049. 深淵へと
レイオスの部屋に訪れた友歌は、そのあまりの顔色に、ぐるぐると考えていたことが吹っ飛んだ。後ろに控えていたサーヤも息を呑んだが、すぐに平常心を装う。
友歌を招き入れたレイオスは大きなソファを勧め、自分も向かいに座った。
「ああ、モカ――、」
途方に暮れたように手の平で額《ひたい》を覆うレイオスは、大きなため息を吐く。何か、とても大変なことが起こっているのだと、嫌でも思い知らされる声色だった。
*****
「疫病の震源地へ慰安《いあん》に…!?」
サーヤが絶句の声を上げた。レイオスは二人と視線を合わせようとはせず、目元を手で覆っている。
その言葉に事態を察した友歌も、思わず言葉を無くした。
「それは、どういうことですか?」
「…友歌が赴《おもむ》けば、その神聖なる力に圧されて病が退くだろう。
まして、舞姫にまで選ばれている…今それを使わずしてどうするのか、と…。」
「っそんな馬鹿げたことを言うのはどなたですか!」
歯切れの悪いレイオスに、サーヤが声を荒げた。普段の冷静沈着な姿からは想像も出来ないそれは、心のそこからそう思ってのことである。
青白くなってしまったサーヤをそっと見上げ、友歌はレイオスに視線を戻した。決して顔を上げようとしないレイオスに、友歌は口元を引き結ぶ。
――慰安。慰めて心を安らげること。
疫病に苦しみ、足掻いている人々のもとに、精霊たる友歌を送ることで元気づけようとでも言うのだろう。そしてわよくば、“ヒトガタ”を保てる高位精霊の力に、病が恐れおののき逃げてくれることを願っているのだ。
それが、根本的に違っていることなんて知らないで。――友歌が、精霊であることを疑いもせずに。
「父上の、……王からの拝命だ。
正式に下された命令に、逆らうことは出来ない。」
「ですが、ですが精霊様は今、舞姫の期間中なのですよ!?
城から離れさせるなんて、前代未聞です!!」
「ああ、その通りだ…本当に、」
サーヤの激昂につられるわけでも、怒るでもなく。心の底から参っているという風に返すレイオスに、サーヤは口を閉じた。
それをぼんやりと見つめながら、友歌はレイオスに視線をやった。まるで、他人事のように実感がわかない。
疫病のもとに、飛び込めと言われているのだ…それはわかった。――けれど、
「…レイも、ですか?」
囁くように小さな友歌の声に、レイオスは頷く。
「当たり前だろう、…モカはオレの、精霊だ。」
久々に聞くそのフレーズに、友歌は視線を落とした。精霊、召還主、友歌とレイオス…紋様に縛られない精霊を持つ、王子。
そう、王子という身分を持つ人間が、危険の中に行くと言うのだ。友歌という、偽の精霊を持ってしまったことで。
保身のために人を騙し、今なおそれを伝えようとしない、友歌のせいで。――自分の、せいで。
「――精霊研究機関、ですか。」
サーヤの地を這うような声に、友歌はふと現実に戻った。聞いたことのない、低くおどろおどろしい声に、友歌はそっと見上げ…少し後悔する。
般若《はんにゃ》のような空気を発しながら笑う、否…嗤うサーヤの姿がそこにあった。それを感じ取ったのだろうか、未だ顔を上げないレイオスまで若干顔を青くさせる。
「…貴族達を上手いこと煽ったらしい。
身柄を寄越さないなら、それをも利用しようというわけだな…。」
頭の足りない者どもが、乗せられた。
そう呟いたレイオスに、サーヤはふっと無表情になり――途端にパキン、と足下で音が響く。見れば、サーヤの足下から床全体が凍り始めていた。
「――――!?」
「大丈夫だ、私たちに危害はないはず…多分。」
少し自信のなさげなレイオスの言葉に口元を引きつらせながら、友歌は足をソファの上に非難させた。多少行儀は悪いが、精神的な安定上、許してほしいものである。
今や天井にまで届こうかという一面の氷は、その部屋に置いてある物をどんどん凍らせていく。けれど理性は残っているのか、友歌とレイオスの座るソファは無事で、その二人には氷が伸びることはなかった。
あっという間に部屋は薄い氷に包まれ、ほんの少しだけ気温が下がる。これだけ氷に囲まれても“少し”なのは、サーヤが手加減しているからだろう。
友歌が恐る恐るサーヤを見上げれば、相変わらずの無表情で佇んでいた。けれど、その唇は小さく言葉を紡いでいる。
「この――狸どもが――いっそ――……、」
「…………。」
続きは聞こえなかったことにして、友歌はレイオスに視線を戻した。普段温厚な人が怒ったら、本当に怖いのだということを記憶に刻みつけて。
けれど――おかげで、頭は冷えた。友歌は足を床に着けてみるが、思ったほどは冷たくなく、体勢を整える。
「…ガウリル王も、乗せられたのですか?」
「いや…周囲の空気を読んだ、ということだろう。
今の次期に、内部を分裂させてしまうのは不味いから…、」
――だから、息子を差し出すのか。言いたくなった言葉は、全力で飲み込んだ。
今、それをまさに思っているのは、ガウリル王本人だろうから。友歌は凍った目の前の机を見つめた。
身内より、国のことを考えるのは、王族の役目である。そして、第一王位継承者より第二王位継承者の方が蔑《ないがし》ろになるのも仕方のないことだ…絶対的な順位がある中で優劣があるのは、どうしようもない。
友歌に、レイオスを守れるだけの力はない。本当に精霊ならわからないが、友歌は人間である。
そして、そんな訳で周囲にも力があるのだとは示せていないわけだから、おそらくそういう力が期待されているわけではないのだろう。期待されているのは――レイオスを疫病から守る力ではなく、疫病をただ退ける力。
ラディオール王国を、存続させられる力。
「…………っ!」
もし、真実を言ったなら。精霊などではないと言ったなら、その命令は取り消されるのだろうか。
第二とはいえ、正当な王位継承者を谷底に蹴り落とすようなことは、しなくてすむのだろうか。――レイオスを、危険にさらさなくて済むのだろうか。
けれど、
(――今更、信じてくれるというの?)
