030. 朱月の顕現【中】
灰色の空を彩る、浮かぶ朱月と彩る蒼い傘を見つめ、レイオスはほうと感嘆の息を吐いた。レイオスがこの現象を見るのは二桁以上になるが、それでもこの感動は抑えきれない。
春の精霊シュランと、冬の精霊リュートの加護。心の恵み。言い方はそれぞれだが、根底にあるのは全て、感謝である。
廃れ、戦争の世の中にあっても、ラディオール王国の住人が優しくあれるのは、二大精霊のおかげである。そう皆も知っている。レイオスは朱と蒼に視線を固定したまま、思いを馳せていた。
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レイオスにとって朱月とは、象徴でありながらも存在を示す二大精霊そのものだった。幼い頃より見慣れたそれは、レイオスに安心感さえ与える。
それはどうやら他の者も同じようで、確実に近付いているそれらに、周りを見渡しても皆が顔を綻ばせてそれを見ていた。
人々に畏怖と尊崇《そんすう》をもたらす精霊だが、非常に身近な存在でもある。現に人は精霊を宿し、人々の役に立ててきた。
──それが、精霊の望む事かはわからないが。
(…モカは、ちゃんと兄上と見ているだろうか…。)
式典の主催が重ならなければ、レイオスとライアンは庭で【朱月の顕現】を見る習慣がついている。レイオスの母の庭は、七つの精霊を集めたという言葉に違わず、朱月とともに暖かい雰囲気を灯すのである。
あそこは、レイオスの母が──レイオスが許した人間しか入る事ができない。王族の者と、友歌とサーヤのみである。
今頃は、レイオスの願いもあって、ライアンは友歌達と共に居ることだろう。きっと、“精霊”である友歌には、初めて見る朱月が“きつい”だろうとレイオスは思ったのである。
レイオスが式典に出なければいけないのを伝え忘れたのは、完全な失態だった。友歌が一緒に見たがっていたとサーヤから聞いたレイオスは、正直、悔しいという気持ちになった。
“一緒に見られなくてすまない”とは言付けたが、それでも苦いものはまだ残っていた。──モカの要望は出来る限り聞いてやりたいのに。
甘やかすのではないが、それらしい望みを言ったことがない精霊にレイオスは歯がゆい思いをしていた。
料理を改良するのだって、実際は城中のほぼ全員が口にするもので、しかも友歌自身が手を加えたものだ。書庫に行きたがっていたのだって、レイオス達がこの世界を知って欲しいという思いを汲み取っただけかもしれない。
この数ヶ月の間、レイオスが友歌に“与える”事が出来たのは、本に挟むためのしおりと、小鳥を飼う権利だけであった。それはあまりに、──レイオスが今まで関わってきた人間達にすれば、あまりに少ないものであった。
(…精霊だから、なのだろうか。)
はっきり言ってしまえば、レイオスは友歌を持て余していた。どう接すれば良いのか、未だにわからないのである。レイオスが叩き込んできたのは、もちろん、“普通の”精霊に対する魔法の使い方や、一般的な精霊の知識。
護ると決めた決意は嘘ではない。ヒトガタとは、つまり紋様となり宿っているわけではないのだから、簡単に離されてしまうという事。
支えたいと思った気持ちも嘘ではない。けれど、王族に擦り寄ってくる者を遠ざけ、自らが選んだ人々としか接してこなかったレイオスにとって、友歌は定める期間もなく懐に、それも一番深いところに落ちてきた者であった。
レイオスは、自分が器用な方ではないと自覚している。ライアンは逆に、己を一番よく知り、管理してみせるのだ。
とてもじゃないが真似も出来ず、レイオスは距離を保ったまま友歌を知るしかなかった。まさに、手探りでしか進めないもどかしさを感じていたのである。
(…これでモカに呆れられてしまったら、どうしようもないな。)
レイオスを王に、という動きもまだ見られる。今まで以上にはっきりと拒否しているので形にはなっていないが、それでも鬱陶しいと思うのは避けられない。
未だに、例の精霊研究期間も書状を送ってくる。最近は動きがなかったが、それでも諦めていないだろう。
レイオスはそっと己の左手の甲に触れた。サーヤはそこに、精霊の紋様がある。
紋様が現れるのは、額、鎖骨の真ん中、鳩尾、両肩、両手の甲のいずれか一つだ。けれど、レイオスにその兆候は見られない…否、本当は契約したその時に現れなければいけないもの。
実は、それに感じてはレイオスはもうどうでも良かった。ヒトガタである時点で宿る場所を示すものであるそれがある必要はないし、今更宿られてもエルヴァーナ中が困惑する。
