第35話 クロードの嫉妬・リターンズ
朝の寝室に流れる空気は、通常であれば甘く緩やかなものだ。
しかし今、ここには「法廷」のような緊張感が漂っていた。
「……エリアナ」
「はい」
「説明を、頼めるか」
ベッドの上で上半身を起こしたクロード様が、冷徹な宰相の顔で私を見ている。
その視線の先には、クローゼットの前で私のドレスの裾を食い散らかし、満足げに「ゲフッ」とげっぷをした謎の生物――ルンがいた。
「キュウ?」
ルンは首を傾げ、つぶらな瞳でクロード様を見上げている。
子猫サイズになった灰色の体。
背中の小さな翼。
そして、口の端から垂れ下がる高級レースの残骸。
現行犯逮捕である。
「……可愛いですね」
私は精一杯の笑顔で誤魔化そうとした。
「誤魔化すな。……なんだその生き物は。昨夜、君の足元でゴソゴソしていたのは、これか?」
「……はい」
「香水だと言っていた『土の匂い』も、これか?」
「……はい」
「なぜ隠した?」
クロード様の目が細められる。
怒っている。
いや、これは怒りというより、「拗ねている」時の顔だ。
信頼していた妻に秘密を作られたショックと、得体の知れない侵入者への警戒心。
「隠すつもりはありませんでした。ただ、紹介するタイミングを見計らっていただけで……」
「ドレスを食わせて育ててからか?」
「成長期みたいでして」
私は冷や汗を流しながら、ルンを抱き上げた。
ずしりと重い。
昨日まではポケットに入ったのに、今は両手で抱えなければならない。
「クロード様。紹介します。この子は『ルン』です」
「ルン?」
「はい。昨日、図書室で保護しました。……レオナルド様が置き忘れた卵から孵ったのです」
「あの建築家の? ……ろくなものじゃないな」
クロード様は露骨に嫌そうな顔をした。
「捨ててきなさい。得体が知れないし、何より君のドレスを食べるような害獣だ」
「待ってください! 害獣ではありません!」
私は必死にプレゼンを開始した。
これはルンの命運と、私の家事負担軽減がかかった重要な交渉だ。
「この子は『益獣』です。ドレスを食べたのは事故ですが、本来の主食は『埃』や『ゴミ』なのです」
「ゴミ?」
「はい。見ていてください」
私はベッドの下を指差した。
そこには、掃除が行き届きにくい四隅に、わずかな綿埃が溜まっているはずだ。
「ルン、ご飯ですよ」
私が床に下ろすと、ルンは鼻をヒクヒクさせた。
そして、ベッドの下へ猛ダッシュした。
シュッ!
パクッ!
一瞬で戻ってきたルンの口からは、埃が消えていた。
さらに、床に落ちていた私の髪の毛一本までも、器用に舌で絡め取って飲み込んだ。
「キュウ!(きれいになった!)」
ルンが得意げに尻尾を振る。
「……ご覧の通りです」
私は胸を張った。
「この子は、自律走行型の掃除機なのです。電源いらず、排気ガスなし、騒音も『キュウ』だけ。……どうですか? 我が家の衛生管理に役立つと思いませんか?」
クロード様は呆気にとられていたが、やがて疑わしげな目をルンに向けた。
「……確かに便利そうだが。安全なのか? 私を噛んだりしないか?」
「大丈夫です。私には懐いていますし、貴方は私の夫ですから……」
その時だった。
ルンが、クロード様に近づいた。
トテトテとベッドに前足をかけ、クロード様の胸元をじっと見つめる。
「……なんだ? 和解を求めているのか?」
クロード様が少し気を許して、手を伸ばそうとした瞬間。
カッ!
