051. 兄妹
ツカツカと、セイラームは今にも走りそうな勢いで廊下を歩いていた。周囲は異様な空気を発しているセイラームと止めようとはせず、率先して道を空ける。
それに何の反応を返すこともなく、セイラームはただ一つの部屋だけを思い浮かべていた。
「――お兄様、どういうことですの!?」
バン!と姫にあるまじき音を立て開け放ったドア。その部屋の中には、少々疲れた顔をしたライアンが座っていた。
*****
「…セイラーム、」
「精霊様が疫病の真っ直中に行くというのは、本当のことですか!」
静かな声が名を呼んでも、それに答えるでもなくセイラームは兄に詰め寄った。その際に、本があり得ないほど積まれているのにも気付いたが、それでも燃え上がる感情は収まらない。
器用に本の山を避けつつ、ライアンの座る机に近付くと、それに手をついた。
「お兄様っ!!」
「…本当だよ…父上が、国王がそう決めた。」
「…………っ、」
セイラームは息を詰まらせると、ふるふると肩を震わせる。それを痛々しそうに見つめながらも、ライアンは撤回しなかった。
――出来るわけがなかった。国王の命令は絶対で、嘘でもそれを覆《くつがえ》させる発言はしてはならないのだから。
開いていた本を閉じ、ライアンは眉間を揉む。ここ数日、脳から痛みが引いていかないのは、明らかに体に無理を強いているからだ。
それでも何かせずにはいられないのは、ライアン自身に負い目があるからである。
「レイも行くそうだ。
…実体を保てる精霊に、王族…なんとも豪華なメンバーだな。」
「巫山戯《ふざけ》ないでくださいまし…。」
すでに力無いものに変わったセイラームの声は、いつもの、高慢なほどの自信を失っていた。それに目を伏せつつ、ライアンはそっと頭を撫でる。
ふわふわの金髪は、どこにも引っかかることなく滑り落ちた。
「…死にに行くわけじゃない。
そう決まったわけではないよ、セイラーム。」
「気休めはよしてください…。」
今にも崩れ落ちそうなセイラームに苦い笑いをしたライアンは立ち上がり、机を回ってその手を取る。そうして、近くにある椅子にそっと座らせた。
「紅茶でも淹れよう。」
優しく囁いたライアンに、こくりとセイラームは頷く。それを見届け、ライアンは傍を離れた。
一人で調べ物をすることが多いライアンの部屋は、他の部屋とは違い、軽い飲み物くらいなら用意出来る場所が設けられている。そうでもしないと脱水症状で普通に倒れるからなのだが、実はライアンが活用することはまずない。
専ら、ガウリル王が様子を見るよう指示している女中か、兄妹達が勝手に使っている。それでも今日は、流石にライアンが動いた。
慣れない手つきで二人分の紅茶を淹れたライアンは、同じく危なっかしい手つきでそれを運ぶ。なんとか零さずに持ってこれたそれを、ゆっくりと目の前の机に置いた。
しばらく沈黙が続いたが、セイラームがそっと口を開く。
「…治っている方は、いらっしゃいますの?」
返答はなかった。それはセイラームも予想していたようで、口を一文字に結んだ。
――猛威を振るう疫病は、本当に奇跡としか言えないのだが、死人は出ていない。けれど…治った者もまた、いないのだ。
一度かかったなら、ゆっくりと体を蝕《むしば》まれていくのを待つしかないのである。そうして最後には、意識を刈り取られてしまうのだ。
けれどそれは、おそらく二大精霊の恩恵である。今はまだラディオール王国でしか広がっていないが、もしそれが国外に出た場合、ここ以上の被害が出るに違いない。
本当なら、死に至る病…それは、ここ数日のうちに出した、城中の精霊使いが納得した研究結果であった。そして――それを防ぐために眠りにつかせているのだと。
それを踏まえた上で、ガウリル王は二人を送り出すことに決めたのだ。
「…流行病に、国境なんて関係ない。
放っておけば、ラディオール王国よりさらに酷い状態に陥る国がきっと出てくる。
