入し、卵で膜を作る。初めての食材で久々の料理だったにしては、美味しく出来上がったと友歌は自負していた。
木のスプーンで掬う友歌に何をされるのかわかったのか、クロナは顔を真っ赤にして後ずさる。もちろん、病にかかった体は大して動くことはできなかったが、友歌はそっと眉を下げた。
「力が入らないのでしょう?」
「だ、大丈夫です…。
膝に乗せていただければ、口に運ぶくらいは出来ますから。」
必死に訴えるクロナに、これ以上は逆に体に悪いと判断し、友歌は布団で覆われたクロナの膝に器を乗せる。明らかにほっとした様子のクロナに、友歌は困ったように笑った。
それに肩を縮こまらせたクロナは、暖かい器に手をあてる。――自分のために誰かが料理を作ってくれたのは何時ぶりだろうと、そう考えながら、クロナはそっと粥もどきを掬った。
原型のよくわからない、どちからと言えば赤ん坊の食事にも似たとろりとした感触。それがいつも使う穀物だとは勘付いたが、こんな使い方は知らなかった。
――食欲の湧かない脳をなんとか動かしつつ、クロナは恐る恐るそれを口に含む。
「どうですか…?」
少しだけ不安そうな友歌に、クロナは一瞬沈黙し、そっと口を開いた。
「…すみません…よく、味がわからないのですが。
けれど…凄く食べやすいです。」
温かな感触は伝わるが、クロナにはその味がわからなかった。ただ、ひどく食べやすい。
煮ても茹でても焼いても、この穀類は固い。それでも、汁と絡んだそれは、普通の料理よりは断然に食べやすく、少し痛む喉にもするりと落ちていく。
“病人には一般的”と言った友歌の言葉を思い出しつつ、クロナはもうひと掬い口に運んだ。――食欲はないが、食べることが苦痛ではなかった。
その様にほっとしつつ、友歌は椅子に寄りかかる。本当は、少し不安だったのだ。
友歌は医者ではない…看護師でもなければ、薬剤師でもない。食べることがマイナスに作用したらどうしようという気持ちも微かにあった。
それでも――食は、生きることだ。治療法のわからない疫病に怯えても、生に絶望はしてほしくなかった。
無心に、ゆっくりと消費されていくお粥もどきを見つめつつ、友歌はそっと口を開く。
「…ケインさんが、心配していました。」
ぴくりと、スプーンを持つ手が震えた。
「数日前、薬草を…取りに行ったそうですね?
…疫病のすでに蔓延した街の近くへ、熱を出してしまったケインさんのために。」
「…………、」
「…自分が疫病にかかってしまうかもしれないと思っても。
…それで、ケインさんまでも近いうちに倒れるかもしれないと思っても…じっとしてはいられなかった。」
クロナと会う少し前、ケインは友歌たちを呼び止めた。――クロナが疫病にかかった原因は自分にあるのだと。
少し行ったところの、川の近くに映える薬草。熱を下げ、痛みを和らげてくれると言われる、料理にも薬味として使われるものだ。
――それで自分がかかれば、元も子もないのはわかっていた。けれど、苦しむ我が子と…あと数日後の未来を考えれば、行かずにはいられなかった。
どうせ、数日後にはこの村にも広がる。それならば、今行っても変わらないではないか、と。
自分が動けるうちに、元気なうちに…最後に、看病くらいはしてあげたい。そんな気持ちが、クロナの心に満ちたのだ。
――疫病の闇。広がるのは、その病だけではない…そんな後ろ向きな考えまでもが、疫病よりもずっとずっと早いスピードで、人々の心を伝わり、深く根付いてしまったのだ。
「治しましょう。
誰も治ったことがないなら、クロナさんがその第一号になりましょう。
…たとえ誰が諦めても、私は諦めません…それじゃ、私たちはただ冷やかしに来ただけじゃないですか。」
「…精霊、様。」
「そうやって信じていけば、きっと誰かが第一号になります。
そうすれば前例も出来る、…皆が治る根拠が出来る…そうすれば、希望も持てる。」
「…………、」
「……大したことは、出来ませんが。
それでも、…何かはきっと出来ると、私はそう思ってここに来ています。」
綺麗事で構わなかった。少なくとも、友歌の中では本心だった。
友歌たちは、疫病にかかりに来たわけではなく、治しにきたわけでもない。そんな力はないし、おそらく自分達がかからないようにするだけで精一杯だろう。
それでも、見捨てたいわけじゃないのだ。少しでも疫病の解明になる手伝いが出来れば、そして何より、不本意ではあるが…肩書きのある友歌やレイオスに勇気づけられてくれれば、それだけで慰安は意味を持つものになる。
――為せば成る。何かを思わなければ、行動しなければ、起こりうるものも起こらないのだ…少なくとも、友歌の生きた科学の世界は、そうやって出来上がってきた。
そっと笑った友歌に、クロナは再び涙を滲ませる。
「…治しましょう、クロナさん。
あなたのために、何より、気に病んでいるケインさんのために。
……あなたがそう思えなくても、私は、治ると信じて、進みますから。」
ぽたりと、布団に吸い込まれていく雫。サーヤが立ち上がってハンカチを用意するのを見て、友歌は席を譲るためそっと立ち上がった。