第21話 結婚準備は「地獄のデスマーチ」の
嵐が去れば、凪が来る。
それは自然の摂理であり、労働者の権利でもあるはずだ。
東方帝国との外交戦という名の残業ラッシュを乗り越え、私は平穏を取り戻していた。
「……平和ですね」
「ああ、平和だ」
午後二時の図書室。
いつものソファ。
いつもの紅茶。
そして、膝の上にはいつもの婚約者(クロード様)。
彼は私の膝に頭を預け、猫のように目を細めている。
条約締結後の事後処理もようやく一段落し、彼もまた「通常営業」に戻っていた。
窓の外では小鳥がさえずり、春の日差しが本棚に長い影を落としている。
完璧な午後だ。
このまま時間が止まればいいのに。
そう思っていた私の耳に、不穏な音が届いた。
ドサッ。
重い何かが、ローテーブルの上に置かれた音だ。
目を開ける。
そこには、百科事典並みに分厚い、黒革のファイルが置かれていた。
持ってきたのは、クロード様の背後に控えていた侍従長だ。
彼の顔は、なぜか沈痛な面持ちをしている。
「……クロード様? これは?」
私が尋ねると、膝の上の彼がビクリと震えた。
彼はゆっくりと起き上がり、気まずそうに視線を逸らした。
「……エリアナ。そろそろ、私たちの結婚式について詰めなければならない」
「ああ、その件ですか」
私はホッと胸を撫で下ろした。
また新たな厄介ごとかと思ったが、結婚の話なら想定内だ。
「日取りは来月でしたよね。私のサインが必要な書類ですか? すぐに書きますよ」
私はペンを取り出そうとした。
役所への提出書類だろう。
名前を書いて、印鑑を押す。
それで私は晴れて「王弟妃」となり、彼との穏やかな同居生活が始まる。
簡単な事務作業だ。
しかし。
クロード様は首を横に振った。
「いや、違うんだ。……まずは、それを読んでみてくれ」
彼は黒革のファイルを指差した。
表紙には金文字で『王家儀典法に基づく婚礼の儀・進行表(案)』と書かれている。
嫌な予感がする。
(案)と書かれている書類が、まともだった試しがない。
私は恐る恐る、表紙をめくった。
一ページ目。
『第一日:浄化の儀』
『午前四時 起床・沐浴』
『午前六時 王都正門より出発』
『聖地大聖堂まで、純白の衣装にて「徒歩」で行進(約10キロメートル)』
『※道中、沿道の民衆へ笑顔で手を振り続けること』
……はい?
私の目が滑ったのだろうか。
徒歩?
10キロ?
しかも笑顔で?
私はページをめくった。
『第二日:宣誓の儀』
『歴代国王の墓所を巡り、各霊廟にて一時間の祈りを捧げる』
『※計15箇所』
単純に15時間かかる計算だ。
移動時間を入れれば、24時間を超える。
いつ寝るのだ。
手が震えてきた。
さらにページをめくる。
『第三日:祝宴(初日)』
『衣装替え:朝・昼・夕・夜・深夜の計5回』
『着用ドレス:総重量15キログラム以上の正装に限る』
『第四日:祝宴(中日)』
『全貴族(約300家)からの挨拶を受ける』
『※新婦は玉座より起立したまま応対すること』
『第五日……』
私はファイルを閉じた。
バタン、という乾いた音が、静寂な図書室に響いた。
「……クロード様」
「……なんだい」
「これは、何かの拷問マニュアルですか? あるいは、私に対する何らかの罰ゲーム?」
私は真顔で聞いた。
冗談であってほしかった。
こんなスケジュール、前世のブラック企業で行われた「地獄の合宿研修」よりも酷い。
これをこなせば、確実に過労死する。
あるいは、足が棒になって二度と歩けなくなる。
クロード様は、深く、深くため息をついた。
「……それが、我が国の法律で定められた『王族の結婚式』の最低ラインなんだ」
「最低ライン!?」
「これでも削ったんだ。本来は二週間続くところを、私の権限で7日間に短縮した」
彼は頭を抱えた。
「すまない、エリアナ。君の『頑張りたくない』という願いを叶えると誓ったのに……。この国の『伝統』という怪物は、私の想像以上に手強かった」
伝統。
もっとも非効率で、もっとも打破しにくい概念。
「……却下します」
私はファイルをテーブルの向こうへ押しやった。
「無理です。10キロ歩く体力はありません。15時間祈る集中力もありません。なにより、一週間も仕事を休んで笑顔を振りまくなんて、労働基準法違反です」
「私もそう思う。だが……」
「役所で紙を出すだけでは駄目なのですか? 私たちは互いに愛し合っていますし、証人もいます。それで十分では?」
「法的には有効だ。だが……『王弟の結婚』となると、そうもいかない」
クロード様は苦渋の表情で説明を始めた。
王族の結婚とは、単なる個人の結びつきではない。
