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婚約破棄された翌日、私は王宮の墓場に就職して定時退社を選んだ  作者: 九葉(くずは)
第1章

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第8話 壁の花の幸福論

王宮の大広間は、シャンデリアの光と、着飾った貴族たちの熱気で満ちていた。

香水の匂い。

グラスが触れ合う音。

オーケストラの優雅な調べ。


かつての私なら、この場に足を踏み入れただけで胃が痛くなっていただろう。

「誰に挨拶すべきか」「今の派閥図はどうなっているか」。

そんな情報処理で頭がパンクしそうになっていたからだ。


けれど、今は違う。


「……クロード様。あちらに見える山が、例のモノでしょうか」


「ああ。約束通り、シェフが切り分けて待っている」


私の視線の先には、パートナー専用ラウンジのビュッフェ台。

そこに鎮座する、艶やかな肉の塊。


「行きますか」


「はい、直ちに」


私はクロード様のエスコートを受け、優雅に(しかし心持ち早足で)会場を横切った。


周囲からの視線が突き刺さる。

ひそひそ話す声が聞こえる。


『あれは、ベルンシュタイン侯爵家の……』

『婚約破棄されたはずでは?』

『なぜクロード殿下の隣に?』

『それにしても、あのドレス……見たことのない光沢だわ』


好奇心、侮蔑、困惑。

様々な感情が混ざった視線だ。

だが、今の私にはそれらが「背景モブ」にしか見えない。

今の私にとっての主役は、ローストビーフただ一つなのだから。


          ◇


案内されたのは、会場の隅にある一段高いバルコニー席だった。

ふかふかのソファ。

目の前には、私とクロード様のためだけに用意された料理の数々。


「どうぞ。君の特等席だ」


クロード様が椅子を引いてくれる。

私は礼を言って座り、さっそくシェフに目配せをした。

シェフが恭しく皿を差し出す。


そこには、分厚くスライスされたローストビーフが三枚。

トリュフの香りが漂うソースがたっぷりとかかっている。


「……頂きます」


ナイフを入れる。

抵抗なく切れる柔らかさ。

口に運ぶ。


「んっ……!」


噛んだ瞬間、肉汁が溢れ出した。

赤身の旨味と、脂の甘み。

濃厚なソースが絡み合い、口の中が天国になる。


「どうだ?」


隣でワインを傾けているクロード様が、楽しげに聞いてくる。

私は口元をナプキンで押さえ、親指を立てた。

言葉はいらない。


「それは良かった。……足を休めていてくれ。私は少し、挨拶回りをしてくる」


「行ってらっしゃいませ(ごゆっくり)」


クロード様は席を立った。

王弟として、主催者側の挨拶は避けられない義務だ。

私は一人残されたが、寂しくなどない。

むしろ、誰の目も気にせず肉と向き合えるボーナスタイムだ。


私は二枚目の肉にナイフを入れた。

幸せだ。

ドレスも苦しくないし、靴擦れもない。

ただ美味しいものを食べて、座っているだけでいい夜会なんて、前世を含めて初めてかもしれない。


そう、平和を噛み締めていた時だった。


「……こんなところにいたのか」


頭上から、不愉快な声が降ってきた。

聞き覚えがありすぎる声だ。


顔を上げると、そこにはカイル王太子殿下が立っていた。

後ろには、おどおどした様子のマリエル様と、数人の取り巻きを引き連れている。


「こんばんは、カイル殿下」


私はナイフを置いた。

ああ、肉が冷めてしまう。


「貴様、招待状もなしに紛れ込むとは、どこまで厚顔無恥なのだ。ここは王族のための席だぞ」


カイル様は見下すような目で私を見た。


「警備兵に摘み出される前に、自分から出て行ったらどうだ? ……ああ、それとも残飯を漁りに来たのか?」


取り巻きたちが下品に笑う。

典型的な悪役ムーブだ。

教科書通りの台詞すぎて、逆に感心してしまう。


私は慌てず、口元のソースを拭った。


「ご心配には及びません。正式なパートナーとして招かれておりますので」


「パートナーだと? 誰の?」


「クロード殿下です」


私が答えると、カイル様は一瞬ぽかんとし、次の瞬間に噴き出した。


「叔父上の!? はっ、まさか! あの仕事人間が、貴様のような無能な女を相手にするものか! 嘘をつくならもっとマシな嘘を――」


「嘘ではない」


凛とした声が、喧騒を切り裂いた。


カイル様の笑いが凍りつく。

人垣が割れ、クロード様が戻ってきた。

その表情は、先ほど私に見せていた穏やかなものではなく、氷のように冷徹な「宰相の顔」だった。


「お、叔父上……?」


