001. ようこそ、世界へ
友歌は真っ白な空間にいた。夢の中──すぐにそうとわかるほど、何もない空間である。
宙に浮いている友歌は、結ばれていない自身の髪が流れていくのを感じた…風が吹いている。前から吹いてくるそれは、ひんやりと冷たく友歌を包んでいた。
(…あの痛みは、何…?
それに、あの青い目の人はいったい…。)
忘れられそうもない、強烈な感覚。痛みと痺れと苦しさが、体中にのし掛かってきたような──、
友歌は、ぶるぶると頭を振る。思い出せば、またぶり返してきそうで怖かった。それを塗り替えるように、友歌は意識を失う瞬間に見た青い目の持ち主を考えた。
そして、ぼんっと顔を真っ赤に染める。
(…いや、いやいやいやきっと気のせい!)
唇に、暖かいものが触れたなんて──!
友歌は、頬を両手隠し座り込む。今、誰も傍にいないからと言って、そのような考えを持ったなどと羞恥がこみ上げて仕方がない。
なんとか平常心を取り戻して、友歌は再び立ち上がった。何もない空間。一歩踏み出してみれば、なんとか歩けるようだった。
一歩一歩確かめるように足を進め、友歌は白い空間を歩む。まっさらな世界は、果てなく続いているように思われた。
ふと、友歌は立ち止まる。何もないその場所に、音が聞こえた気がしたのだ。優しく、可愛らしい──軽やかなリズムの小さな音楽が、風に乗って。
目を閉じ、友歌はその音に聞き入った。
(なんていう音楽だろう…聞いたことないな。
あ、音が跳ねた…次は跳んで、高くなって…、ポップ調か。)
綺麗な小さい音が、いくつも折り重なって音楽になる。友歌はそっと口角を上げた──可愛い曲。
けれど、その音は急に掻き消えてしまった。あまりにも唐突な終わりに目を見開けば、白だけだったはずの世界が変わっていた。
友歌の周りを取り囲むように伸びる、鉄色の鎖。
「え、」
何重にも巻かれた鎖は、縦横無尽にそれを広げていた。
広さでいうなら、学校の教室くらいだろうか。それくらいの場所を残しただけで、鎖は友歌を中心に丸く囲み終えてしまっていた。
息を呑み、友歌はそれに右手を伸ばす。
──触れようとした瞬間、あの痛みが体中を駆けめぐった。
「――…………!」
友歌は弾かれるように指を引っ込める。触れようとした右手を左手で包み、体を護るように一歩後ずさった。けれど、後ろにも同じように鎖が囲んでいるのに気付き、友歌はその場にへたり込む。
閉じこめられて、しまった…?
(…なに、なんであの痛みが…、)
確かめる術は、もうない。──気を失う前に感じた痛みに、友歌はとてつもない恐怖を感じていた。
駆けめぐった痛みが幻であれ本物であれ、それは友歌の中で鎖とイコールで繋がってしまった。今、鎖に触れる勇気は友歌にはなかった。
右手を握り、友歌は唇を噛む。何故、夢の中に来てまで怯えなければならないのか。ふらふらと立ち上がり、途方に暮れたように上を見上げた。
もちろん、頭上にも鎖は張り巡らされている。吹いていた風さえ、今は微塵も感じられなかった。
(…か、)
友歌は、涙が滲むのを感じた。
(誰か…!)
途端、ひゅうっと風が吹き込んだ。友歌の髪をはためかせたそれは、次いで柔らかく友歌を包み込む。やってきた眠気に、友歌は抗えなかった。
崩れ落ちるようにして友歌は瞳を閉じ──暗い闇に意識を沈めた。
*****
瞳を開けた友歌を待っていたのは、美しい装飾の施された布だった。淡い水色が幾重にも重なったそれは、一つの芸術のように友歌を迎えた。
そっと起きあがれば、白と青で統一された模様の美しいシーツが友歌から滑り落ちる。友歌が眠っていたのは、まるで物語に出てくるようなベッドだった。
淡い青色を基調とした天幕の取り付けられた、特殊な親を持つとはいえ一般人の友歌には気が引けてしまうその場所。
友歌は、こくりと喉を鳴らした。
(…どゆこと?)
