第2話 就職先は「王宮の墓場」でした
自由とは、素晴らしいものだ。
朝、目覚まし時計に叩き起こされることなく、小鳥のさえずりで目を覚ます。
窓を開ければ、下町の活気ある喧騒。
大家のミナさんが焼いてくれたパンをかじりながら、私は今後の人生計画を立てていた。
「……さて、働きますか」
貯金はある。数年は遊んで暮らせる額だ。
けれど、何もしないまま過ごすというのは、元社畜の性分として落ち着かない。
それに、社会との接点を完全に絶つのもリスクがある。
求める条件は三つ。
一、定時で帰れること。
二、人間関係が希薄であること。
三、そこそこの給金がもらえること。
特に「二」は重要だ。
貴族社会の腹の探り合いや、「言わなくても察する」文化にはもううんざりだった。
私は平民服の上にフード付きのローブを羽織り、商業区にある職業紹介ギルドへと向かった。
◇
ギルドの掲示板には、羊皮紙が所狭しと貼られている。
『急募! 冒険者の荷物持ち。体力に自信のある方』
……却下。腰を痛める未来しか見えない。
『酒場の看板娘。笑顔が素敵な方歓迎』
……論外。私の表情筋は愛想笑い機能が故障している。
『商会の経理事務。残業あり』
……残業という二文字を見ただけで蕁麻疹が出そうだ。
溜息をつきかけた時、掲示板の隅っこ、画鋲が外れかけてひらひらしている一枚の紙が目に入った。
【王宮第二図書室・管理人募集】
・業務内容:蔵書の管理、清掃、貸出対応
・勤務時間:朝九時から夕方五時まで(残業原則なし)
・給与:金貨三枚/月
・応募資格:文字が読めること。孤独に耐えられること。
「……これだ」
条件が完璧すぎる。
王宮の敷地内というのが少し引っかかるが、あそこは広い。
第二図書室といえば、確か北の離れにある古い塔だ。
主要な施設からは遠く離れているし、カイル様たちと顔を合わせる確率も低いだろう。
私はその紙を毟り取り、受付カウンターへと持っていった。
「これに応募したいのですが」
受付のお姉さんが、私の出した紙を見てギョッとした顔をした。
「えっ……こ、これですか? 本気ですか?」
「はい。何か問題でも?」
「い、いえ……ただ、その……今まで何人も派遣したんですが、皆さん一日と持たずに辞めてしまわれて……」
「業務内容が過酷なのですか?」
「いえ、そういうわけでは……ただ、『あんな場所にはいられない』と」
お姉さんは言葉を濁した。
ふむ。
おそらく「幽霊が出る」とか「ネズミが出る」とか、その類だろう。
生きた人間(特に上司)に比べれば、幽霊など可愛いものだ。
ネズミなら追い出せばいい。
「構いません。手続きをお願いします」
「は、はい……。あ、お名前は?」
「……リアと申します」
偽名を使うことにした。
身分証代わりの魔道具には細工をしてある。
元侯爵令嬢だとバレたら、またあの面倒な世界に連れ戻されかねないから。
◇
翌日。
私は採用通知(というか、即日採用の手形)を持って、王宮の裏門をくぐった。
衛兵に場所を聞くと、「ああ、あそこか……」と哀れむような目で見られた。
そんなに酷いのだろうか。
人気のない庭園を抜け、雑木林の奥へ進む。
そこに、蔦に覆われた石造りの塔が建っていた。
これが、第二図書室。
通称、「王宮の墓場」。
重厚な木の扉には、大きな錠前が掛かっているわけでもなく、半開きになっていた。
管理体制はどうなっているんだ。
「失礼します。今日から管理人として配属されました……」
挨拶をしながら扉を押し開ける。
その瞬間。
バササッ!と何かが崩れる音がして、私の足元に埃の塊が雪崩れ込んできた。
「……」
私は無言でスカートの裾を押さえた。
舞い上がる粉塵。
視界が晴れるのを待って、私は室内を見渡した。
「……なるほど」
そこは、図書室というよりは、巨大なゴミ箱だった。
高い天井まで届く本棚。
そこに入りきらなかった本が、床に地層のように積み上げられている。
通路など存在しない。
本の山を登らなければ奥へ進めない状態だ。
窓は蜘蛛の巣で塞がれ、昼間だというのに薄暗い。
あちこちに「未整理」「重要」「とりあえずここ」と書かれたメモが散乱しているが、そのメモ自体が風化している。
『あんな場所にはいられない』
受付のお姉さんの言葉が蘇る。
普通の人間なら、この混沌を見ただけで絶望するだろう。
どこから手をつければいいのかわからないからだ。
しかし。
私の感想は違った。
(……人が、いない)
耳を澄ませても、聞こえるのは風の音と、梁の上で寝ているであろうフクロウの寝息くらい。
上司の怒鳴り声も、同僚の嫌味も、カイル様の的外れな演説もない。
汚い?
