第31話 ハネムーンは最高の「引きこもり」
「……ねえ、クロード」
「ん?」
「今、何時ですか?」
「さあ。時計は外してしまったから、分からないな」
「……最高ですね」
私は木陰に吊るした布の上で、幸せな溜息をついた。
ここは南の海に浮かぶ、小さな孤島。
王家が所有する別荘地であり、私たちのハネムーンの舞台だ。
白い砂浜。
エメラルドグリーンの海。
そして、誰もいない静寂。
ここには、分厚い進行表も、重たいドレスも、口うるさい儀典長もいない。
あるのは、波の音と、私たち二人だけ。
◇
出発の前日、ヴァレリウス大公に呼び止められたことを思い出す。
『……エリアナよ』
式が終わった直後、控室でのことだ。
大公は、私が即席で作ったクリスタルの指輪が入った箱を、愛おしそうに撫でていた。
『儂は、古い人間だ。伝統こそが正義だと信じて生きてきた。……だが』
彼は片眼鏡を外し、素顔の疲れた瞳で私を見た。
『お前の言う通り、形だけの伝統はいつか朽ちるのかもしれん。……この指輪の輝きを見て、そう思った』
『叔父様……』
『これからの王家を支えるのは、重苦しい黄金ではなく、お前のような……規格外の光なのかもしれんな』
彼はフンと鼻を鳴らし、背を向けた。
『行け。……そして、たまには顔を見せに来い。……シルビアも寂しがる』
それが、あの頑固なラスボスからの、精一杯の祝辞だった。
私は深く頭を下げた。
勝利宣言などしない。
ただ、分かり合えたという事実だけで十分だった。
◇
「……エリアナ。焼けたぞ」
香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
目を開けると、Tシャツに短パンというラフな姿のクロード様が、皿を持って立っていた。
「わあ、美味しそう」
皿に乗っているのは、近くの岩場で釣れた白身魚のソテーだ。
味付けは塩とハーブのみ。
付け合わせは、帝国製のレトルト野菜。
王宮のフルコースに比べれば質素極まりないが、今の私にはどんなご馳走よりも輝いて見える。
「料理なんて初めてしたから、焦げてしまったが」
「いいえ。この焦げ目がいいんです」
私は吊り寝台から降り、木陰のテーブルについた。
一口食べる。
ふっくらとした身と、炭火の香り。
「……んー! 美味しい!」
「よかった」
クロード様が、少年のように安堵の笑みを浮かべた。
「君には、もうこれ以上働かせたくないからな。……ここでは私が、君の専属執事だ」
「あら。では、肩も揉んでいただけますか?」
「喜んで」
彼は私の背後に回り、大きな手で肩を揉み始めた。
力加減が絶妙だ。
やはりこの人は、宰相よりもマッサージ師に向いているかもしれない。
「……あ、そこです。効きます……」
「凝っているな。……本当に、無理をさせてすまなかった」
「いいえ。楽しかったですよ、振り返ってみれば」
私は海を見つめた。
婚約破棄されたあの日。
私はただ、静かに暮らしたくて図書室に逃げ込んだ。
成り上がるつもりなんてなかった。
誰かを見返すつもりもなかった。
でも、気づけば。
国を救い、他国の皇女を手懐け、古い伝統を塗り替えていた。
「……『努力しないで幸せになりたい』」
「何か言ったか?」
「私の座右の銘です」
私はクロード様の手の上に、自分の手を重ねた。
「私、頑張るのが嫌いなんです。でも、貴方と一緒にサボるためなら……少しだけ頑張るのも、悪くないかなって」
「……ふっ」
クロード様が吹き出した。
そして、私を後ろから抱きしめた。
「君らしいな。……愛しているよ、私の最高の怠け者」
「私もです、働き者の旦那様」
波が寄せては返す。
ザザァ……ザザァ……。
心地よいリズム。
「……ねえ、クロード」
「ん?」
「お腹がいっぱいになったら、眠くなってきました」
「奇遇だな。私もだ」
「あの布、二人でも乗れますかね?」
私は木陰に吊るされた布を指差した。
あれは、この島に来る前、私が職人に特注して作らせたものだ。
船乗りたちが使う網の寝床をヒントに、丈夫な帆布とクッションを組み合わせて作った、私の発明品である(現代のハンモックみたいなもの)。
貴族たちは「布にぶら下がるなんて」と笑ったけれど、この揺らぎの心地よさを知らないなんて損をしている。
「……エリアナの発明品か。君が作ったものなら、強度は完璧だろう」
「もちろんです。大柄な帝国軍人が二人乗っても大丈夫なように設計しましたから」
「試してみようか」
私たちは狭い布に、無理やり二人で潜り込んだ。
密着する体温。
布がたわみ、私たちを包み込む。
少し窮屈だけど、それがかえって安心する。
「……おやすみなさい」
「ああ。……世界で一番贅沢な昼寝をしよう」
瞼を閉じる。
意識が遠のいていく。
これからも、きっと面倒なことは避けて通るし、定時には帰るし、休日は二度寝する。
でも、その隣にはいつも、この人がいる。
それだけで、私の人生は最高に幸せだ。
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