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婚約破棄された翌日、私は王宮の墓場に就職して定時退社を選んだ  作者: 九葉(くずは)
第3章

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第23話 スパルタ侍女と、動かない私の攻防戦

「……背筋が緩んでいます。あと二度、伸ばしてください」


冷徹な声が、朝の図書室に響く。


「はい」


「顎を引いて。視線は床と平行に。呼吸は乱さずに」


「はい」


「その状態で、一時間キープです」


「……はい」


地獄の釜の蓋が開いてから、二時間が経過していた。

私の目の前に立っているのは、侍女長シルビアさん。

彼女の手には指示棒が握られている。


今の課題は「直立不動」だ。

ただ立っているだけ。

そう聞けば簡単に思えるかもしれないが、王族の直立はスポーツに近い。

踵を揃え、膝を閉じ、お尻を締め、腹筋を引き上げ、肩甲骨を寄せる。

全身の筋肉を総動員して「優雅な棒」になりきらなければならないのだ。


普通なら、開始10分で足が震え出し、30分で脂汗が滲み、一時間で倒れる。

過去の令嬢たちはそうして脱落していったらしい。


しかし。


(……ふぅ)


私は心の中で、深く息を吐いた。

表情は変えない。

蝋人形のように無表情のまま、私は思考の海を漂っていた。


私の極意。

名付けて「骨格スタッキング」。


筋肉で体を支えようとするから疲れるのだ。

積み木を積むように、足の骨の上に腰を乗せ、その上に背骨を積み上げ、最後に頭蓋骨をそっと置く。

重力を利用して、骨だけで立つ。

これならば、筋肉の使用量は最小限で済む。


私はこの姿勢のまま、頭の中で昨夜読んだ小説の続きを反芻していた。

あのミステリーの犯人は、やはり執事だったのだろうか。

いや、動機が弱い気がする。


「……エリアナ様」


思考の旅に出ていた私を、シルビアさんの声が引き戻した。


「はい」


「……辛くはないのですか?」


彼女の眉が、わずかにピクリと動いていた。

訝しげな表情だ。

それもそうだろう。

一時間、微動だにせず、立っている人間など、なかなかいない。


「はい。静止することは、私の得意分野ですので」


私は正直に答えた。

動かないことにかけては、私の右に出る者はいない。

ナマケモノといい勝負ができる自信がある。


「……そうですか。では、次は歩行訓練に移ります」


シルビアさんは納得いかない顔をしながらも、次の課題を提示した。


「頭の上に、こちらの本を乗せて歩いていただきます」


彼女が差し出したのは、分厚い百科事典だった。

重さ、約3キロ。

これを頭に乗せて、部屋の端から端まで往復する。

落とせばやり直し。

姿勢が崩れればやり直し。


「承知しました」


私は事典を受け取り、頭に乗せた。

ずっしりとした重み。

首の骨でバランスを取る。


「では、スタート」


私は歩き出した。

スッ、スッ、スッ。


床を滑るように進む。

ここでのポイントは、上下動を完全に殺すことだ。

膝を柔らかく使い、腰の高さを一定に保つ。

能楽の「すり足」に近い。

前世で、満員電車の中でコーヒーをこぼさずに飲むために習得した技術が、こんなところで役立つとは。


私はターンをして、戻ってきた。

事典は微動だにしない。


「……」


シルビアさんが、眼鏡の位置を直した。

その目が、鋭く光る。


「……もう一度」


「はい」


往復。

また往復。

10往復したところで、ようやくストップがかかった。


「……休憩にしましょう」


シルビアさんの声に、少しだけ疲労の色が混じっていた。

私ではなく、監視している彼女の方が疲れているようだ。

人間、予想外の動きを見せられると、脳が混乱するらしい。


          ◇


休憩時間。

私はソファに沈み込み、ミナさんが届けてくれたサンドイッチを頬張っていた。

補給は必須だ。


シルビアさんは、私の向かいで直立したまま、無言で私を観察している。

怖い。

休憩中くらい座ればいいのに。


「……エリアナ様」


「何でしょう(モグモグ)」


「貴女は……不思議な方ですね」


彼女がポツリと言った。


「大公閣下からは、『怠惰で自堕落な令嬢』と伺っておりました。姿勢も悪く、気品もないと」


「まあ、普段はそうです」


「ですが、いざ指導を始めると……貴女の所作には、一切の無駄がない」


彼女は眼鏡の奥の目を細めた。


「直立の際も、歩行の際も。貴女は必要最小限の力しか使っていない。……まるで、体力の消耗を極限まで恐れているかのように」


「その通りです」


私はサンドイッチを飲み込み、お茶で流し込んだ。


「シルビアさん。私は『頑張る』ことが嫌いです」


「……は?」


「頑張ると疲れます。疲れると機嫌が悪くなります。機嫌が悪くなると、仕事の効率が落ちます」


私は力説した。


「だから私は、いかに『楽をするか』を常に考えています。姿勢を正すのも、その方が呼吸が楽だから。歩く時に揺れないのも、その方がエネルギーを使わないからです」


「……楽をするために、完璧な所作を?」


「はい。マナーとは本来、相手を不快にさせないための合理的なルールでしょう? なら、それを実行する側も合理的であるべきです」


私はニッコリと笑った。


「無駄な力みは、美しくありません。……そして何より、お腹が空きます」


シルビアさんは、呆気にとられたように口を開けていた。

しばらく私を凝視した後、彼女はふっと小さく息を吐いた。

それは、初めて見せる人間らしい反応だった。


「……呆れました。怠惰を極めるために努力をするなど、本末転倒ではありませんか?」


「効率化と言ってください」


「ですが……一理あります」


彼女は手元の指示棒を置いた。


「これまでの令嬢たちは、『よく見せよう』として体に力を入れすぎ、自滅していきました。……貴女のように、力を抜くことで完成度を高める発想は、私にとっても新鮮です」


彼女の鉄仮面に、ほんのわずかにヒビが入った気がした。

敵意ではない。

観察対象としての興味、あるいは「面白い新種を見つけた」という学者のような目だ。


「午後からは、淑女の礼の特訓です。……その『効率化』とやらで、どこまで私の目に耐えられるか、見せていただきますよ」


「お手柔らかにお願いします。……膝を痛めると、老後に響きますから」


「ふふっ。……善処します」


笑った。

今、確実に笑った。

氷の処刑人が笑ったぞ。


これは、いけるかもしれない。

彼女もまた、大公というブラック上司に仕える中間管理職。

「効率化」という言葉の甘美さは、きっと理解できるはずだ。


私は最後のサンドイッチを口に放り込んだ。

この調子なら、一ヶ月の教育期間も、なんとか生き延びられるかもしれない。


しかし。

現実はそう甘くはなかった。


翌日。

衣装部屋に連れて行かれた私は、絶望することになる。


そこには、大公が用意させたという「婚礼衣装」が飾られていた。

純白のシルクに、無数の宝石が縫い付けられ、金糸で刺繍が施されたドレス。


見た目は美しい。

だが、問題はその「物理的な質量」だ。


「……シルビアさん。これ、重さは?」


「総重量、約20キログラムです」


「……鎧ですか?」


「ドレスです。大公閣下曰く、『重さこそが王家の威厳』とのことです」


20キロ。

これを着て、10キロ歩く?

頚椎が折れる。

腰椎が砕ける。


私の「省エネ理論」が、物理的な暴力の前に崩れ去ろうとしていた。

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