表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された翌日、私は王宮の墓場に就職して定時退社を選んだ  作者: 九葉(くずは)
第3章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/31

第22話 「儀典長」登場

空気の重さが、物理的な圧力となって肌を刺す。


図書室の入り口に立つ老紳士――ヴァレリウス大公。

その背後には、無表情な侍女たちが、一糸乱れぬ隊列で控えている。


「……お初にお目にかかります、大公閣下」


私は淑女の礼をした。

膝の角度、背筋の伸ばし方、視線の落とし方。

元侯爵令嬢として、体に染み付いたマナーは完璧なはずだ。


しかし。

大公の片眼鏡がキラリと光った。


「角度が甘い」


「……はい?」


「膝の屈伸が2ミリ浅い。背筋のラインに0.5五度の歪みがある。なにより……」


彼は杖の先で、私の足元を指した。


「室内履きだ」


しまった。

ソファでくつろいでいた時のままだ。

フカフカの羊毛の室内履きは、私の安息の象徴だが、王族を迎える正装ではない。


「王弟殿下の婚約者ともあろう者が、昼日中から寝間着のような姿で、公的機関である図書室を私物化するとは……。嘆かわしい」


大公の声は、鞭のように空気を打った。

怒鳴っているわけではない。

静かで、冷たく、絶対的な「否定」の響き。


クロード様が私の前に割って入った。


「叔父上、言葉が過ぎます。彼女はここで正当な業務を行っていただけです。服装に関しては、私の許可済みですが」


「黙りなさい、クロード」


大公は甥である宰相を一瞥しただけで黙らせた。


「お前が甘やかすから、つけ上がるのだ。帝国との条約で見せた手腕は見事だったが……身内の管理もできぬようでは、宰相失格だぞ」


「……っ」


クロード様が唇を噛む。

反論できないのだ。

この国において「年長者」と「伝統」は絶対。

特に儀典長である大公は、王家の格式を守る最後の砦。

彼を敵に回せば、結婚式どころか、今後の政権運営にすら支障が出る。


大公は再び私に向き直った。

その目は、値踏みするように細められている。


「エリアナ・ベルンシュタイン。……噂通りの怠け者か、あるいは能ある鷹か。どちらにせよ、今のままでは王弟の隣に立つ資格はない」


彼は懐から扇を取り出し、バチリと開いた。


「よって、今この瞬間より、貴様への『王族妃教育』を開始する」


「……王族妃教育、ですか」


嫌な響きだ。

前世の記憶にある乙女ゲームでは、悪役令嬢がヒロインをいじめるための口実だったあれだ。

つまり、いびり倒される未来しか見えない。


「断れば?」


私は試しに聞いてみた。


「簡単だ。この婚約を『不適格』として破棄させる。……我が一族の恥を晒すくらいなら、一生独身でいてもらった方がマシだ」


大公の目は本気だった。

脅しではない。

この人は、格式のためなら肉親さえ切り捨てる覚悟がある。


(……参ったわね)


婚約破棄。

それはつまり、クロード様との別れを意味する。

そして、あの快適な「二度寝ライフ」も、王宮での特権も失うということだ。

なにより、あの大型犬のような彼を悲しませたくはない。


私はチラリとクロード様を見た。

彼は拳を握りしめ、苦渋の表情で私を見ている。

「すまない、守れなくて」という声が聞こえてきそうだ。


(……仕方ない)