それがどうした。
私は元・王宮一のブラック部署を回していた女だ。
物理的な汚れなど、精神的な重圧に比べればそよ風みたいなものである。
「……やりがいがありますね」
私は腕まくりをした。
まずは、私が座って茶を飲むスペースを確保する。
それが今日の目標だ。
◇
「《洗浄》」
私の指先から、淡い光の波紋が広がる。
一般的に《洗浄》魔法は、対象の表面の汚れを弾き飛ばすだけの初歩魔法だ。
しかし、私のそれは違う。
対象:「本」
除外対象:「インク」「紙の繊維」「装丁の糊」
除去対象:「埃」「カビ」「手垢」「ダニ」
頭の中で検索条件を設定し、魔力を細い糸のように編み込んでいく。
魔法が本棚を舐めるように通過すると、積もっていた百年分の埃だけが綺麗に空中に分離し、ボール状に固められて窓の外へ排出される。
これを数十回繰り返す。
部屋中の空気が、一気に入れ替わった。
「よし」
次は物理的な整頓だ。
床に散乱している本を、サイズと色だけで機械的に分類していく。
内容を読んでいる暇はない。
「赤・大型」「青・中型」「革張り・小型」。
テトリスのように隙間なく棚へ詰め込む。
重い本を持って梯子を登る。
汗が滲むが、心地よい疲労感だ。
誰も「遅い」と文句を言わない。
誰も「ついでにこれもやって」と仕事を押し付けない。
作業に没頭すること、約五時間。
入り口付近の六畳ほどのスペースに、奇跡のような空間が生まれていた。
磨き上げられた床。
整然と本が並んだ棚(入り口側だけ)。
埃の被っていたアンティークのソファも、新品同様の色を取り戻している。
窓ガラスも透明になり、西日が暖かく差し込んでいた。
「……完璧」
私は持参した携帯用の魔導コンロでお湯を沸かし、ハーブティーを淹れた。
湯気が立ち上る。
カモミールの香り。
ソファに深く沈み込む。
静寂。
本に囲まれた、清潔な空気。
(ああ……幸せって、こういうことなのね)
王太子妃教育を受けていた頃は、こんな時間は一秒たりともなかった。
ただ座って、お茶を飲む。
それがこれほど贅沢なことだとは。
私はカップを口に運び、ふぅ、と息を吐いた。
その時だった。
ギィィィ……。
入り口の扉が、ゆっくりと開いた。
「……?」
風ではない。
明らかに、誰かが入ってきた気配。
私はカップを持ったまま固まった。
こんな辺鄙な場所に、誰が?
まさか、お化け?
入ってきたのは、一人の男性だった。
上質な、けれど少し着崩した騎士服のような衣装。
整った顔立ちをしているが、その顔色は驚くほど悪い。
目の下には濃いクマがあり、足取りはふらついている。
まるで、三日徹夜した後の前世の私のような……。
彼は私に気づいていないのか、それとも見えていないのか。
幽霊のようにふらふらと歩き、私が綺麗にしたばかりの向かいのソファへ倒れ込もうとして――
「あ」
私が声を出す間もなく、彼はドサリとソファに突っ伏した。
「……死んだ?」
いや、規則正しい寝息が聞こえる。
どうやら、ただの睡眠不足のようだ。
私は瞬きをした。
ここは私の職場(兼、憩いの場)だ。
普通なら叩き起こして追い出すべきだろう。
けれど。
彼の寝顔があまりにも安らかで、そしてそのクマがあまりにも切実で。
(……わかるわ。その気持ち)
私も昨日まで、泥のように眠りたかったから。
私は立ち上がり、部屋の隅に避けておいたブランケットを手に取った。
そっと彼の肩にかける。
彼は「うぅ……」と小さく唸り、ブランケットに顔を埋めた。
「……起きるまで、貸してあげます」
私はもう一度自分のお茶を一口飲み、静かに本を開いた。
奇妙な同居人(?)との、静かな時間の始まりだった。