国の威信を内外に示す一大イベントであり、貴族たちへの権力誇示の場であり、民衆へのガス抜き(お祭り)でもある。
もしこれを簡略化すれば、「王家が衰退した」「新婦が軽んじられている」と不要な噂が立ち、政情不安に繋がるというのだ。
「特に、今回は帝国との条約締結直後だ。帝国に『ルテティアの王家は健在だ』と見せつける必要がある」
正論だ。
宰相らしい、ぐうの音も出ない正論だ。
でも。
(……嫌なものは嫌だ)
私は自分の人生を、国の見世物にするために捧げるつもりはない。
せっかく「定時退社」の権利を勝ち取ったのに、その入り口である結婚式が「地獄のデスマーチ」だなんて。
私の脳内で、警報が鳴り響く。
『逃ゲロ』。
『ココニイタラ死ヌゾ』。
私はファイルを見つめた。
この紙束さえなければ。
このふざけた計画書さえ、この世から消滅すれば。
私は右手に魔力を込めた。
「……《消去》」
「待てエリアナ!!」
クロード様が慌てて私の手首を掴んだ。
「早まるな! それは複製だ! 消しても事実は変わらない!」
「離してくださいクロード様! 10キロ歩く? 正気ですか!? 私は図書室からトイレへ行くのすら面倒くさいのに!」
「落ち着け! 気持ちは分かる! 私も歩きたくない!」
「なら一緒に逃げましょう! 無人島へ! ハネムーンを前倒しにするのです!」
私は半狂乱で叫んだ。
普段の冷静さはどこへやら。
「労力」という恐怖の前では、私はただのパニックになった小動物だ。
侍従長がオロオロしている。
クロード様が必死に私を羽交い締めにしている。
ひとしきり暴れて、私はソファに力尽きた。
酸欠だ。
髪も乱れ、ドレスも皺になった。
「……はぁ、はぁ……」
「落ち着いたか?」
クロード様が、私の髪を直しながら優しく聞いてくる。
私は涙目で彼を睨んだ。
「……落ち着いていません」
「すまない。だが、これを取り仕切っているのは『儀典局』だ。あそこは、王宮の中でも特殊な場所でね」
「儀典局……」
「トップは、私の叔父上……ヴァレリウス大公だ。彼は『歩く法律書』と呼ばれるほどの堅物で……私が何を言っても、『先例がない』の一点張りなんだ」
ヴァレリウス大公。
名前は聞いたことがある。
王家の長老にして、保守派の筆頭。
伝統と格式を何よりも重んじ、一度決めたことはテコでも動かないという、生ける化石のような人物。
「……クロード様」
私は虚ろな目で天井を仰いだ。
「私、決めました」
「何をだ?」
「結婚、辞退します」
「えっ」
「私は一生、貴方の『婚約者』のままでいます。結婚しなければ、式を挙げる必要もありません。このまま事実婚でいきましょう」
名案だと思った。
愛があれば、形式など関係ない。
図書室で一緒に暮らせばいいのだ。
しかし、クロード様は悲しげに首を横に振った。
「……残念だが、もう招待状は印刷に入っている。各国の王族にも内定通知済みだ。今更キャンセルすれば、それこそ戦争になる」
「ううっ……!」
逃げ道は、塞がれていた。
外堀も内堀も埋められ、あとは城門を開けて討ち死にするしかない状況だ。
私は黒革のファイルを睨みつけた。
七日間。
二十回の着替え。
徒歩行進。
「……絶対に、嫌」
私は呟いた。
諦める?
いいえ。
私は諦めない。
前世で学んだはずだ。
『無理な納期は、交渉と裏技でねじ伏せろ』と。
私はガバッと起き上がった。
「クロード様。その『儀典法』とやらの全条文、この図書室にありますか?」
「え? ああ、あるはずだ。建国以来の資料なら、ここに全て揃っている」
「持ってきてください。今すぐに」
私の目に、怪しい光が宿った。
戦うのだ。
物理的にではなく、論理と解釈で。
「……法の抜け穴を見つけ出して、このスケジュールを白紙にしてやります」
「エリアナ……」
クロード様は、少しだけ引いていたが、同時に頼もしそうな目をした。
「分かった。手伝おう。……私も、君にウェディングドレスでマラソンをさせるのは本意ではない」
こうして。
幸せな結婚準備期間は、突如として「法廷闘争」のような様相を呈し始めた。
だが、私はまだ甘かった。
書類上の敵(法律)だけではない。
実体を持った最強の敵が、すぐそこまで迫っていることを。
ドンドンッ!!
図書室の扉が、権威的に叩かれた。
予約のない、招かれざる客の音。
「……誰ですか」
私が不機嫌に扉を開けると。
そこには、白髪を完璧に撫で付け、片眼鏡をかけた初老の紳士が立っていた。
その背後には、氷のように無表情な侍女軍団を引き連れて。
「お初にお目にかかる。……王弟殿下の婚約者というのは、こんな昼日中から惰眠を貪る娘のことかな?」
その声は、錆びついた鉄のように冷たく、重かった。