そろりと、友歌はベッドから降りた。薄い水色のレースが天幕から四方に垂れ下がっており、それを恐る恐るすくい上げ―見えた世界に、友歌はまた倒れそうになった。
おそらくは、友歌が借りたマンションの五倍ほどはあるだろうか。白い部屋は、同じように水色で綺麗な装飾が描かれている。
天井を見れば、何処の豪邸だろうと疑問に思いたくなるほどのシャンデリア。ベランダ…否、テラスと言ってもいいだろうその場所を遮っている大きな窓、開け放たれているそこから入ってくる爽やかな風が左右の青いカーテンを揺らしている。
友歌は、どっと冷や汗が流れていくのを感じた。
(ここどこだ…この部屋なに?)
そろそろと床に足を降ろすと、白い毛の長い絨毯に友歌の足が埋もれた。それにびくりと反応しながらも、友歌はしっかりと足に力を入れる。
立ち上がると、白と水色の長い布がしゅるりと音をたてた。
「…………え?」
たっぷり時間をかけ、友歌は硬直から解き放たれる。
友歌は引っ越しの準備のため、ラフな格好をしていた。──していた、はずだった。白い半袖Tシャツに、動きやすく伸びやすい素材のジーパン。なら、今着ている服はなんなのだろう。
それは、見た目を重視している事が丸わかりな“衣装”…友歌の感性は、それを“服”とは認識しなかった。
まるで、踊り子のように布をふんだんに使われたそれ。
両手の中指に填められたリングから水色の布が二枚垂れ、一枚は前腕《ぜんわん》を覆う白い布の、肘あたりにある金具までゆったりと繋がっている。
そっと見下ろしてみれば白い布が帯のように胸の下を引き締めており、後ろに手を伸ばしてみれば蝶々結びがされ──余った部分が床につきそうな程に伸びていた。
着ているものはワンピースのようだが、布の使われ方がまさに“踊り子”である。
友歌は、ひくりと口元が引きつるのがわかった。
(…何が起こってる!?)
問いかけに、返ってくる言葉はなかったが──ガチャリとドアノブが捻られた。
びくりと肩を震わせ振り返った友歌は、そこに居た“メイドさん”に目を瞬かせた。白と黒を纏った鮮やかな青い髪のその女性は目を見開くと、その場所に優雅に跪いた。…ひざま、ずいた?
「初めまして精霊様、このたびお世話を言い付かりましたサーヤと申します。」
(…………はい?)
疑問は、声に成らずに消えていった。
精霊と言ったかこの人は?友歌は、自分がわけのわからない事態に巻き込まれている事を確信し、未だ頭を上げないその人にそっと近付く。
「あの、精霊…って、」
「…………、残念ながら精霊様、すでにあなた様の事は国中に発表されました。
知られたくないという心中はお察し致しますが、否定なされても既に意味は御座いませぬ。」
「…いや、あの…。(理由を聞きたかったのにもしかしなくても伝わってないよねこれ?)」
友歌は混乱した。
何故私が精霊などと呼ばれているのか。ここはいったい何処なのか。聞きたい事は山ほどあるし、それより何より、もとの場所に帰して欲しかった。
けれど──続けて言われた言葉に、友歌は頭が真っ白になった。
「ここはラディオール王国…ラディオール王家の治める土地に御座います。
このたびはレイオス王子の召還に応じて下さりました事、心より感謝いたします。」
──友歌は視界が暗くなった…意識を失ったのだ。
サーヤが慌てたように友歌に駆け寄るが、崩れ落ちた友歌が知ることはなかった。そのかわり、友歌の脳裏にはサーヤの言葉が何度もリピートされる。
“ラディオール王国”、“ラディオール王家”…そして、“レイオス王子”の“召還”。
友歌は、嫌な予感がしてならなかった。
──そう、まるで、世界から見捨てられてしまったかのような心細い気持ちに襲われながら、友歌は眠りの中に沈んでいったのだった。