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婚約破棄された翌日、私は王宮の墓場に就職して定時退社を選んだ  作者: 九葉(くずは)
第1章

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第2話 就職先は「王宮の墓場」でした

自由とは、素晴らしいものだ。


朝、目覚まし時計に叩き起こされることなく、小鳥のさえずりで目を覚ます。

窓を開ければ、下町の活気ある喧騒。

大家のミナさんが焼いてくれたパンをかじりながら、私は今後の人生計画を立てていた。


「……さて、働きますか」


貯金はある。数年は遊んで暮らせる額だ。

けれど、何もしないまま過ごすというのは、元社畜の性分として落ち着かない。

それに、社会との接点を完全に絶つのもリスクがある。


求める条件は三つ。


一、定時で帰れること。

二、人間関係が希薄であること。

三、そこそこの給金がもらえること。


特に「二」は重要だ。

貴族社会の腹の探り合いや、「言わなくても察する」文化にはもううんざりだった。


私は平民服の上にフード付きのローブを羽織り、商業区にある職業紹介ギルドへと向かった。


          ◇


ギルドの掲示板には、羊皮紙が所狭しと貼られている。


『急募! 冒険者の荷物持ち。体力に自信のある方』

……却下。腰を痛める未来しか見えない。


『酒場の看板娘。笑顔が素敵な方歓迎』

……論外。私の表情筋は愛想笑い機能が故障している。


『商会の経理事務。残業あり』

……残業という二文字を見ただけで蕁麻疹が出そうだ。


溜息をつきかけた時、掲示板の隅っこ、画鋲が外れかけてひらひらしている一枚の紙が目に入った。


【王宮第二図書室・管理人募集】

・業務内容:蔵書の管理、清掃、貸出対応

・勤務時間:朝九時から夕方五時まで(残業原則なし)

・給与:金貨三枚/月

・応募資格:文字が読めること。孤独に耐えられること。


「……これだ」


条件が完璧すぎる。

王宮の敷地内というのが少し引っかかるが、あそこは広い。

第二図書室といえば、確か北の離れにある古い塔だ。

主要な施設からは遠く離れているし、カイル様たちと顔を合わせる確率も低いだろう。


私はその紙を毟り取り、受付カウンターへと持っていった。


「これに応募したいのですが」


受付のお姉さんが、私の出した紙を見てギョッとした顔をした。


「えっ……こ、これですか? 本気ですか?」


「はい。何か問題でも?」


「い、いえ……ただ、その……今まで何人も派遣したんですが、皆さん一日と持たずに辞めてしまわれて……」


「業務内容が過酷なのですか?」


「いえ、そういうわけでは……ただ、『あんな場所にはいられない』と」


お姉さんは言葉を濁した。

ふむ。

おそらく「幽霊が出る」とか「ネズミが出る」とか、その類だろう。

生きた人間(特に上司)に比べれば、幽霊など可愛いものだ。

ネズミなら追い出せばいい。


「構いません。手続きをお願いします」


「は、はい……。あ、お名前は?」


「……リアと申します」


偽名を使うことにした。

身分証代わりの魔道具には細工をしてある。

元侯爵令嬢だとバレたら、またあの面倒な世界に連れ戻されかねないから。


          ◇


翌日。

私は採用通知(というか、即日採用の手形)を持って、王宮の裏門をくぐった。


衛兵に場所を聞くと、「ああ、あそこか……」と哀れむような目で見られた。

そんなに酷いのだろうか。


人気のない庭園を抜け、雑木林の奥へ進む。

そこに、蔦に覆われた石造りの塔が建っていた。

これが、第二図書室。

通称、「王宮の墓場」。


重厚な木の扉には、大きな錠前が掛かっているわけでもなく、半開きになっていた。

管理体制はどうなっているんだ。


「失礼します。今日から管理人として配属されました……」


挨拶をしながら扉を押し開ける。


その瞬間。

バササッ!と何かが崩れる音がして、私の足元に埃の塊が雪崩れ込んできた。


「……」


私は無言でスカートの裾を押さえた。

舞い上がる粉塵。

視界が晴れるのを待って、私は室内を見渡した。


「……なるほど」


そこは、図書室というよりは、巨大なゴミ箱だった。


高い天井まで届く本棚。

そこに入りきらなかった本が、床に地層のように積み上げられている。

通路など存在しない。

本の山を登らなければ奥へ進めない状態だ。


窓は蜘蛛の巣で塞がれ、昼間だというのに薄暗い。

あちこちに「未整理」「重要」「とりあえずここ」と書かれたメモが散乱しているが、そのメモ自体が風化している。


『あんな場所にはいられない』

受付のお姉さんの言葉が蘇る。


普通の人間なら、この混沌カオスを見ただけで絶望するだろう。

どこから手をつければいいのかわからないからだ。


しかし。

私の感想は違った。


(……人が、いない)


耳を澄ませても、聞こえるのは風の音と、梁の上で寝ているであろうフクロウの寝息くらい。

上司の怒鳴り声も、同僚の嫌味も、カイル様の的外れな演説もない。


汚い?