ここは一時撤退。

損して得取れ、だ。


私は顔を上げ、大公を見据えた。


「分かりました。その教育、お受けします」


「ほう。殊勝な心がけだ」


「ただし、条件があります」


私は人差し指を立てた。

ただで屈する私ではない。


「教育期間中、私の一切の公務、および図書室管理業務を免除してください」


「……何?」


「教育とは、全精力を傾けて行うべき神聖なもの。雑務に追われていては身に入りません。……そうでしょう?」


これは詭弁だ。

本音は「教育を受けながら仕事もするなんて、過労死コースまっしぐらだから絶対嫌だ」というだけ。

どうせ教育で拘束されるなら、その分、他の仕事は休ませてもらう。

定時退社は守れなくとも、労働総量は増やさせない。


大公は片眉を上げた。

私の意図を見透かそうとしているようだ。

やがて、彼はフンと鼻を鳴らした。


「よかろう。中途半端な覚悟で挑まれては迷惑だ。……その代わり、教育は徹底的にやらせてもらうぞ」


「望むところです」


契約成立だ。


大公はパチンと指を鳴らした。

背後の侍女軍団の中から、一人の女性が進み出てきた。


年齢は30代半ばだろうか。

髪をひっつめに結い上げ、銀縁眼鏡をかけた、隙のない女性。

表情筋が死滅しているのではないかと疑うほど、鉄仮面のような無表情だ。


「侍女長のシルビアだ。今日から貴様の教育係とする」


「お初にお目にかかります、エリアナ様」


シルビアと呼ばれた女性が一礼した。

その角度、速度、姿勢。

完璧だった。

大公が合格点を出すレベルのマナーだ。


「彼女は厳しいぞ。過去に三人の令嬢が、彼女の教育に耐えきれず修道院へ逃げ込んだ」


「……それは楽しみですね」


逃げ込んだ先が修道院というのがリアルだ。

世俗を捨てたくなるほどの厳しさということか。


「期間は一ヶ月。……その間に、王族として恥ずかしくない所作、教養、そして『根性』を叩き直す。もし落第と判断すれば……分かっているな?」


「はい。荷物をまとめて出て行きます」


「ふん。……行くぞ」


大公はマントを翻し、嵐のように去っていった。

侍女軍団もそれに続く。

ただ一人、シルビアさんだけを残して。


図書室に静寂が戻る。

しかし、以前のような心地よい静寂ではない。

監視カメラのように冷たい視線を感じる静寂だ。


「……エリアナ」


クロード様が駆け寄ってきた。


「すまない! 私がもっと強く言えれば……!」


「いいのです、クロード様。これは必要な儀式ですから」


私は彼の手を握った。

冷たくなっている。


「それに、考えてもみてください。公務免除ですよ? 一ヶ月間、あの面倒な陳情処理や書類整理から解放されるのです」


「だが、相手はあの叔父上だぞ? それに、あのシルビアは『氷の処刑人』と呼ばれる鬼教官だ。……君が壊れてしまわないか、心配で……」


「大丈夫です」


私はニッコリと笑った。


「私、体力はありませんが、耐久力には自信がありますから。」


理不尽な上司。

終わらないノルマ。

絶対的なルール。

そんなものは、前世で嫌というほど味わってきた。

今の私には「定時退社」という希望と、「愛する人」という支えがある。

それだけで、前世よりはずっとマシな環境だ。


私はシルビアさんに向き直った。


「よろしくお願いいたします、シルビアさん。……お手柔らかに」


「ご安心ください、エリアナ様」


彼女は眼鏡の位置を直しながら、抑揚のない声で答えた。


「私は手加減など致しません。……まずは、その背筋をあと3センチ伸ばしていただきます。それと、呼吸のリズムが乱れています。吸って、吐いて、止める。王族の呼吸は四拍子です」


「……呼吸からですか」


どうやら、想像以上に細かいらしい。

私の「省エネ生活」と、彼女の「完璧主義」。

この一ヶ月は、仁義なき戦いになりそうだ。


私は窓の外を見た。

夕日が赤い。

明日からの日々が、血のように赤く染まる予兆に見えた。


……でも、負けない。

絶対にこの教育を乗り切って、あのクソ重い結婚式のスケジュールも粉砕してやる。

そして、クロード様と二人で、最高の二度寝をするのだ。


その執念だけが、今の私を支えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
王太子妃教育受けてるのに、まだ、受講? 王弟妃と王太子妃なら、次期王妃向け教育の方がよりメニューが多そうだけど?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