第36話 芸術と機能性の戦争 〜トイレ編〜
人間の尊厳とは、どこに宿るのか。
それは心であり、魂であり、そして「トイレの壁」である。
重くなったルンを抱えて図書室にたどり着いた私は、人生最大級の危機に直面していた。
場所は、図書室の奥にある職員用トイレの前。
「……本気ですか?」
私は震える声で尋ねた。
目の前には、例の派手な建築家、レオナルドがいる。
彼は勝ち誇った顔で、大きな設計図を壁に押し当てていた。
「本気さ! これこそが、僕が辿り着いた究極の『解放』だ!」
彼が示した図面。
そこには、トイレの個室が描かれていた。
だが、壁がない。
正確には、壁も扉もすべて「透明なガラス」で描かれている。
「名付けて、『クリスタル・サンクチュアリ』! 遮るもののない空間で用を足すことで、人は大自然と一体化できるんだ!」
「却下します」
私は即答した。
食い気味に、ゼロ秒で却下した。
「なぜだい!? この透明感、この採光! 美しいじゃないか!」
「レオナルド様。貴方はトイレという場所を何だと思っているのですか?」
私はこめかみを揉んだ。
頭痛がする。
この男の辞書には「プライバシー」という言葉が載っていないらしい。
「トイレとは、人が最も無防備になり、孤独を愛する聖域です。それをガラス張りにする? 外から丸見えではありませんか」
「見られることを恐れるな! 排泄は自然の摂理だ! 隠そうとする心こそが、魂を濁らせるんだよ!」
「濁ってもいいので壁をください」
私は譲らなかった。
冗談ではない。
図書室には、たまにクロード様やシルビアさん、あるいは学者が来る。
もしガラス張りのトイレに入っている時に彼らが来たら?
社会的死である。
私は王弟妃としての尊厳を水に流すことになる。
「それに、落ち着きません。誰かに見られているかもしれないという緊張感の中で、スムーズな排泄ができると思いますか? 便秘になりますよ」
「フッ、凡人には分からないか……。緊張感こそが美を生むと言ったはずだ!」
レオナルドは聞く耳を持たない。
彼はパチンと指を鳴らした。
後ろに控えていた職人(彼が連れてきたらしい)が、巨大なガラス板を運び込んでくる。
「さあ、工事を始めよう! まずはこの古臭い木の扉と壁を撤去だ!」
「やめなさい! 私のトイレに触れるな!」
私はルンを抱えたまま立ちはだかった。
これは聖戦だ。
私の安らぎの時間を守るための、絶対に負けられない戦いだ。
だが、相手は強引だ。
職人たちがハンマーを構える。
物理的に突破するつもりか。
魔法で吹き飛ばすか?
いや、室内で攻撃魔法を使えば、トイレごと破壊してしまうリスクがある。
万事休すか。
そう思った時だった。
「キュウ!」
私の腕の中から、元気な鳴き声がした。
ルンだ。
朝ご飯を食べたばかりだというのに、鼻をヒクヒクさせている。
「……ルン?」
ルンのつぶらな瞳が、一点を見つめていた。
レオナルドが床に広げた、巨大な設計図だ。
その上には、彼が熱弁を振るった際に消しゴムを使ったのだろう、大量の「消しカス」が散らばっている。
さらに、設計図自体も、最高級の羊皮紙と、独特の芳香を放つインクで描かれている。
ルンにとっては、最高のフルコースに見えたに違いない。
「キュウ〜」
ルンが私の腕から飛び出した。
子猫サイズになった体は重いが、動きは俊敏だ。
短い手足を回転させ、弾丸のように設計図へ突進する。
「おや? なんだそのトカゲは。……シッシッ! 僕の傑作に近づくな!」
レオナルドが手を振って追い払おうとする。
だが、ルンの食欲は止まらない。
シュッ。
長い舌が伸びた。
狙いは、設計図の上の消しカス。
だが、勢い余って――。
バリッ!