それがどうした。

私は元・王宮一のブラック部署を回していた女だ。

物理的な汚れなど、精神的な重圧に比べればそよ風みたいなものである。


「……やりがいがありますね」


私は腕まくりをした。

まずは、私が座って茶を飲むスペースを確保する。

それが今日の目標だ。


          ◇


「《洗浄クリーン》」


私の指先から、淡い光の波紋が広がる。


一般的に《洗浄》魔法は、対象の表面の汚れを弾き飛ばすだけの初歩魔法だ。

しかし、私のそれは違う。


対象:「本」

除外対象:「インク」「紙の繊維」「装丁の糊」

除去対象:「埃」「カビ」「手垢」「ダニ」


頭の中で検索条件フィルタを設定し、魔力を細い糸のように編み込んでいく。

魔法が本棚を舐めるように通過すると、積もっていた百年分の埃だけが綺麗に空中に分離し、ボール状に固められて窓の外へ排出される。


これを数十回繰り返す。

部屋中の空気が、一気に入れ替わった。


「よし」


次は物理的な整頓だ。

床に散乱している本を、サイズと色だけで機械的に分類していく。

内容を読んでいる暇はない。

「赤・大型」「青・中型」「革張り・小型」。

テトリスのように隙間なく棚へ詰め込む。


重い本を持って梯子を登る。

汗が滲むが、心地よい疲労感だ。

誰も「遅い」と文句を言わない。

誰も「ついでにこれもやって」と仕事を押し付けない。


作業に没頭すること、約五時間。


入り口付近の六畳ほどのスペースに、奇跡のような空間が生まれていた。


磨き上げられた床。

整然と本が並んだ棚(入り口側だけ)。

埃の被っていたアンティークのソファも、新品同様の色を取り戻している。

窓ガラスも透明になり、西日が暖かく差し込んでいた。


「……完璧」


私は持参した携帯用の魔導コンロでお湯を沸かし、ハーブティーを淹れた。

湯気が立ち上る。

カモミールの香り。


ソファに深く沈み込む。

静寂。

本に囲まれた、清潔な空気。


(ああ……幸せって、こういうことなのね)


王太子妃教育を受けていた頃は、こんな時間は一秒たりともなかった。

ただ座って、お茶を飲む。

それがこれほど贅沢なことだとは。


私はカップを口に運び、ふぅ、と息を吐いた。


その時だった。


ギィィィ……。


入り口の扉が、ゆっくりと開いた。


「……?」


風ではない。

明らかに、誰かが入ってきた気配。


私はカップを持ったまま固まった。

こんな辺鄙な場所に、誰が?

まさか、お化け?


入ってきたのは、一人の男性だった。


上質な、けれど少し着崩した騎士服のような衣装。

整った顔立ちをしているが、その顔色は驚くほど悪い。

目の下には濃いクマがあり、足取りはふらついている。

まるで、三日徹夜した後の前世の私のような……。


彼は私に気づいていないのか、それとも見えていないのか。

幽霊のようにふらふらと歩き、私が綺麗にしたばかりの向かいのソファへ倒れ込もうとして――


「あ」


私が声を出す間もなく、彼はドサリとソファに突っ伏した。


「……死んだ?」


いや、規則正しい寝息が聞こえる。

どうやら、ただの睡眠不足のようだ。


私は瞬きをした。

ここは私の職場(兼、憩いの場)だ。

普通なら叩き起こして追い出すべきだろう。


けれど。

彼の寝顔があまりにも安らかで、そしてそのクマがあまりにも切実で。


(……わかるわ。その気持ち)


私も昨日まで、泥のように眠りたかったから。


私は立ち上がり、部屋の隅に避けておいたブランケットを手に取った。

そっと彼の肩にかける。


彼は「うぅ……」と小さく唸り、ブランケットに顔を埋めた。


「……起きるまで、貸してあげます」


私はもう一度自分のお茶を一口飲み、静かに本を開いた。

奇妙な同居人(?)との、静かな時間の始まりだった。


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