052. 出発
「うえぇ…精霊様ぁ…。」
ぐずぐずと、まるで幼子のように服の裾を離さないのはレティだ。友歌はそれに苦笑を返し、そっとその手を握る。
「帰ってくるよ…遠くにいても、練習、頑張ろうね。」
「そうよぉ!
むしろ、精霊様の無事はレティさんが一番わかるんだからっ!!」
後ろからがば、と抱きついたのはアリエラ。友歌とレティの体に両腕を回し、二人の体をぎゅうと抱き締める。
友歌も甘んじてそれを受け入れていると、ふわと頭に何かが触れた。見ると、イルエナがぽん、と手の平を頭に乗せている。
表情の変わらないイルエナは、ほんの少しだけ目を伏せており、友歌は苦笑した。
*****
「良いのか?」
「何がですか?」
馬車に揺られながら、レイオスは向かいに座る友歌に静かに聞いた。友歌は、小さな窓から見える流れる風景に目ようやりながら、そっと口を開く。
それに少し視線を彷徨わせながら、レイオスは息を吐き出した。
「…もう少しなら、出発も引き延ばすことが出来た。」
「でも、行かなくて良くなるわけじゃないでしょう?」
「…………。」
友歌の切り返しに、レイオスは何も言えなくなったらしい。口を閉じてしまったレイオスに、友歌は外を眺めながら苦笑を浮かべる。
「…責めてるんじゃ、ないですよ。」
「……わかっている。」
それきり互いに口を閉ざしてしまった二人に友歌の隣に座るサーヤは気付かれない程度に目線を逸らし続けた。――決して険悪なわけではないが、良好とも言えない空気に、あと何週間付き合わなけれならないのかとサーヤは思う。
先行き不安な旅路に、それら敏感に気付いたらしい馬車を引く馬だけが不快そうに嘶《いなな》く。周囲を同じスピードで馬を走らせる騎士達は、馬車の中で何が起こっているかなど気にも留めず、ただ無心で護衛していた。
――晴天、レイオス及び友歌率いる慰安部隊が城を出発する日。その関係者たちにとっては憎らしいほどの青空が、どこまでも広がっている。
慰安に行く者は、レイオスと友歌、そして友歌専属の女中となったサーヤ。そして、その護衛の騎士三十人である。
城では静かに送り出されたが、国としてなら、盛大にパレードでもして民を一番に考えるという姿勢をアピールしたいのだろう。しかし、“精霊様”である友歌を送るのに、それはあまりに不謹慎で礼を欠くことだと言うので取りやめになったらしい。
“精霊様”がいなければパレードをしたのかと友歌は顔を歪めたが、その準備のための日数も惜しいということでもあるらしい。何を言われ取り繕われても、結局は国が民にいい顔をしたいだけだというのは感じ取れた。
――国を経営するというのは、やはり、思ったよりも大変なことのようだ。もちろんそんなこと知ったことではない友歌は、盛大に不機嫌な顔をサーヤに見せ、苦笑された。
「疫病の広がっている場所には、一週間ほどで着くかと思われます。
疫病が初めに流行り始めた場所には、さらに一週間以上はかかるかと…。
【春冬の祈願】には間違いなく城に戻れるよう手配しますので、日程にはご安心ください。」
「…けっこう早く着くんだね。」
サーヤが口を開き、すらすらと話し始めた。ただ予定の確認をとっただけなのか、重い雰囲気を払拭したかったのかは不明だが、それでも気まずい空気はなくなる。
友歌はそれを聞いて首を傾げると、サーヤは頷いた。
「もちろん、天候や道中の不測の事態によっても前後するでしょうが…。
馬や馬車には精霊魔法がかけてありますのでかなりのスピードを維持出来ますし、休憩などは最小限ですみます。」
「…じゃあ、魔法がなかったら…?」
「軽く二倍の時間はかかるでしょうね。」
すらりと言い放ったサーヤに、友歌は口元が引きつるのを感じた。
(今日が積もり月の一の春…ってことは、えーと9月5日ってことでしょ?
…本当にギリギリのスケジュールだな…!)
往復で二ヶ月以上はかかる計算になる。一月で慰安が完了すればいいが、サーヤの言うように不測の事態もあり得る。
どれだけこの出発が異常なことなのか、友歌にもようやく実感が湧いてきた。精霊であり、舞姫にまで選ばれた友歌をレイオスと共に…それだけなら、もちろんそれも腹立たしいことではあるが、まだ納得は出来る。
けれど、そんなスケジュールで送り出したということは、最悪【春冬の祈願】に出ることが敵わないかもしれないということだ。それはラディオール王国にとっても望ましくないことのはずなのだ。
(――それでも行かせたってことは、それくらい疫病をどうにかして欲しい…?
