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婚約破棄された翌日、私は王宮の墓場に就職して定時退社を選んだ  作者: 九葉(くずは)
第1章

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第3話 謎の利用者「クマさん」との出会い

西日が傾き、図書室がオレンジ色に染まる頃。

向かいのソファから、衣擦れの音がした。


「……ん、ぅ……」


泥のように眠っていた侵入者が、ゆっくりと身じろぎをする。

私は読んでいた本(『西方諸国における農業用水路の変遷・下巻』)から視線を外し、彼を見た。


彼は重そうな瞼を持ち上げ、ぼんやりと天井を見上げている。

焦点が合っていない。


「……天国、か?」


「いいえ、王宮の北外れです」


私は淡々と訂正した。

彼はビクリと肩を震わせ、ガバッと上半身を起こす。


「!? き、君は……」


「ここの管理人です。お目覚めですか」


私は手元のポットから、新しいカップにお茶を注いだ。

彼が寝ている間に沸かし直しておいたものだ。

温度はぬるめ。寝起きに熱いものは体に障るから。


「どうぞ。水分補給は重要です」


「あ、ああ……すまない」


彼は警戒する様子もなく、差し出されたカップを受け取った。

震える手でそれを口に運ぶ。


一口、二口。

彼の強張っていた表情が、ほう、と緩んでいく。


「……生き返った……」


「それは良かったです」


「俺は……どれくらい寝ていた?」


「三時間ほどです」


「三時間!?」


彼は青ざめて立ち上がろうとした。

典型的な社畜の反応だ。

『寝てしまった』という罪悪感が、休息の安らぎを上書きしてしまうあの感覚。

痛いほどよく分かる。


「まだ定時(一七時)前ですよ」


私が壁の古時計を指差すと、彼は動きを止めた。


「……そうか。まだ、夜会までは時間があるか……」


彼は深く息を吐き、改めて私を見た。

そして、部屋を見渡す。


「ここは……第二図書室、だったはずだが。いつの間にこんなに綺麗になったんだ?」


「今日からです。私が片付けました」


「君一人で? このゴミ屋敷を?」


「ゴミではありません。歴史ある資料の山です(今はまだ山ですが)」


私が訂正すると、彼はわずかに目を丸くし、それから力なく笑った。

端正な顔立ちなのに、笑うと目の下のクマが強調されて、なんだか切なくなる。


「……ありがとう。久しぶりに、夢も見ずに眠れた」


「お気になさらず。ソファが空いていただけですので」


彼はカップをテーブルに置くと、少し名残惜しそうに立ち上がった。

そして、上着のポケットを探り、何か言いたげに口を開き――結局、何も言わずに頭を下げた。


「邪魔をしたね。……また、来てもいいだろうか」


「静かにしてくださるなら」


「約束する」


彼は逃げるように、けれど足取りは来た時より少しだけ確かに、部屋を出て行った。


私は残されたカップを手に取り、《洗浄》魔法をかけた。

名前も聞かなかった。

身分も知らない。


けれど、彼が背負っている疲労の重さだけは、言葉を交わさずとも理解できた。

あれは、限界を迎えた人間の目だ。


「……お疲れ様です、クマさん」


目の下に立派なクマを作っていた彼に、私は勝手なあだ名をつけた。


          ◇


翌日。


私が本棚の整理(「ま行」から「わ行」への分類)を終え、休憩に入ろうとした時だった。


ノックもなく、控えめに扉が開いた。


「……」


昨日の彼だ。

クマさんである。

今日も今日とて、顔色が悪い。

昨日より少しマシに見えるのは、三時間寝たからだろうか。


彼は私と目が合うと、無言で小さく会釈をした。

そして、昨日と同じソファへ向かい、音もなく座った。


「……」


「……」


会話はない。

彼は何かを要求するでもなく、ただ脱力して天井を見つめている。

王宮で働く人間なら、ここへ来て何か調べ物でもすればいいのに。

どうやらここは、彼にとって「避難所」として認定されたらしい。


私は気にせず、自分の時間を過ごすことにした。

ポットからお茶を淹れる。

二つ分。


カップを彼の前のローテーブルに置く。

ついでに、今朝ミナさんが持たせてくれた「木の実のクッキー」を小皿に盛って添えた。


「……いいのか?」


彼が掠れた声で聞いてくる。


「糖分がないと、脳が腐りますよ」


「……金言だ」


彼はクッキーを手に取り、齧った。

サク、という音が静寂に響く。

甘さが染み渡ったのか、彼が目を閉じて天を仰いだ。


「……美味い」


「下町のパン屋の残り物ですが」


「いや、王宮のどんな菓子より美味い。……生きる力が湧いてくる」


大袈裟な。

でも、その気持ちも分かる。

疲れている時に必要なのは、繊細な砂糖細工のケーキではなく、ガツンと殴ってくるような小麦と砂糖の塊なのだ。


私は自分の分のクッキーを齧りながら、本を開いた。


彼もまた、懐から数枚の書類を取り出し、読み始めた。

しかし、ペンの動きは遅い。

時折、書類を膝に置き、ぼんやりと窓の外を眺めている。


風が窓を揺らす音。

ページを捲る音。

時折、彼がクッキーを齧る音。


驚くほど、静かだった。


私は貴族社会にいた頃、「沈黙は気まずいもの」だと教わった。

常に話題を提供し、場を盛り上げ、相手を楽しませなければならない、と。

カイル様との茶会など、その最たるものだった。


『おい、何か面白い話をしろ』

『……では、最近の領地の収穫量についてですが』

『つまらん! もっと華やかな話はないのか!』


思い出すだけで胃が痛くなる。


でも、この空間には「義務」がない。

彼は私に何も求めない。

私も彼に何も求めない。


ただ、同じ空間で、それぞれの疲れを癒やしているだけ。

名前も知らない他人同士だからこその、気安さ。


(……悪くないわね)


私は冷めたお茶を一口飲んだ。


ふと視線を感じて顔を上げると、彼が私を見ていた。

目が合うと、彼はふっと微かに微笑んだ。

社交辞令の張り付いた笑みではなく、力の抜けた、自然な表情。


「……ここは、静かだね」


「王宮の墓場ですから」


「墓場、か。……確かに、死人のように眠るには最適だ」


自虐的なジョークに、私は少しだけ口角を上げた。


「死なれては困ります。死体処理は私の業務外ですので」


「はは。……善処するよ」


彼は最後の一枚のクッキーを口に放り込み、書類を片付けた。

どうやら、少しだけ元気が回復したらしい。


「ありがとう。また、明日も」


「定時までなら」


「ああ。……邪魔をした」


彼は立ち上がり、扉へと向かう。

その背中は、来た時よりもほんの少し、伸びているように見えた。


扉が閉まる。

再び訪れる静寂。


私は空になったクッキーの皿を見つめた。

明日は、もう少し多めに持ってこようか。

あの様子だと、彼は明日もきっと来るだろうから。


こうして、私の「誰にも邪魔されない新生活」に、一人の「静かな同居人」が加わったのだった。


そして、私はまだ気づいていない。

彼が時折広げていた書類が、国の存亡に関わる最高機密文書であることにも。

彼が落としていったメモに、私が無意識に赤ペンで修正を入れてしまったことにも。

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