043. 記憶の破片
たとえば、菌が体に侵入したことに対する抵抗。実際、この抵抗が人間の体にはつらい。
熱が出る、咳が出る、喉が痛い、頭が痛い、体そのものがだるい――菌に抵抗するための措置が、人間の体にまで影響を及ぼしていくのだ。
かといって、菌をそのまま放置しても、それはそれで大変なことになる。菌そのものが有害なのだから、当然と言えば当然なのだが。
――侮れないとは言っても、現代ではもっとも殺傷能力が低く、そして治りやすいだろう風邪。それが死に直面するというこの世界で、友歌は“疫病”という名前に不安を隠せないでいた。
*****
「けほ、けほっ!」
友歌は独り、ベッドの中でくるまっていた。淡いモノクロの世界――涙で滲む視界は、何故か色がついていない。
天井を見つめながら、幼い友歌は布団を口元まで引き上げた。
(…さみしーなぁ。)
瞬きをすると、熱で溢れた水が頬を伝う。それをぼんやりと感じながらも、だるい腕は動いてくれなかった。
――おそらく、小学生くらいの記憶である。母譲りの健康体である友歌は、たった一度だけ、39度近い高熱を出した。
兄は、友歌と同じく風邪など引かない子供である。対して、弟と妹は引きやすく、また妹は気管支も少々弱い。
兄と友歌は、そんな二人を看病する役目だったのだが――今回は、タイミングが悪かった。
(…さむい、)
弟と妹が同じ時期に風邪を引くのは、園田家では珍しいことではなかった。いつものように、仕事で多忙な父と母に変わって兄と友歌が面倒を見る。
風邪を引きやすいが重くはならない二人だったから、昼は作り置いていたものを食べて寝ていて貰い、兄と友歌は一直線に家へと帰る。
――しかし、その日は雨が降っていた。用意周到な兄はきちんとカッパを着込んでいたが、友歌は何も持っていなかった。
兄は傘を友歌に貸したが、それでも友歌の体は冷え込み――初めての風邪を引いてしまう結果となる。
友歌はもぞりと寝返りを打ち、目を閉じた。その拍子で大きな涙がまた零れ、友歌は小さく縮こまる。
風邪がこんなに苦しいものだとは、友歌は思っていなかった。弟も妹も、二人ともいつも笑っていたから。
『また引いちゃったよ、』と。――あの笑顔の裏で、この涙を堪えていたのだろうか。
(…………、)
風邪とは、呼吸系に起こる炎症性疾患の総称である。つまり、正式には風邪という病は存在しない。
一口に風邪と言っても、熱の出ないもの、咳の出ないもの、頭も痛くならないもの、喉に痛みの感じないもの、体がだるくならないもの…。いろいろあるし、ひどくならなければ引いたことにすらも気付かないものである。
けれど、幼い友歌にはその違いはわからなかった。自分よりさらに小さい弟や妹が、気を張っていたのだと結論付ける…――こんなにつらいなんて。
(…てんじょうが、おそってくる…。)
ぐらぐらと頭が揺れた。自分を中心に世界が回る。
吐き気はないのに、脳だけがぐるりと一回転。瞳を開けばそのままの風景が見えているのに、部屋がどんどん狭まったように感じて――、
ひとりぼっち。
友歌は、落ちるように眠りについた。
*****
「…………、ゆめ。」
ぱちりと目を開けた友歌は、変わらない蒼と白の部屋に息を吐いた。――そう、もし戻れたのだとしても、それはあのマンションの一室のはずで、祖母が死んで引っ越したあの家ではない。
上半身を起き上がらせれば、白み始めた外の風景が、うっすらと見えた。それをぼんやりと見つめながら、友歌は自らの膝を引き寄せ、抱え込んだ。
ドクドクと、寝起きにしては早い心音が体を巡っているのがわかる。
「…………、」
久々に、地球の夢を見た。この頃は、思い出すだけで出てきてはくれなかった夢。
遠のいていくことが感じられて、友歌は軽い恐怖に襲われる。――記憶が、上乗せされてしまう。
「…やだ、な。」
忘却は、機会より人が優れているただ一つの証拠らしい。ならば、忘れることが至上ということなのだろうか。
大切な、決して忘れたくないものでさえも消え去れてしまえるだろうことが、そんなに素晴らしいことなのだろうか。
――忘れることが進化だと言うなら、記憶という宝物を、ずっとずっと磨き続けるのは、後ろ向きな考えなのだろうか?
