[短編版]婚約破棄された気弱令嬢リリエラ・ライムブリュレは、選ばれるのをやめました 〜冷酷公爵は静かに立候補する〜
短編用に再編集しました。
不整合やおかしな点がありましたらすいません。
少し読みやすい様に改編しました。
「リリエラ・ライムブリュレ嬢。君との婚約を、本日をもって解消する」
アルフォンス・ミルフィーユ王太子の声が、夜会のホールに響いた。
シャンデリアの光の下、リリエラは笑顔を保ったまま、爪が手のひらに食い込むのを感じていた。
わかっていた。
薄々、わかっていた。
隣に立つ令嬢が王太子の腕に触れている。
おめでとう、と心の中で思った。
問題は——私は、どこへ行けばいいのだろう。
「ライムブリュレ嬢、何か言うことは?」
静かに頷いて「承知いたしました」と言えば、それで終わる。
リリエラは口を開いた。閉じた。また開いた。
「……私も、選びたいです」
声が震えていた。
会場がしんと静まる。
「……婚約を、解消していただくことに、異存はございません。ただ——次は、私が選びたいと思います。選ばれるのではなく」
沈黙。それから、くすくすと笑いが漏れた。
やはり変なことを言ったのだろう。
頬が熱かった。
視線が痛かった。
けれどリリエラは顔を上げたまま——震えながら、その場に立っていた。
「……面白いことを言う」
低い声が、斜め後ろから聞こえた。
「彼女は物ではない」
静かな声だった。けれど会場の笑いが、すうっと消えた。
「ショコラオランジュ公爵」
王太子の声が、わずかに硬くなった。
レオンハルト・ショコラオランジュ。
王家に次ぐ位を持つ大公爵家の当主。
足音がリリエラのすぐ隣に来たとき、視界の端に深い紺青の燕尾服が入った。
男性はリリエラと王太子の間に、ごく自然に立った。
「場を盛り上げるご趣味は昔からでしたが、他者の尊厳を余興にするのは、いただけない」
短いやりとりの後、公爵がリリエラの方を向いた。
初めて、正面から顔を見た。切れ長の目。
感情が読みにくい顔。けれどその目が、真っ直ぐリリエラを見ていた。
「選びたい、と言ったな」
「……はい」
「そうか」
それだけ言って、公爵は王太子を退けると歩き去った。
「……なぜ、助けてくださったのですか」
リリエラが問うと、公爵は少し沈黙してから言った。
「震えながら、ああいうことを言える人間はなかなかいない」
「ライムブリュレ嬢。今夜は、よく立っていた」
それだけ言って、公爵は人混みに消えた。
リリエラはその背中を目で追いながら、自分の心臓が——さっきとは別の理由で、うるさく鳴っていることに、まだ気づいていなかった。
翌朝、手紙が届いた。
ショコラオランジュ家の封蝋。開くと、一行だけ書かれていた。
明日の午後、時間があれば。——L
場所も、時間も、目的も、書いていない。
「時間があれば」という、ひどく軽い言い方。
断ることを、最初から許している。
リリエラは昨夜の公爵の顔を思い出した。
「よく立っていた」——低くて、静かで、褒め慣れていない人間の言い方だと思った。
「返事を書きます」
リリエラはペンを持った。
迷って——短く書いた。
明日の午後、伺います。——R
一行だけ。
相手に倣った。
封をしながら、リリエラは自分が少しだけ笑っていることに気づいた。
婚約を失った翌朝に笑うなんて、おかしいと思った。
でも、笑えた。
ショコラオランジュ公爵邸へ行く。
公爵邸は質素だった。
というより——余分がなかった。
「来てくれた」
公爵の開口一番がそれだった。
公爵はリリエラの向かいに座った。
「……呼んでおいて失礼ですが、目的を、まだ話していなかった」
「……存じております」
「怖くなかったか」
「……少し。手紙を書いた後で怖くなりました。順番が逆でした」
公爵がかすかに目を細めた。笑っているのかもしれない。
「話があります。昨夜のことを、正式に詫びたかった」
「……いいえ。助かりました。でなければ、あの場でどうしていたか、わかりません」
「震えていた」
「……見えていましたか」
「見えていた。それでも言えた。大したことだと思った」
「……大したことでは——」
「伝わった。少なくとも私には」
暖炉が小さく鳴った。沈黙が、不思議と苦しくなかった。
「もうひとつ、話があります。私は、あなたに婚約の申し込みをしたいと思っている」
リリエラは一瞬、言葉の意味を処理できなかった。
「……なぜ」
公爵は少し考えてから、答えた。
「昨夜、あなたは言った。次は選びたいと。私はその言葉を聞いて——初めて、選ばれたいと思った」
リリエラは何も言えなかった。
「ただ、返事は急がない。あなたが選ぶのであれば——私は、待てる」