そうなれば、エルヴァーナ大陸は未曾有《みぞう》の暗黒時代に突入していまうかもしれない…。」
ここまで疫病が長引いたのは、本当に久方ぶりらしい。何らかの原因が、人間に最も不味い形で重なったのか、精霊でさえ防ぎきれない何かが起こっているのか。
エルヴァーナ大陸は今、冷戦状態と呼ばれる睨み合いが続いている。ラディオール王国では、二大精霊の加護もあり、そんなものは感じさせない空気が流れているが…それでも、全く関係がないわけではない。
友好国が攻め入られれば助けなければならないし、戦争が始まれば物資も不足するだろう。――はっきり言ってしまえば、疫病に構っている暇などないのである。
けれど、何より大事なのは民であり、彼らをなんらかの形で救わなければ、今の状態を保つことすら難しいのだ。そこで投入されるのが、友歌とレイオスなのである。
――最悪、たとえ治る見込みがないのだとしても。今、エルヴァーナ大陸中で名を馳せる二人が行くことに意味があるのだ。
「…そ、そのためには、舞姫という役さえ捨て駒だと言うのですか?」
「セイラーム、」
「約束したのです、わたくしの作った着物で舞ってくださると…。
対である、“春月の舞姫”…レティにも了承を取って、お二人の衣装は私が作ると…っ!」
カップを手にしたまま、カタカタと体を震わせるセイラーム。それを見つめたライアンはゆっくりと息を吐き出した。
「…君が懐くなんて、珍しいね…セイ。」
あだ名で呼ばれ、セイラームはぴくりと肩を動かす。――久しぶりに響いたそれは、どこまでも優しく耳に届いた。
「な、つく…だなんて、」
「そうだろう?
しかも…レイを自分から遠ざけていた君が、その最も親しい彼女の身を案じるだなんて。」
「…………、」
黙ってしまったセイラームに、ライアンは眉を下げて困ったように笑う。
「責めているわけじゃないよ。
ただ…レイも、セイも…皆、視野が広がったと思ったんだ。」
セイラームは、高飛車な態度が目に付く、言うなら典型的なお姫様だった。我が儘放題というわけではなかったが、使う者と使われる者をはっきりと区別したがる性格だった。
それが、数ヶ月前に現れた精霊によって、ほんの少し崩れてきたのだ。セイラームの思考の七割を占めるといっても過言ではない、衣服のことを上手に引き合いに出され、感覚が変わってきていた。
無意識だったようだが、友歌を見かけた時に寄っていく様は、警戒心の強い猫を思わせ、一時期、セイラームの人気が爆発的に高まった時期すらあったくらいだ。
見方を変えれば、高慢な態度も可愛らしさすら覚える。セイラームにどんな言葉で、口調で、声色で接せられてもニコニコ笑っている友歌を見ていると、そう感じるという者も出てきたようなのだ。
――友歌は弟や妹を重ねてしまい、そのフィルターがさらに何重にもかかっていただけである。面倒を見るのが好きな性格も相まって、微笑ましくそれを受け止めていただけなのだ。
けれどそれが、セイラームをほんの少しだけ変えた。今まで、同じ王族という対等な人間と、自分に頭を下げる人間との二種類しか知らなかったセイラームが初めて出会った、自分が頭を下げるべき――レイオスが召還した存在。
それもまた気に入らなくて、セイラームは初め、突っ張った態度で接し、そして静かに怒られた。けれど最終的には着物のことで意気投合し、それはなかったことになる。
――セイラームに素で接し、またそうされることを望んだ。それは確かに、確実にセイラームに変化を与えたのだ。
そしてそれは…レイオスにも。
「大丈夫…精霊は、我ら人間の遙か及ばない所にいる。
精霊が人間を見捨てることはあっても、精霊が精霊を裏切ることはないよ。」
精霊は綺麗なもの。美しいもの。誠実で、一途で、ひたむきなもの。――二大精霊が、友歌を害するはずがない。
「祈ろう、セイ…。
ただ、皆が無事で帰ってくることをね。」
「…………。」
頷いたセイラームに、ライアンは“兄”の表情をして、静かに優しく、笑ったのだった。