18年生きてきて、初めて風邪を引いた記憶であっても…こんなに愛しいというのに。
(…………ぁ、)
そういえば、こちらに来て誕生日も過ぎてしまった。
電話をかけると約束した兄も、弟も、妹も、父も母も。…声を聞くことは、出来なかった。
心配しているだろうか。引っ越しのその日にいなくなった友歌を捜し回っているのだろうか。
――そもそも、時間の流れは一緒なのだろうか。出来れば、違っていて欲しい…あのまま、止まっていて欲しかった。
友歌がいなくいなった瞬間に、時間が止まっていていて欲しい。
(…風邪の時は、そう感じたなぁ。)
昼、レイオスから疫病のことを聞いてしまった友歌は、夜になってもそれを忘れることは出来なかった。
おそらくそれが、夢にまで関係してしまったのだろう。あれ以来、友歌は再び元気な体を手に入れたから。
――初めて引いた重い風邪は、今でも鮮明に友歌の記憶に残っている。何度も何度も思い返していたからだろう。
風邪は、重いのだ。痛くてつらくてだるくて、――ひとりなのだ。
あの瞬間、友歌は確かに、世界で一番不幸だった。世界中探しても、自分以上に不幸な人なんていないだろうと思えた。
それくらい、つらくてだるくて、…独りは寂しかった。
(…疫病、疫病。
わかんないな、想像も出来ない…。)
水疱瘡、おたふく、はしかは記憶もないさらに幼少の頃に経験したらしく、印象にない。基準と言えば、やはりあの風邪しかなかった。
現代では、死の可能性は限りなく低い風邪。この世界ではさらに侮れない病《やまい》だろうし、致死性100%のものも、聞くところによると少なくないらしい。
そんな環境が、保守的なこの世界では地球以上に長引き、今現在も脅かし続けている。それでも人間が絶えないないのは、精霊のお陰なのだろう。
――精霊が保つこの世界で人が生きるためには、結局精霊に頼るほかないのだ。
「…………。」
帰りたい。それは今でも変わらないし、書庫へ通うのも止めていない。
厳しくも優しかった母のもとへ。柔らかく皆を包んでくれていた父のもとへ。我が儘だったが、たまには折れてくれた兄のもとへ。クールなのに、家族には甘かった弟のもとへ。甘え上手で、皆の癒しだった妹のもとへ。
懐かしいと言えてしまえるくらい、離れてしまった家族のもとへ…地球へ。だというのに――この涙は、何故溢れてくるのだろうか。
「…と、まれ…止まれ、止まれっ、」
ぐしぐしと袖で拭っても、瞳から溢れる水は止まらない。決して、“帰りたい”という思いは嘘ではないのに、何かが壊れてしまったかのように流れ続ける。
かといって、ここに居続けたいのかと問いかけても、それも違うと言えた。どう言い繕《つくろ》っても、今まで生きてきた地球への愛着は捨てられない。
――それでも、最初の頃のように断言は出来なかった。一瞬、どうしても息が詰まる。
「…う、うぅー…、」
ひとりきりの、夢だった。家にひとりきりで居た友歌は、あの後、すぐに帰ってきた兄に看病され、そのすぐ後に駆け込んできた弟と妹を兄が追い出すのを、黙って見ていた。
体の弱い二人では、逆に病人が増えるからだ。
そして、珍しく仕事の早く終わった母に子守歌を歌って貰い、これまた早く帰ってきた父にお粥を作ってもらった。――世界で一番美味しい夕飯だった。
ひとりきりの、世界で一番不幸な自分は、一番愛されている友歌に変わった。兄の、ふてくされたような顔も、友歌の笑みを誘った。
夢は、そこまで続いてくれなかった。ひとりきりのまま、終わってしまった。
――あの後も見せてくれたら、そうしたら。こんなに、泣かなくてすんだのに。
この世界でもひとりきり。地球産の自分は、たったひとり、精霊を名乗る。
それなのに、ひとりではない。――すぐ傍にある笑顔が、どうしても離れてくれなかった。