静かな声だった。圧がなかった。迫ってこなかった。
「……すぐには、お答えできません」
「わかった」
「……怒りませんか」
「なぜ怒る。私は普通ではないかもしれない」
また、目が細くなった。
「……考えます。時間をいただけますか」
「いくらでも」
その一言が、本当のことを言っている人間の声だった。
帰り道、馬車の中でリリエラはずっと窓の外を見ていた。
選ばれたいと思った——その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
数日後、公爵から手紙が届いた。
帳簿を見てほしいという内容だった。
リリエラはライムブリュレ家の財務を二年前から任されていた。
数字が好きだった。数字は正直で、誰かの機嫌で変わらない。
届いた帳簿を三日かけて精査し、報告書をまとめた。
書きながら、自分がわくわくしていることに気づいた。私の力で、役に立っている——違う種類の感覚だった。
公爵邸を訪ねるのは、二度目だった。
今日は——自分から来た。
「来てくれたのか」
「帳簿を拝見しました。報告書をまとめましたので」
公爵はその場で開いて読み始めた。十分ほどかかって、最後まで読んだ。
「これを、三日で」
「……数字が面白かったので」
公爵は笑っていた。今日ははっきりわかった。
「ありがとう」
「いいえ、帳簿を見せていただいて——」
「ライムブリュレ嬢。礼を受け取るのが苦手か」
「……苦手です」
「なぜ」
「……大したことをしていないと思ってしまうので」
「これは大したことだ」
きっぱり言った。
迷いがなかった。
「……ありがとうございます」
絞り出すように言った。
公爵は静かに頷いた。「受け取った」
リリエラは少し考えてから、言う。
「……もうひとつ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「公爵は——なぜ、こんなにこちらのペースに合わせてくださるのですか」
公爵は少し考えた。
それから、静かに言った。
「選ばれたいのではない。選んでほしいのだ」
その言葉が——リリエラの中の何かに、真っ直ぐ触れた。選ばれたいのではなく、選んでほしい。
その違いを、リリエラはうまく言葉にできなかった。でも、違うとわかった。
全然違うと、わかってしまった。
ある日の午後、偶然に街で公爵と出会った。
「……公爵」
「……お時間は、ありますか。あの近くに喫茶があります」
誘っているのは、自分だった。
一週間前まで、こんなことは言えなかった。
「それは光栄だ」
その一言が——随分と、温かく聞こえた。
喫茶で、リリエラは自分の仕事について話した。
数字が好きだということ。
正直だから好きだということ。
公爵は奇妙なものを見る顔をしなかった。
ただ、静かに聞いていた。
気づいたら、一時間が過ぎていた。
帰り道、リリエラは思った。
今日は、誰かに誘われたのではなかった。
自分で声をかけて、自分で誘って、自分で話した。
悪くないと思った。
翌々日の朝、王太子から豪奢な封蝋の手紙が届いた。
便箋三枚にわたって、婚約破棄は軽率だった、
もう一度話し合いたい——そういう内容だった。
リリエラは手紙をたたんだ。「お気持ちはいただきました」とだけ書いて返した。
怒りはなかった。
捨てられたことよりも、初めて言えたことの方が、今は大きく残っている。
同じ日の夕方、別の使者が来た。
「ショコラオランジュ公爵より」
開くと、また一行だった。
先日の件、礼を。お手すきのときにまた。——L
リリエラは二通の手紙を見比べた。
一方は三枚の格式ある文章。一方は一行。
どちらの手紙を、もう一度読み返したいか。
それは、わかった。
翌週の茶会で、王太子が声をかけてきた。
「リリエラ嬢。少し話せるか?」
庭の隅へ移動した。
アルフォンスは歩きながら、先に話し始めた。
「手紙の返事を読んだ。あれはどういう意味だ」
「答えのつもりでした」
「答えになっていない」
リリエラは静かに続けた。
「婚約解消は承知しております。そのうえで、殿下のお気持ちは受け取りました。それが私の返事です」
「君は怒っているのか」
「いいえ。怒っていないからです」
アルフォンスが眉を寄せた。
「……どういう意味だ」
「怒っていれば、まだ殿下のことを考えているということです。でも私は——もう、前を向いています」
沈黙が落ちた。
「ショコラオランジュ公爵のことか」
「それは‥」
「あの男は、何を考えているかわからない」
「そうでしょうか」
リリエラは少し考えた。
わからない男、と言われた。
確かに、感情が読みにくい人だとリリエラも思った。
