第9話 再構築された関係と、プロポーズの予感
翌日。
私の城である第二図書室は、不自然なほど静まり返っていた。
いつもなら、午後二時には扉が開き、疲れた顔のクマさんがやってくるはずの時間だ。
けれど、今日は時計の針が三時を回っても、ノックの音ひとつしない。
「……静かすぎる」
私は読みかけの本を閉じた。
求めていた静寂のはずなのに、なぜか落ち着かない。
昨夜の夜会で、あんなに堂々と私を庇ってくれた彼の姿が脳裏をよぎる。
『彼女は私の大切なゲストだ』
その声の熱が、まだ耳に残っている。
コンコン。
控えめなノック音。
彼かと思って勢いよく立ち上がると、入ってきたのは見知らぬ侍従だった。
「エリアナ様でいらっしゃいますね。……クロード殿下が、倒れられました」
その瞬間、私の心臓がドクリと嫌な音を立てた。
◇
私は急いで荷物をまとめ、図書室を出た。
「定時退社」以外の理由で職場を離れるなんて、就職以来初めてのことだ。
案内されたのは、王宮の奥深くにある王弟殿下の私室。
重厚な扉の前で、侍医が「熱は下がりましたが、疲労が蓄積しておりまして……」と小声で説明してくれた。
「失礼します」
中に入ると、そこは広いだけで殺風景な部屋だった。
装飾品は最低限。
代わりに、ベッドサイドのテーブルまで書類が侵食している。
……この人は、寝る直前まで仕事をしていたのか。
「……エリアナ、か?」
ベッドの中から、掠れた声がした。
クロード様は上体を起こそうとして、力なく枕に沈んだ。
顔は赤く、呼吸が浅い。
昨夜の凛々しい騎士姿とは別人のように弱々しい。
「動かないでください。お見舞いに来ただけですから」
私はベッド脇の椅子に腰を下ろした。
彼はバツが悪そうに視線を逸らした。
「すまない。……昨夜、大見得を切った翌日にこれだ。格好がつかないな」
「人間、無理をすればガタが来ます。特に、嫌な奴(カイル様)の相手をした後は」
私が軽口を叩くと、彼はふっと小さく笑った。
「……君は、強いな」
「いいえ。私はただ、逃げるのが上手いだけです」
「それが強さだよ。……私は、逃げられない」
彼の声が、急に重く沈んだ。
熱のせいで、心の防壁が薄くなっているのかもしれない。
彼は天井を見上げ、ぽつりぽつりと語り始めた。
「兄上は偉大な王だ。私はその影として、完璧な補佐役でなければならない。……少しでも手を抜けば、国が傾く。カイルのような未熟者が王位を継ぐ時、私が支えなければこの国は終わる」
期待。責任。義務。
それらが何重にも鎖となって、この人を縛り付けている。
「私は君のように、自由に生きられない。……時々、息の仕方を忘れそうになるんだ」
彼の吐露は、かつての私の言葉そのものだった。
前世の私。
そして、婚約者として完璧であろうとした、昨日の私。
「……馬鹿ですね」
私は短く言った。
彼は驚いたように私を見た。
「馬鹿、か。……そうかもしれないな」
「完璧な人間なんていません。貴方が倒れたら、誰が困ると思いますか?」
「……国民、兄上、それに……」
「私が困ります」
私は彼の言葉を遮った。
「貴方がいないと、お茶のお菓子が余ってしまいます。それに、図書室が静かすぎて、逆に落ち着きません」
「……それは、困るな」
「でしょう? だから、休む時は休んでください。それは『サボり』ではなく、明日のための『メンテナンス』です。……仕事道具(貴方自身)の手入れを怠る職人は、二流ですよ」
私の持論(という名の言い訳)を展開すると、彼は目を丸くし、それから喉の奥で笑った。
「くく……っ、ははは! 二流か。……宰相の私を捕まえて、そんなことを言うのは君くらいだ」
「事実ですから」
私は立ち上がり、部屋の空気を吸い込んだ。
薬臭くて、淀んでいる。これでは治るものも治らない。
「《洗浄》」
指を鳴らす。
部屋全体に風が巡り、淀んだ空気が浄化される。
窓から差し込む光が、少しだけ明るくなった気がした。
「……空気が、美味しい」
クロード様が深呼吸をした。
「はい。次は栄養補給です」
私はバスケットからリンゴを取り出した。
ミナさんが「風邪にはこれだよ」と持たせてくれたものだ。
ナイフを取り出し、手際よく皮を剥いていく。
シュルシュルと赤い皮が剥がれ、ウサギの形に切り分けられる。
「どうぞ。あーん、はしませんよ。自分で食べてください」
皿を差し出すと、彼は苦笑しながらフォークを取った。
シャク、という音。
「……甘い」
「でしょう。美味しいものを食べて、綺麗な空気を吸って、寝る。それが一番の薬です」
彼がリンゴを食べるのを見届け、私は帰り支度を始めた。
長居は禁物だ。
病人は寝るのが仕事だから。
「では、私はこれで。……明日は図書室で待っていますから」
背を向けようとした、その時だった。
ギュッ。
手首を掴まれた。
熱い手だった。
「待ってくれ」
振り返ると、クロード様が熱っぽい瞳で私を真っ直ぐに見上げていた。
その目には、弱さではなく、縋るような、それでいて強い意志が宿っていた。
「……もう少しだけ、ここにいてくれないか」
「ですが、お身体に障ります」
「……君がそばにいると、私は……」
彼は言葉を探し、そして一番しっくりくる言葉を見つけたように微笑んだ。
「君といると、息ができるんだ」
ドキリと、心臓が跳ねた。
それは、どんな愛の言葉よりも切実で、私の胸に深く刺さった。
息ができる。
かつて窒息しそうだった私が、図書室という場所を見つけて救われたように。
彼にとっての「息ができる場所」は、図書室ではなく――私自身だったのか。
「……仕方ありませんね」
私は溜息をつくふりをして、再び椅子に座り直した。
掴まれた手は、離されなかった。
彼の体温が、掌を通して伝わってくる。
「眠るまでですよ」
「ああ。……ありがとう、エリアナ」
彼は安心したように目を閉じた。
握る手の力は弱まったが、指と指を絡めるようにして、離さない。
寝息が聞こえてくるまで、そう時間はかからなかった。
私はその寝顔を見つめながら、自分の顔が熱くなっているのを自覚した。
(……これじゃあ、どっちが看病されているのか分からないじゃない)
もう、「仕事仲間」とは呼べない。
「クマさん」とも呼べない。
この感情に名前をつけることを、私は恐れ、そして同時に期待していた。
彼の手の温もりが、私に教えてくれている。
「頑張らなくていい」という私の生き方を、誰よりも必要としてくれる人が、ここにいるのだと。
窓の外では、夕暮れの鐘が鳴っていた。
それは、私たちの関係が新しい段階へと進む、始まりの合図のように聞こえた。
そして、回復した彼が次に図書室へやってくる時。
その手には書類ではなく、人生を変える「契約書」が握られていることを、私はまだ知らない。




