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婚約破棄された翌日、私は王宮の墓場に就職して定時退社を選んだ  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第19話 クロードの嫉妬

平和な日常というのは、バランスの上に成り立っている。

仕事と休息。

糖分と塩分。

そして、人間関係の距離感。


今、私の周囲ではそのバランスが崩壊の危機に瀕していた。


「師匠! この本の分類について質問がある!」

「師匠! お茶が冷めたぞ、淹れ直そうか?」

「師匠! 肩が凝っていないか? 帝国のマッサージ術を試させてくれ!」


朝から晩まで。

赤髪の皇女様こと、ヒルダ様が私の周りを衛星のように回っている。

狩猟場での一件以来、彼女の懐き度はカンストを突破してしまったらしい。

「師匠の全てを学ぶ」という名目のもと、彼女は私の影のように張り付いている。


便利ではある。

重い本は運んでくれるし、掃除もしてくれる。

話し相手としても退屈しない。


しかし、問題は別にあった。


「……エリアナ」


入り口の扉付近から、地を這うような低い声が聞こえる。

そこには、書類の束を抱えたクロード様が立っていた。

いつもの休憩時間だ。


「あ、クロード様。いらっしゃいませ」


「……ああ」


彼が私の方へ歩み寄ろうとする。

だが、その進路を赤い影が塞いだ。


「貴公か、宰相。今は取り込み中だ」


ヒルダ様が仁王立ちで立ちはだかる。


「師匠は今、編み物の図案作成という高度な精神統一を行っている最中だ。俗世の雑音で邪魔をするな」


「……私は婚約者だぞ。彼女に会いに来て何が悪い」


「婚約者だろうと関係ない! 修行の邪魔は許さん!」


バチバチバチ。

二人の視線が交錯し、火花が散るのが見える気がした。

クロード様の背後に、吹雪のような冷気が渦巻いている。

いわゆる「氷の宰相」モードだ。

いや、それよりもっと質の悪い、「嫉妬に狂った男」モードである。


(……まずいわね)


この数日、クロード様と2人きりでまともに会話もできていない。

彼が来てもヒルダ様が追い返すか、あるいは三人での会話になってしまうからだ。

彼にとって、ここは唯一の「息ができる場所」だったはず。

酸素供給を断たれた彼は、そろそろ酸欠で暴走するかもしれない。


「……ヒルダ皇女」


クロード様が、凍えるような笑みを浮かべた。


「少し、場所を空けてもらえないか? 彼女と二人で話したいことがある」


「ならぬ。密室で二人きりになれば、貴公のことだ、師匠の純潔な精神を乱すような真似をするに決まっている!」


「……ほう? 私の婚約者に触れるのに、他国の皇女の許可がいると?」


空気が重い。

図書室の室温が体感で五度は下がった。

これはいけない。

私の平穏な職場が、外交問題の火薬庫になってしまう。


私が仲裁に入ろうと口を開きかけた、その時だった。


ガシッ。


クロード様が、ヒルダ様の横をすり抜け、私の手首を掴んだ。


「えっ」


「借りていくぞ」


有無を言わせぬ力強さ。

彼は私を立たせると、そのまま奥の通路へと早足で歩き出した。


「ちょ、待て貴公! 師匠をどこへ連れて行く!」


「『閉架書庫』の点検だ! 部外者は立ち入り禁止だ!」


クロード様は振り返りもせず叫び、私を引きずって奥へ進む。

重厚な鉄の扉を開け、中に入ると、内側から鍵をかけた。


ガチャリ。

金属音が、世界を隔てた。


          ◇


閉架書庫。

そこは、貴重書や禁書が保管されている、光の届かない場所だ。

魔導ランプの薄暗い灯りだけが、無数に並ぶ本棚を照らしている。

埃と、古い紙の匂い。

そして、静寂。


「……クロード様? 点検というのは……」


私が言いかけた言葉は、遮られた。


ドンッ!!