でも——わからないのではない。
言葉が少ないだけで、言ったことは全部、本当のことだった。
「殿下。ひとつ、聞いてもいいですか」
「なんだ」
「殿下は私の婚約を解消されたとき、私が何を考えているか——考えてくださいましたか?」
アルフォンスが黙った。
「……それは」
「考えなかったと思います。考える必要があるとは、思わなかったのだと思います。私が何も言わない人間だと、知っていたから。でも私は——あの夜、初めて言えました。震えながらでも、言えました。それは殿下が婚約を解消してくださったから、言えたことです。ですから、感謝しています」
アルフォンスは何も言えなかった。
リリエラは小さく頭を下げた。
「失礼します」
踵を返して、歩いた。
足は少し震えていた。でも、止まらなかった。
会場に戻ったとき、人垣の向こうに深い紺青の燕尾服が見えた。公爵がいた。
目が合った。ただ公爵は何も言わなかった。
ただ、かすかに頷いた。
それだけで——なぜか、十分だった。
その夜、リリエラはよく眠れなかった。
眠れない理由は、わかっていた。
わかっているのに、認めたくなかった。
認めてしまったら、何かが変わってしまう気がした。
リリエラは天井を見つめた。
暗い天井だった。何もない。
それなのに、そこに誰かの顔が浮かんだ。切れ長の目。感情の読みにくい顔。でも言葉は、いつも真っ直ぐだった。
選んでほしいのだ。
また、その声が聞こえた。頭の中で、何度も繰り返す。この一週間、ずっとそうだった。
これは、何だろう。リリエラは自分の胸に手を当てた。何か、がある。
暖かいような、苦しいような、落ち着かないような——うまく言えない何かが、ここにある。
名前をつけようとした。これは——
言葉が、出てこなかった。
出てこない、のではなく——出てきた言葉を、自分で止めていた。怖かった。
名前をつけたら、本物になる。本物になったら、どうすればいいかわからない。
こんなことは、初めてだった。
王太子との婚約期間中、こんな感覚は一度も——一度も、なかった。
それに気づいて、リリエラは少し驚いた。
二年間、婚約者だった。それなのに、一度もこんな気持ちにならなかった。
翌日、父の病室に家族が集まった。
王太子が、婚約を復縁したいと面会を求めていた。
病床の父は顔色が悪かったが、目は開いていて、リリエラの顔を見た。
「リリエラ。殿下が、婚約を復縁したいとおっしゃっている」
「……存じております」
「断るのか」
父の声は、責めていなかった。
ただ——疲れていた。
「断ります」
「理由を聞かせてくれ」
「……自分で選びたいからです」
「それは公爵家の話か?」
「まだ、お返事はしていません。でも——殿下ではない、と、それだけははっきりしています」
父は少し目を閉じた。
「殿下は、家への影響を示唆されていた」
「……わかっています」
「ライムブリュレ家の取引先に、王家の息がかかっているものが多い。殿下がその気になれば——」
「父上」
リリエラは静かに言った。
「それは脅しです」
沈黙が落ちた。
「……そうだな。そうだな、リリエラ。お前の言う通りだ」
母が口を開きかけた。父が目で制した。
「お前が決めなさい。私は——お前の決めたことを、支持する」
「ありがとうございます、父上」
頭を下げた。廊下に出てから、リリエラはしばらく壁に背を預けた。足が、少し震えていた。
でも——決めた。
震えていても、決めたことは変わらなかった。
翌朝、リリエラは馬車を呼んだ。
「どちらへ」と御者が聞いた。
「ショコラオランジュ公爵邸へ」
馬車の中で、リリエラは手を見た。
震えていた。でも馬車は止まらない。
公爵邸の門番は、今回は少し早く戻ってきた。
前回の事で、顔を覚えてもらったのかもしれない。
「どうぞ」
応接室に通され待つ。
今日の待ち時間はとても長く感じた。
時計を見たら、三分だった。
体感とずれていた。
扉が開き、公爵が入ってきた。
いつもと同じ顔だった。
感情の読みにくい顔。
切れ長の目。でも——リリエラを見た瞬間、目の奥が、少し動いた気がした。
「来たのか」
「……突然で、申し訳ありません」
公爵は向かいに座った。
「顔色が悪い」
「……昨日、少し」
「王太子が動いたと聞いた。家への圧力を示唆したと」
「……はい」
「怖かっただろう」
「……怖かったです」
「それでも断ったのか」
「……はい」
公爵が静かにリリエラを見た。
「なぜ?」
なぜ、と聞かれた。リリエラは答えを知っていた。
でも——それを、今ここで言えるか。
震えていた。
手が、震えていた。震えながらでも、言える。
あの人へ言った。あの夜会で震えながら言えた。