ルンの口が大きく開いた。
狙いは、クロード様の指――ではなく、パジャマのボタンだった。
最高級の白蝶貝で作られた、艶やかなボタン。
それがルンには「美味しそうなカルシウムの塊」に見えたらしい。
「わっ!?」
クロード様が慌てて身を引く。
ボタンが一つ、食いちぎられた。
ガリッ、ボリボリ。
ルンは硬い貝殻をスナック菓子のように噛み砕いた。
「き、貴様……!」
クロード様が青ざめてパジャマを押さえる。
はだけた胸元があらわになる。
「エリアナ! こいつ、私を襲ったぞ! やはり危険だ!」
「襲ったのではありません。ボタンが美味しそうだっただけです!」
「私のパジャマだぞ!? 君が去年の誕生日にくれた大切な……!」
「また買いますから! ……こら、ルン! 食べ物は床にあるものだけです!」
私はルンを捕獲し、叱りつけた。
ルンは「チェッ」という顔をして、私の腕の中で丸くなった。
クロード様は乱れたパジャマを直し、深いため息をついた。
そして、じっと私とルンを見た。
「……はぁ」
「クロード様……?」
「君は、そのトカゲが気に入ったんだな」
彼の声のトーンが落ちた。
怒気は消え、代わりにどこか寂しげな響きが含まれている。
「……はい。可愛いですし、役に立ちますから」
「私よりも?」
「へ?」
「昨夜、君はずっと上の空だった。……こいつのことを考えていたんだろう?」
彼はベッドから降り、私に近づいた。
大きな手が、私の頬を包む。
「私は、君との時間を何よりも大切にしている。……なのに、君が私以外のものに夢中になっていると、正直……面白くない」
嫉妬だ。
トカゲ相手に、この国の宰相が本気で嫉妬している。
なんて大人げない。
そして、なんて愛おしいのだろう。
私はルンを床に置き、クロード様の腰に腕を回した。
「……馬鹿ですね、クロード様」
「ああ、馬鹿だ。君に関しては、分別がなくなる」
「ルンはペットです。貴方は私の夫です。比較対象にもなりませんよ」
私は背伸びをして、彼の拗ねた唇にキスをした。
チュッ、と軽い音。
「……それだけか?」
「足りませんか?」
「ボタンを一つ食われたんだ。その分の『修繕費』と、昨夜の『放置料』を請求する」
彼は私の腰を引き寄せ、耳元で囁いた。
「……ルンとやらには、少し席を外してもらおうか」
「えっ、でも、どこへ……」
「バスルームにでも入れておけ。……今は、私だけを見てくれ」
彼の瞳が、熱っぽく揺れている。
朝からこの色気は反則だ。
これでは、定時出社が危うい。
でも。
秘密を作って心配させたのは私だ。
ここは、妻として責任を取るべきだろう。
「……分かりました。少しだけですよ?」
私はルンを抱き上げ、バスルームへと隔離した。
「キュウ〜(なんで〜)」という抗議の声が聞こえるが、心を鬼にして扉を閉める。
戻ると、クロード様が満足げに笑っていた。
ライバルを排除した勝者の顔だ。
「……さて、機嫌を直してもらおうか」
彼は私をベッドに押し倒した。
朝の光の中で、彼の顔が近づいてくる。
「……クロード、遅刻しますよ」
「構わん。……今日は少し、重役出勤にさせてもらう」
結局。
その日の私たちは、予定より一時間遅れて部屋を出ることになった。
クロード様の機嫌は完全に直り、肌艶も良くなっていたが、私の唇は少し腫れていたかもしれない。
そして、バスルームから解放されたルンは、さらに一回り大きくなっていた。
どうやら、バスルームの湿気(水垢?)まで食べたらしい。
「……エリアナ。こいつ、またデカくなってないか?」
「気のせいですよ。……さあ、行きましょう」
私は笑顔で誤魔化し、ルンを抱えて図書室へと向かった。
とりあえず、飼育許可は勝ち取った。
多少の嫉妬と、ボタン一つの犠牲で済んだなら安いものだ。
図書室に着いた私を待っていたのは、トイレの壁を破壊しようとするレオナルドの姿だった。




