第6話 王宮大パニックと、定時退社の危機
カン、カン、カン、カン……!!
耳をつんざくような鐘の音が、王宮全体を揺らしていた。
非常招集の鐘だ。
私はソファから身を起こし、不機嫌に眉を寄せた。
せっかくの昼寝が台無しである。
「……五回。レベル5の非常事態ね」
元王太子妃候補としての知識が、勝手に脳内で検索をかける。
レベル5。
その意味は、「他国からの宣戦布告」、あるいは「王族の誘拐・崩御」。
窓の外を見ると、衛兵たちが慌ただしく走り回っているのが見えた。
遠くで怒号も聞こえる。
「……帰りたい」
まだ定時まで四時間もあるけれど、早退するべきだろうか。
いや、この騒ぎでは門が封鎖されている可能性が高い。
下手に動いて「不審者」として捕まるのも面倒だ。
私はため息をつき、冷めたお茶を飲み干した。
とりあえず、この図書室にバリケードでも築いて籠城しようか。
そう考えた矢先だった。
バンッ!!
本日二度目の、扉への暴力。
いい加減にしてほしい。蝶番が壊れたら修理費を請求するわよ。
「エリアナ……! いるか!?」
飛び込んできたのは、いつものクマさん――クロード様だった。
しかし、様子がおかしい。
いつも顔色は悪いが、今はそれが「青白」を通り越して「土気色」になっている。
着崩していた服も乱れ、額には脂汗が滲んでいた。
「いますけど。……ゾンビ映画の撮影ですか?」
「冗談を言っている場合じゃない……! 助けてくれ、エリアナ!」
彼は私の肩を掴んだ。
その手が、小刻みに震えている。
「『東方帝国』との平和条約の原本が、消えたんだ」
「……はあ」
「調印式は今夜だ。それまでに原本がなければ、条約は破棄とみなされる。……戦争だ」
戦争。
その単語が出た瞬間、私の脳内計算機が高速で弾き出した答えは、こうだ。
戦争=物資の流通停止=小麦と茶葉の高騰。
戦争=国家総動員=私のような元貴族も徴用される。
戦争=残業、徹夜、休日出勤の嵐。
(……絶対に、嫌だ)
私の優雅なスローライフが。
ミナさんの美味しいパンが。
二度寝の幸福が。
すべて奪われる。
私の瞳に、静かな怒りの炎が灯った。
「……状況を整理します。原本は、最後にどこで確認されましたか?」
私は事務的な口調に切り替えた。
クロード様は少し驚いたようだが、すぐにすがるように答えた。
「三日前だ。財務大臣の執務室へ、予算案の承認印をもらうために持ち出された。その後、保管庫に戻された記録がない」
「財務大臣……ガンダルフ侯爵ですね」
私は眉をひそめた。
あの古狸か。
王太子の婚約者だった私が王太子妃教育を受けていた頃、もっとも手を焼いた相手だ。
『書類は読まない』『印鑑は適当な場所に押す』『執務室で常に何か食べている』という、事務方の天敵。
「保管庫を探したのですが、どこにも……! 大臣に聞いても『知らん、秘書がやった』の一点張りで……!」
クロード様が髪をかきむしる。
王宮中がパニックになるのも無理はない。
あと数時間で見つからなければ、数万人の死者が出るかもしれないのだから。
しかし。
私は冷静だった。
「クロード様。私がここに来て最初にした仕事は、何だと思いますか?」
「え? ……掃除、だろう?」
「いいえ。『持ち出しリストの作成』です」
私は机の引き出しを開け、一冊のノートを取り出した。
前世の図書館にあった貸出カードを模した、簡易的なログブックだ。
この図書室は「ゴミ捨て場」扱いされていたが、実は王宮内の「行き場のない書類」が一時的に放り込まれる場所でもあった。
私が着任した日、床に散乱していた書類の山の中に、見慣れない装丁の革袋があったのを覚えている。
「三日前の午後、使いの者がここへ来ました。『財務大臣からだ。邪魔な書類を預かっておけ』と」
「まさか……ここに!?」
クロード様の顔に希望が差す。
私はノートをめくった。
「いいえ。ここにはありません」
「なっ……」
「私が『重要書類ですので、所定の手続きなしにはお預かりできません』と突っ返しましたから」
「つ、突っ返した!? 国の存亡に関わる書類を!?」
「知りませんよ。中身は見せてもらえませんでしたし、ゴミ扱いされていましたから」
私は淡々と言った。