粘着質のある舌が設計図の紙面に張り付き、そのまま巻き取った。
「えっ」
レオナルドが固まる。
私も固まる。
ムグッ。
パクッ。
ルンは、設計図の端っこを噛みちぎり、美味しそうに咀嚼し始めた。
羊皮紙のパリパリとした食感と、インクの芳醇な香り。
ルンの目が「美味!」と輝いている。
「あ……ああ……」
レオナルドの手から、図面が滑り落ちる。
いや、滑り落ちる前に、ルンが次の一口に食らいついた。
バリバリバリッ!
「や、やめろぉぉぉ!!」
レオナルドが絶叫した。
「僕の『クリスタル・サンクチュアリ』が! 徹夜で描いた一点物が!!」
彼は慌てて設計図を取り返そうとするが、ルンは逃げ足が速い。
図面を口にくわえたまま、本棚の下へ潜り込む。
そして、安全地帯で続きを楽しみ始めた。
ムシャムシャ。
ゴックン。
「キュウ!」
数秒後。
そこには、何も残っていなかった。
トイレの図面は、ルンの胃袋へと消え去ったのだ。
「う、嘘だ……。僕のビジョンが……」
レオナルドがその場に崩れ落ちた。
顔色が真っ白だ。
どうやら、本当にコピーを取っていなかったらしい。
芸術家というのは、データのバックアップに無頓着な生き物なのだ。
私は、口の周りにインクをつけて戻ってきたルンを抱き上げた。
「……あらあら。ルンったら」
私はハンカチでルンの口を拭いてあげた。
「ごめんなさいね、レオナルド様。うちの掃除係が、不衛生なゴミを処分してしまったようです」
「ゴ、ゴミだと!? あれは芸術だ!」
「ルンにとっては同じです。……彼には分かるのですよ。それが『不要なもの』であることが」
私は冷ややかに見下ろした。
「動物の勘は鋭いものです。貴方の設計図は、生物としての本能が『NO』を突きつけるような代物だった。……そう判断されただけのことです」
「くっ……! トカゲごときに、僕の美学が否定されたと言うのか……!」
レオナルドは悔しげに拳を叩きつけた。
だが、図面がなければ工事はできない。
職人たちも「どうします?」と困惑している。
「……撤収だ!!」
レオナルドは叫んだ。
「覚えていろ! 次は紙じゃない素材……石板に彫って持ってくる! 食えるものなら食ってみろ!」
彼は捨て台詞を残し、マントを翻して去っていった。
職人たちも慌ててガラス板を持って帰っていく。
静寂が戻った。
トイレの壁は、無事だ。
「……ふぅ」
私は安堵の息を吐いた。
危ないところだった。
もう少しで、私は落ち着かないトイレタイムを強いられるところだった。
「よくやりましたね、ルン。お手柄です」
「キュウ!」
ルンは誇らしげに胸を張った。
お腹がパンパンに膨れている。
羊皮紙一枚分のカロリーは相当なものだろう。
今夜の夕食は抜きでもいいかもしれない。
私はルンの頭を撫でながら、改めて思った。
この子は、ただの掃除機ではない。
私の平穏を守る、頼もしい騎士だ。
クロード様の嫉妬を買うだけの価値はある。
しかし。
レオナルドとの戦いは、まだ終わらない。
奴は諦めが悪い。
次は石板?
上等だ。ルンが食べられなくても、私が魔法で粉砕してやる。
そう決意を新たにした私のもとに、翌日、さらなる悲報が届く。
今度の被害者は、私ではない。
この国の頂点に立つ男――ルイ国王陛下だった。
「エリアナ……! 助けてくれ……!」
図書室に担ぎ込まれてきた国王は、腰を押さえて呻いていた。
その原因が、またしてもあの建築家の「作品」にあると知った時、私の怒りのボルテージは限界突破することになる。