それをこの人が、大したことだと褒めてくれた。
なら——今も、震えながらでいい。そう思えた。
「……公爵」
「なんだ」
「私は、今とても怖いのです……怖いまま、来てしまいました」
「……」
「王太子殿下への返事を、まだしていません。でも——来ずにはいられなかった」
公爵が静かに聞く。促さない。先を急かさない。ただ——待っていた。
「昨日、王子に脅されても——気持ちが変わりませんでした。気持ちが変わらなかったとき、これは本物だと思いました」
窓から光が入っていた。曇っていたはずなのに、いつの間にか雲が切れていた。
「だから——もう少しだけ、時間をいただけますか。ちゃんと言葉にしてから、お伝えしたいので」
公爵は少しの間、リリエラを見ていた。
それから——今まで見た中で、一番はっきりと、笑った。
口元が動いた。目が細くなった。
いつもの、かすかなものではなく——ちゃんと、笑っていた。
「もちろんだ」
「……待ってくれますか」
「もちろん、待てると言った」
「……はい、おっしゃっていました」
「気持ちは変わらない」
その一言が——真っ直ぐ、届いた。リリエラは息を吸った。震えていた手が、少しだけ、落ち着いた。
「……ありがとうございます」
「礼には及ばない」
「でも言わせてください」
公爵がまた、目を細めた。
「……そうか、確かに受け取った」
それから数週間が経った。
その間、ライムブリュレ家の取引先に動きがあった。
突然の条件変更。
影響は小さくなかったが、致命的でもなかった。
リリエラは取引先を分散させ、代替案を三つ出し、対処した。
これは偶然ではない、とリリエラは思った。
タイミングが、よすぎた。
でも——怒りよりも先に、対処できたという事実があった。
私の価値を、数字が知っている。
そして——もう、他人に決めてもらうつもりはなかった。
ある日の午後、リリエラは再び公爵邸を訪ねた。
「来てくれた」
公爵が応接室に入ってきて、最初に言った言葉だった。
「……はい。お時間をいただいて、ありがとうございました」
「いくらでもと言った」
「はい」
リリエラは一度息を吸った。
震えていた。でも——もう、名前をつけることから逃げたくなかった。
「公爵」
「なんだ」
「私は——あなたのことを」
言葉を探した。正確な言葉を。自分の気持ちに嘘のない言葉を。
「私はあなたを、選びたいと思います」
公爵の目が、大きく動いた。
「……本当に?」
「はい。震えながらですが」
リリエラは続けた。
「でも、震えていても、この気持ちは変わりませんでした。何度考えても、何があっても——変わりませんでした」
公爵は静かに立ち上がった。リリエラの前まで来て、片膝をついた。そしてリリエラの手を取った。
「ありがとう」
低い声だった。震えていた。
この人も、震えていた。
「ありがとう、リリエラ」
初めて、名前で呼ばれた。
リリエラは気づいた。
震えることは、弱いことではなかった。
震えながらでも、大事なことは言える。
震えながらでも、選べる。震えながらでも——立っていられる。
「こちらこそ、ありがとうございます」
リリエラは言った。
「待っていてくださって」
「いくらでも待つと言った」
公爵がゆっくりと顔を上げた。
その目が、初めて見たときと同じように——いや、あのときよりもずっと温かく、リリエラを見ていた。
「選んでくれて、ありがとう」
窓から午後の光が差し込んでいた。
リリエラの手は、もう震えていなかった。
いや——震えていたかもしれない。でも、それでよかった。
震えながら選んだ。震えながら立った。
震えながら——ここまで来た。
それは、弱さではなかった。それは——リリエラ自身の、強さだった。
それから数ヶ月後、ショコラオランジュ公爵とライムブリュレ嬢の婚約が正式に発表された。
婚約の夜会で、レオンハルトがリリエラの手を取ってくれた。
リリエラは気づいた。震えていても、震えていなくても——大事なのは、立っているということ。自分の足で、自分の意志で、そこに立っているということ。
「ありがとうございます。あなたを選んでよかった」
「私もだ。選ばれたかった相手に、選んでもらえた」
その言葉が、リリエラの胸に温かく響いた。
選ばれたのではない。
選んだのだ。震えながら、自分の意志で、選んだのだ。
それが——今のリリエラには、何よりも誇らしかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
連載版はこちらにあります。
本編八話からが続きとなります。
ぜひご覧ください。
https://ncode.syosetu.com/n3990lv/