けれど、それを諦めるという事は、魔法を使う事を諦めるという事。精霊魔法を使うには──精霊石を使うか、精霊を宿すしかないのだから。
だが、精霊石は扱いづらい。幼きサーヤは見事に操っていたが、それでもやはり召還した精霊には劣る。
レイオスはそこまでして魔法を使う事に拘《こだわ》っていなかったから、それを使う予定はない。けれど、周囲にとってはそうではないのだ──『魔法が使えなくて何が王族か、』と。
もちろん、それを言う者はいないし、友歌というヒトガタを降ろした事からさらに周りはレイオスを“たてる”。しかし、遠回しなそれは確実にレイオスと友歌を取り巻いている…“ヒトガタ”の精霊魔法の威力への好奇心も重なって。
拳を握りながら、レイオスは目の前を見た。
「レイオス王子、もうすぐ朱月が…。」
「…ああ、わかった。」
整えられた広場の真ん中、舞台の上で座っていたレイオスは上を見上げた。すでに、淡く朱く染まっている月が、すでに半分ほど太陽を覆っている。
“日蝕”──友歌から聞いたそれを思い出し、レイオスは頬を綻ばせた。
*****
「…ああ、やはり素晴らしいな…。」
何年も、何十年も──何百年と変わらない【朱月の顕現】。それが、ラディオール王国に舞姫を選びに来るようになったのは、たった数十年前である。
けれど、ラディオール王国が二大精霊を信仰してきたのはそれよりずっと前…国が出来た頃だ。それは、加護に値すると認められるまで何十年も掛かったことを意味している。
誇り有る、精霊に認められた行事。──だからこそ舞姫は、尊い。ぽう、と現れた二つの光に、広場中が沸いた。
光が朱と蒼に染まれば、その軌跡も染まり、そうして消えていった。くるくると周りながら地上に近付いてくる光は、美しい螺旋を描く。
そうして──地上には変化が訪れ始めた。
「…………、」
花が、咲き誇る──。
「レイオス王子、今年もすごい景色ですね!」
「…本当に。」
この世界では、花は一年中咲くものだ。春の花と、冬の花。木々はほとんど冬には枯れるが、冬に咲く花はもちろん咲いている。
暖色系の花は、全て春の花。寒色系の花は、全て冬の花。けれど、この時だけは──【朱月の顕現】の一瞬だけは、全ての花が花弁を広げる。
春月《しゅんげつ》と冬月《とうげつ》の交差する、この一日だけ…。
広場に植えられた全ての木や花が咲き続けていくのを見て、子供ははしゃぎ、大人は微笑む。確かな加護の証、他では見られない季節の加護。
けれど、くるくると降りてきていた光が一定の位置で止まり円を描くと、途端に大人しくなった。それは、光が舞姫を選ぶ合図──。
「我らが全能の精霊…どうかそのお手に望む舞姫を、」
呟き、レイオスは光をじっと見る。そうして──朱い光が、動きを見せた。
「城に…!」
誰かが、誰もが呟いた視線の先には、城に向かっていく光があった。迷いなく、その方向に向かって行く光。
そうして城の外側に落ちると、沈黙した。瞬間。広場は沸いた──今年も無事に、舞姫が選ばれた。
「…蒼い光が、まだ探していますね。」
近くの兵が呟いた言葉に、レイオスも城から視線を戻す。そこには、未だくるくると回り続ける蒼い光があった。
二大精霊が、どうやって舞姫を選ぶのかは定かではない。強く信仰し続けた者を選ぶとの言葉もあれば、気まぐれで近くに居た者を選ぶなど様々だが、実際舞姫に大した制限はない。
十歳くらいの子供が選ばれた時もあるし、すでに成人し夫がいる者を選んだ時もある。ただ、やはり踊れない者や、踊りきる体力がない者は選ばれた事がないので、やはり意思はあるのだろうという意見が強い。
皆がじっと光を見続けて数分、ようやく動きがあった。同じく、城の方向に──。
広場の者が落胆すると共に、歓喜の声を上げるのを聞き、レイオスはほうと息を吐いた。今度こそ、無事に二人の舞姫が選ばれた。
「今日は時間がかかりましたね…。」
「ああ、そうだ…な、?」
つぅ、と頬に何かが伝った気がして、レイオスは手をあてた。横の兵士が目を見開くのを見て、それが自らの涙であると気付き、レイオスは慌てて拭う。
そうして、何故か鼓動が早く強くなる心臓に、ぎゅうと上の服を握った。膝を突いたレイオスに慌てた兵士は、精霊医師を呼ぶ。
けれど、レイオスはただ呆然と目の前の舞台に広げられた深紅のカーペットを見つめた。
「モカ…?」
こくりとレイオスは喉を鳴らし、未だ溢れ続ける涙が染みを作っていくのを瞬きもせずに見つめていた。ただ、何かが自らの感情で制御できないところで暴れているのがわかる。
ゆっくりと見上げた視線の先、城は、異様なほど静かであるような気がした。