もしくは、何か別の裏があるのか、とか…うう、わかんない。)
友歌がいくら考えても、答えなど出てはこなかった。腹に黒いものを飼っている大人の思うことなどわかりたくもないが、自分の知らないところで自分のことを勝手に利用されているかもしれないと思うと、気分が悪いのも確かである。
ぐるぐると考えていると、何処か、遠くから歓声が聞こえてきた。
「…なに…?」
友歌が顔を上げぽつりと呟いた言葉に、サーヤとレイオスが笑う。
「そう言えば、精霊様は初めてでしたね。」
「ようこそ…――我らがラディオールの城下町へ。」
*****
「精霊様!精霊様ぁ!!」
「我らに加護を!」
「精霊様、ああ、我らが守護の具現…!」
――割れそうなほどの声。どこもかしこも、“精霊様”という言葉で埋め尽くされる。
事前に道は確保していたのか、紐と兵士たちで作られた道の外に、街中から集まったと言っても過言ではないほどの人影が蠢いていた。
そのあまりの数と音量に、ほんの少しカーテンを退けて覗いた友歌は顔色を無くした。――私はどこの有名人だ!?
実際、“精霊”という立場は有名人どころか王をも超える身分なのだが、混乱している友歌にそれに気付く余裕はない。レイオスも眉を寄せながら耳の辺りを弄り、深く息を吐き出した。
「父上が…いや、あれは貴族どもが、だな…エルヴァーナ大陸中に公表したんだ。
『我らは民を見捨てない、王子とその精霊が必ず疫病を鎮めるだろう。』
…好き勝手言ってくれる…おかげで、厳戒態勢だ。」
「こ、こんな、」
「皆、精霊様とレイオス王子に期待しているのです。
…おそらく、舞姫に選ばれたことも拍車をかけているのでしょう。」
こく、と友歌は唾を呑み込んだ。――想像以上だった。
精霊が、神の代わりとして…否、それ以上に信仰されている世界だとは思っていた。力を使い、人に見える形で人を助ける精霊は、神以上に心酔されると。
それでも、どこかで遠い話として聞いていたのだ。どれだけ様付けで呼ばれようと、王族に対等っぽく接されても、実感はなかったのだ。
――欠片を宿してから、確かに精霊を恐れ多く感じる。そんな存在の名を借りている自分を恥じたこともあった。
それでも、どこかで甘く見ていたのだ。…結局友歌は、“地球”の感性でしか、わかっていなかった。
割れそうな声が何時までも響く。精霊様という叫びがいつまでも切れない。地響きのようなものすら感じられた…――狂気と呼べるほどに近い、それほどの思いが届く。
ふと、友歌は、それを今までぶつけられたことがなかったことに気付いた。城に数ヶ月滞在し、書庫と部屋を行き来していたにもかかわらず、それを感じた時はなかった。
それらしい視線を感じた時はあったが、それも人の気配に呑まれるほど脆弱なものだった。緊張されることはあっても、ここまで感情を表に出されることは、…ぶつけられることはなかった。
それこそ、友歌が今この瞬間でやっとそれをわかったように、それを感じた日はなかったのである。そろり、と友歌は二人を見た。
「…城で、何か…口止めしてた?」
途切れ途切れの言葉。けれど、何が言いたいのかわかったのか、レイオスはカーテンで遮られた窓を見つめた。
「“我が精霊との過剰な接触、及び反応を禁ずる”…だったか。
モカは召還されたばかりで、下手に刺激するのは誰にとっても良くないと判断した。」
「それでも、好奇心や盲目に近付く者は早々に遠ざけました。
…もしや、私の与《あずか》り知らぬところで何かありましたか…?」
最後に不穏な空気を発しながら言ったサーヤに、友歌はぶんぶんと首を横に振った。そう、だからこそ城での友歌への反応は、友歌の精霊に対する意識を変え損ねるくらいに薄いものだったのだ。
――この世界に来て早々、あの狂気に充てられていたら。…考えると、ぞっとした。
友歌はそっと、カーテンの縁を抑える。風がないため、めくれる心配などなかったが…それでも、ふとした拍子に顔を覗かせてしまったら、取り返しのつかないことになっていまいそうに思えた。
(…ああ、でも…。)
――外に出てみたいと、思ったことがあった。そして、それと同じくらい、そうなってしまったらもう帰れなくなってしまいそうな、そんな予感もあって、怖かった。
今、友歌は城下町に来ていて…それは、想像した形ではなかったけれど。それでもしっかりと、ラディオール王国の人々を、この肌で間違いなく感じている。
…この人たちの思いを、願いを、感情を、受け止めている。ああ、また一歩、さらに遠のいて…近付いてしまった。
――何に?
「…どうかしたのか、モカ…?」
「……なんでもない、よ。」
響く喧騒が、どこまでも追ってきている気がした。