ルールはルールだ。
手続き不備の書類を受け取れば、紛失した時にこちらの責任にされる。
事務屋の鉄則である。
「ですが、使いの者が何と言って持ち帰ったかは覚えています」
私は記憶を巻き戻す。
不機嫌そうな下級官吏。
彼が去り際に吐き捨てた言葉。
『ちっ、融通の利かない……。仕方ない、大臣の昼食のトレイに乗せておくか』
「……昼食のトレイ?」
クロード様が鸚鵡返しにする。
「はい。ガンダルフ侯爵は、熱い鍋やカップを直に机に置くのを嫌がります。手近にある『厚手で立派な紙』を、鍋敷きやコースター代わりにする悪癖があるのです」
私の言葉に、クロード様が絶句した。
「ま、まさか……。国同士の条約を、鍋敷きに……?」
「あの人ならやります。かつて、私の提出した『王都下水道整備計画書(全百ページ)』が、彼のティーポットの下敷きになって濡れていたことがありますから」
根拠は、私の怨念にも似た実体験だ。
「今すぐ財務大臣の執務室へ行ってください。机の上ではなく、サイドテーブルか、給湯室の棚です。おそらく、汚れた食器と一緒に積み上げられています」
「……給湯室……」
クロード様はよろめいた。
信じたくない、という顔だ。
しかし、他に手がかりはない。
「行ってください。……定時まで、あと三時間しかありませんよ」
「っ、ああ! 恩に着る!」
彼は弾かれたように駆け出した。
風のように去っていく背中を見送りながら、私は静かに紅茶を啜った。
「……見つかるといいですね」
私のために。
私の、平和な夕食のために。
◇
結果から言えば、条約は見つかったらしい。
一時間後、再び鐘が鳴った。
今度は三回。
「警戒解除」の合図だ。
私はほっと息を吐き、片付けを始めた。
本棚の整理は終わった。
今日のノルマは達成だ。
チーン。
一七時を告げる鐘。
「よし」
私はローブを羽織り、図書室の鍵を閉めた。
外に出ると、夕焼けが空を赤く染めていた。
走り回っていた衛兵たちも、今は安堵の表情で持ち場に戻っている。
王宮の廊下を歩いていると、すれ違うメイドたちがひそひそと話しているのが聞こえた。
「聞いた? 財務大臣の部屋の給湯室から、条約が見つかったって」
「なんでも、スープの染みがついてたらしいわよ」
「信じられない……。でも、よく見つかったわよね」
「『北の塔の魔女』が予言したらしいわよ」
「えっ、あそこ幽霊が出るんじゃなかったの?」
……誰が魔女だ。
あとで噂の出処を締め上げなくてはならない。
いや、面倒だから放置しよう。どうせ私は定時で帰る管理人だ。
裏門を出て、下町へと歩く。
石畳の坂道を下りると、香ばしい匂いが漂ってきた。
「ただいま戻りました」
パン屋の扉を開ける。
ミナさんが厨房から顔を出した。
「おや、お帰り。王宮の方が騒がしかったけど、大丈夫だったかい?」
「ええ。ちょっとしたボヤ騒ぎみたいなものです。……今日の夕飯は?」
「ホワイトシチューだよ。あんたが好きな、ジャガイモごろごろのやつさ」
「最高です」
私は破顔した。
戦争は回避された。
シチューは温かい。
これ以上の幸せがあるだろうか。
部屋に戻り、着替えてから一階の食堂へ降りる。
湯気の立つシチューを一口食べる。
ミルクの甘みと、ホクホクのジャガイモ。
疲れた体に染み渡る。
「……んー、おいしい」
私はスプーンをくわえたまま、ぼんやりと考えた。
あの後、クロード様はどうしただろうか。
きっと、スープの染みを消すために奔走したか、あるいは帝国側に頭を下げて回ったか。
どちらにせよ、彼には長い夜が待っているに違いない。
(……明日、少し精のつくお菓子でも差し入れしましょうか)
彼のおかげで、私は今日もこうしてシチューを食べられているのだから。
そのくらいの義理はある。
私はパンをシチューに浸しながら、窓の外の月を見上げた。
平和って、やっぱり素晴らしい。
しかし。
私はまだ知らなかった。
この一件で、クロード様が私を見る目が、「便利な同僚」から「崇拝すべき女神」、あるいは「絶対に逃してはならない伴侶」へと、完全に切り替わってしまったことに。
そして彼が、私を正式に「夜会」へ連れ出すための口実を、徹夜で考え始めることにも。