背中に、硬い感触。

私は本棚に押し付けられていた。

そして目の前には、クロード様の顔があった。

その距離、わずか数センチ。


「……点検など、嘘に決まっているだろう」


彼の瞳は、怒っているようにも、泣き出しそうにも見えた。

整った顔が歪んでいる。

余裕のない表情。


「……限界だ」


「限界?」


「そうだ。この三日間、君とまともに話していない。触れてもいない。……私の『エリアナ成分』が枯渇して、仕事どころじゃないんだ」


彼は私の肩に額を押し付けた。

ぐりぐり、と頭を擦り付けてくる。

まるで、飼い主に甘える大型犬のようだ。


「あの筋肉皇女……。私の婚約者だぞ。私の癒やしだぞ。なぜ私が、自分の婚約者に会うために許可が必要なのだ……」


怨嗟の声が漏れている。

どうやら、相当溜まっていたらしい。

王宮では完璧な宰相を演じ、ここではヒルダ様に阻まれ。

彼には、仮面を外せる場所がどこにもなかったのだ。


私はため息をつき、そして小さく笑った。


「……子供ですか、貴方は」


「ああ、子供でいい。……君の前でくらい、駄々をこねさせてくれ」


彼は顔を上げ、私を見つめた。

その瞳は熱く、潤んでいる。


「充電させてくれ、エリアナ」


「……はいはい」


私は観念して、彼の背中に腕を回した。

彼がビクリと震え、それから強く私を抱きしめ返した。


ぎゅうぅぅ。


骨が軋むほどの強さ。

でも、痛くはない。

彼の体温が、鼓動が、直に伝わってくる。


「……んぅ……」


彼は私の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。

変態的な行為に見えるかもしれないが、彼にとっては酸素吸入なのだ。

私の匂いを嗅ぐと落ち着くらしい。

お風呂に入っておいてよかった。


「……落ち着きましたか?」


私が背中をトントンと叩くと、彼は首を振った。


「まだだ。三日分だぞ。あと三時間は必要だ」


「定時を過ぎます」


「残業代は払う。……キスで」


「いりません」


即答すると、彼は喉の奥でくっ、と笑った。

ようやく、いつもの調子が戻ってきたようだ。


彼は少しだけ体を離し、私の顔を覗き込んだ。


「……君はどうなんだ?」


「何がですか?」


「私がいなくて、寂しくなかったのか?」


面倒くさい質問だ。

正直に言えば、ヒルダ様との時間は楽しかった。

でも、ふとした瞬間に、この静かな体温が恋しくなったのも事実だ。


私は視線を逸らし、本棚の背表紙を見つめながら答えた。


「……お茶請けのお菓子が余って、困っていましたよ」


「それだけか?」


「……あと、隣が寒かったです」


精一杯のデレである。

クロード様は目を見開き、それから破顔した。

花が咲くような、無邪気な笑顔。


「……そうか。なら、温めないとな」


彼は再び私を抱きしめた。

今度は、優しく、包み込むように。


薄暗い書庫の中で、私たちはしばらくそうしていた。

言葉はいらない。

ただ、互いの存在を確認し合う時間。

私にとっても、これは必要なメンテナンスだったのかもしれない。

彼という存在が、私の日常の一部になっていることを再確認するための。


          ◇


1時間後。


私たちは身なりを整え、閉架書庫を出た。

クロード様の顔色は、驚くほど良くなっていた。

「エリアナ成分」満タンの状態だ。

これでまた数日は、宰相として激務に耐えられるだろう。


「……よし。戻るか」


彼が扉を開ける。


すると。


「む! 出てきたか!」


通路の目の前で、ヒルダ様が腕組みをして仁王立ちしていた。

その背後には、聞き耳を立てようとしていたらしい野次馬たちが、数人気絶して転がっている。


「ヒ、ヒルダ様……?」


「安心しろ師匠! このヒルダ、不純な輩が近づかぬよう、鉄壁の守りを敷いていたぞ!」


彼女は胸を張った。


「密室での不純異性交遊など、言語道断! だが、師匠の貞操は私が守り抜いた! ……まあ、中の声は少し聞こえてしまったがな」


彼女はニヤリと笑い、私とクロード様を交互に見た。


「『充電』とは、随分と可愛らしい隠語だな、宰相殿?」


クロード様の顔が一瞬で赤く染まった。

私もさすがに、顔から火が出そうだった。

聞こえていたのか。

あの甘ったれた会話が。


「……わ、忘れてくれ」


クロード様が呻くように言った。


「ふん。まあ、師匠が満更でもない顔をしているから、今回は見逃してやる」


ヒルダ様は呆れたように肩をすくめた。

そして、私に向かってウィンクをした。


「だが師匠、あまり甘やかしすぎると、男というのは図に乗るぞ。手綱捌きは厳しくいかねば」


「……肝に銘じます」


私は小さくなって答えた。


クロード様は咳払いをし、宰相の顔を取り戻した。


「……と、とにかく。邪魔をしたな。私は執務に戻る」


彼は逃げるように背を向け、去り際に私にだけ聞こえる声で囁いた。


「……今夜、続きを」


「却下します」


私が即答すると、彼は残念そうに、でも足取り軽く去っていった。

その後ろ姿を見送りながら、私はふぅ、と息を吐いた。


「……やれやれ」


ヒルダ様がニヤニヤしながら私の脇を突いてくる。

平和だ。

少し恥ずかしいけれど、この騒がしさも悪くない。


こうして、私たちの関係はまた一つ深まった。

だが、平和ボケしている場合ではない。

明日にはいよいよ、東方帝国との条約調印式が控えている。

そしてそこには、私の作った「あるマニュアル」が爆弾として投下されることになっていた。


私はまだ知らない。

私が「整理整頓」のつもりで作ったそれが、両国の歴史を変える一手になることを。

そして、私が再び「賢者」として祭り上げられる未来が、すぐそこまで迫っていることを。

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