「彼女は私の大切なゲストだ。何か文句があるのか、カイル」


クロード様は私の隣に立ち、守るように片手をソファの背に置いた。

その威圧感に、カイル様が一歩後ずさる。


「い、いえ……ですが、なぜこいつを? こいつは以前、私の補佐すら満足にできなかった無能ですよ? 王家の夜会に相応しいとは……」


「無能?」


クロード様は片眉を上げた。

そして、わざとらしく大きな声で言った。


「お前は知らないのか? 今、王宮の知恵袋として学者たちが日参している『第二図書室の賢者』の正体が、彼女であることを」


ざわっ、と周囲が揺れた。


『えっ、あの噂の……?』

『失われた条約を見つけ出したという?』

『まさか、彼女が?』


カイル様が目を白黒させる。


「は? け、賢者……? 何を言って……」


「彼女の構築した知識管理システムのおかげで、我が国の行政処理速度は三倍になった。先日の条約紛失騒ぎを解決したのも彼女だ。……彼女がいなければ、今頃この国は帝国と戦争になっていただろうな」


クロード様は淡々と、しかし決定的な事実を並べ立てた。


「彼女は無能どころか、この国にとって欠かせない『知の管理者』だ。それを『無能』と呼ぶのなら……彼女の功績に気づけず、手放したお前の目は節穴だと言っているようなものだが?」


「なっ……ぐ、う……」


カイル様の顔が、赤から青、そして白へと変わっていく。

周囲の視線が、「哀れな女を見る目」から、「無能な王太子を見る目」へと反転していくのが分かった。


「そ、そんな馬鹿な……。こいつはただ、無表情で、可愛げがなくて……」


カイル様は震える指で私を指差した。

まだ現実を受け入れられないらしい。


私は小さくため息をつき、フォークを手に取った。

肉が完全に冷めてしまった。

それが悲しい。


「……殿下。冷めたお肉は美味しくありません」


私はカイル様ではなく、クロード様に話しかけた。

空気の読めない発言に、周囲が静まり返る。


しかし、クロード様だけは、ふっと表情を緩めた。


「……そうだな。すまない、シェフに新しいものを用意させよう」


彼はカイル様に向き直り、冷ややかに告げた。


「聞いた通りだ。彼女は食事中だ。……去れ」


「っ……!」


カイル様は屈辱に顔を歪め、踵を返した。

マリエル様が慌てて後を追う際、私に向かって小さく手を合わせて「ごめんなさい」というジェスチャーをしたのが見えた。

彼女も苦労しているらしい。


嵐が去った。

静寂が戻る。


「……やってしまいましたね」


私は新しいローストビーフ(温かい!)を受け取りながら言った。


「あんなに持ち上げて。明日から、また学者たちが押しかけてきますよ」


「構わないさ。その時は私が追い払う」


クロード様は隣に座り、自分のグラスを掲げた。


「それに、事実だ。……君はすごい」


彼は真っ直ぐに私を見た。

その瞳には、社交辞令ではない、確かな熱が宿っていた。


「君が隣にいてくれると、私は背筋が伸びる。そして同時に……とても安らぐんだ」


「……お世辞がお上手で」


私は照れ隠しに肉を頬張った。

けれど、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


ざまぁ?

復讐?

そんなことはどうでもいい。


カイル様がどう思おうと、周囲がどう評価しようと。

今、ここで美味しいものを食べて、隣に心地よい人がいて、足が痛くない。

それが「事実」だ。


「……美味しいですね」


「ああ、美味しいな」


私たちは顔を見合わせ、小さく笑い合った。

会場の喧騒は、もう遠い世界の出来事のようだった。


私は気づいた。

「幸せ」とは、誰かに勝つことじゃない。

自分の好きな場所で、好きなように息ができることなのだと。


壁の花?

上等だ。

こんなに美味しい花なら、私は一生ここで咲いていたい。


そう思っていた私の元に、翌日、さらなる衝撃のニュースが飛び込んでくることになる。

「クロード殿下が過労で倒れた」という、笑えない知らせが。


私の「安らぎ」を提供してくれていた彼が、限界を迎えていたなんて。

ローストビーフに浮かれている場合ではなかったのだ。

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― 新着の感想 ―
実家のベルンシュタイン侯爵も当然このパーティに出てたと思いますが、修道院に入れるはずの娘を見つけてどうなるか(家出してるし)騒ぎになるんじゃ、と、ハラハラしましたが…。カスリもせず、いいんかなあ?と思…
感想一覧
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