自分の考えに、友歌は冷笑を浮かべた。もう、召還されてから何ヶ月も過ぎてしまったのである。
あれだけ言っても信じてもらえなかったことを今また言ったとして、果たして効果はあるのか。――ただ、怖じ気付いたと思われたなら、マイナスイメージがついただけで解決にはならない。
もう、期を逃してしまったのである。
「私も行きますわ。」
「!」
満足のいくまで呪詛《じゅそ》を紡ぎ終わったのか、サーヤが清々しい顔で笑っていた。あまりのギャップに思わず頬《ほお》を引きつらせながら、友歌はでも、と口を開きかける。
けれど、それよりも早く――サーヤは、未だ氷漬けの床に跪《ひざまづ》いた。
「レイオス王子、私を――精霊様の専属女中に。」
「…………え?」
言葉に思わず凝視すれば、サーヤは友歌に笑いかけた。
「私は今まで、レイオス王子の女中として、精霊様のお世話を命じられていました。
けれどそれでは、レイオス王子の方を優先させねばなりません。
それでは駄目なのです、それでは――私が力を使う理由には、なれない。」
「理、由?」
「女性に守られたがる男性はあまりいないということです…少なくとも、レイオス王子は違います。」
専属女中。そんなことを、友歌は考えたこともなかった。
サーヤが実際に誰のもとに属しているかなど、友歌には関係がなかったからだ。ただ、サーヤは信用できて、安らげる。
――友歌の専属女中、それは、友歌に仕えるということで…。友歌はさっと顔を青くさせた。
「だ、め…駄目!」
「なんと言われようと、私は曲げません。
レイオス王子のもとにいては、精霊魔法が使えないのです…主より目立つ部下がいては、いけないのです。」
精霊魔法の使えないレイオス。その下で、サーヤが我が物顔で使って、周囲はどうなるのか。
非常事態であっても、出る杭は打たれる。レイオス王子の身になったつもりで、親身になったフリで容赦なく蹴落としてくるような者が城には蔓延《はびこ》っているのだ。
けれど――精霊である友歌の下でなら、そんな男の矜持《きょうじ》は利用できない。そして何より、
「根本的には変わりません。
精霊様の主はレイオス王子ですし、私の仕事も、何も変わることはないでしょう。
ただ、肩書きを変えさせて欲しいのです。」
「…………っ、」
友歌の利害には繋がらない。これ以上の否定は、説得力を持たないことに気付き、友歌は口を噤《つぐ》んだ。
――これ以上、この世界の足枷を増やして欲しくない。けれど、それを間接的に伝える術を、友歌は持っていなかった。
沈黙が降りたことにより決着がつき、レイオスは立ち上がる。
「正式に変更出来るのはもう少し後だ…出発も。
それまではゆっくり休んでおいてくれ。
…すまない、モカ。」
やることがある、と出て行ったレイオスを見送り、友歌はそっと視線を落とした。すでに部屋の氷は霧へと変わっていっており、湿気で少し熱いくらいだった。
(…………あ。)
――そう言えば、一度も視線が合わなかったな。思い当たり、友歌はもう一度レイオスの消えていった扉を見つめる。
けれどどうすることも出来ず、友歌はそっと立ち上がり、サーヤを連れて部屋へと足を進めた。どろりと足が重たいのを感じながらも、友歌はただただ無心で歩く。
どこかで、何かが軋んだ音を立てたような気がした。