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婚約破棄された翌日、私は王宮の墓場に就職して定時退社を選んだ  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第18話 脳筋皇女とインドア令嬢の「女子会」

食への執念は、時に不可能を可能にする。


夕闇が迫る狩猟場のベースキャンプ。

本来なら、香ばしい肉の焼ける匂いが漂っているはずの時間だ。

しかし、厨房テントの周りには、焦げ臭い匂いではなく、焦燥感が漂っていた。


「……まだですか?」


私はお腹をさすりながら、様子を見に行った。

お昼のサンドイッチから数時間。

私の胃袋は、焼肉を受け入れる準備を完了している。


そこでは、悲劇が起きていた。


「だ、駄目だ……! 刃が通らない!」

「なんて硬さだ……ミスリルのナイフが欠けたぞ!」


王宮の精鋭料理人たちが、巨大な猪の死骸を前に絶望していた。

伝説の魔獣「黒き主」。

その皮は、長年の魔力によって強化され、鋼鉄以上の強度を誇っているらしい。


「ええい、どけ! 私がやる!」


業を煮やしたヒルダ様が、大剣を構えて前に出た。


「皮が硬いなら、力任せに叩き切ればいい! 骨ごと粉砕してやる!」


「待ってください!!」


私は思わず叫んだ。

美食への冒涜だ。


「ヒルダ様、やめてください。そんなことをしたら、肉の繊維が潰れてしまいます。それに、砕けた骨片が肉に混ざって、食べた時にジャリッとするじゃないですか」


「む……。だが師匠、このままでは日が暮れてしまうぞ」


「力で解決しようとするのは、脳筋の悪い癖ですよ」


私はため息をついた。

美味しい肉を食べるためなら、私の「省エネ主義」を一時的に曲げる価値はある。


「……貸してください」


私はテーブルの上にあった、小さな果物ナイフを手に取った。

料理人たちが「そんな玩具で何をする気だ」という顔をする。


私は猪の前に立った。

山のような巨体。

剛毛に覆われた黒い皮膚。


(……要は、中身と外側を分ければいいのよね)


私は深呼吸をした。

イメージするのは、みかんの皮むき。

あるいは、値札シールを綺麗に剥がす時の感覚。


「対象、『表皮』と『皮下脂肪』の境界線。

 作用、魔力結合の剥離。

 ――《洗浄・分離クリーン・セパレート》」


私はナイフの切っ先を、猪の首元に軽く当てた。

そして、魔力を流し込む。

切るのではない。

皮膚と肉の間にある「繋がっている部分」だけを、「汚れ」として認識し、弾くのだ。


ヌルッ。


ナイフが、抵抗なく滑った。

鋼鉄のように硬かったはずの皮が、まるでジッパーを下ろすように、左右に分かれていく。


「なっ……!?」


周囲から息を呑む音が聞こえる。

私はそのまま、ナイフをスーッと尾の方まで走らせた。

力はいらない。

ただ、魔力の道筋をなぞるだけ。


ペロン。


巨大な皮が、一枚の絨毯のように綺麗に剥がれ落ちた。

下からは、美しいサシの入ったピンク色の赤身が現れる。

傷ひとつない、完璧な解体だ。


「……はい、終わりました」


私はナイフを置いた。

所要時間、三分。


「あとは普通に切れるはずです。……一番美味しいロースの部分は、厚切りでお願いしますね」


静寂。

そして、爆発するような歓声。


「す、すげぇぇぇ!!」

「魔法で解体したぞ!?」

「皮に傷ひとつない……これなら最高級の敷物になるぞ!」


料理人たちが拝み始めた。

ヒルダ様は、剥がれた皮と私を交互に見て、戦慄していた。


「……師匠。貴女は、料理の腕も達人級なのか?」


「いいえ。ただの作業です」


私は澄ました顔で答えた。

分別は大事だ。

可燃ごみと不燃ごみを分けるように、皮と肉を分けただけなのだから。


          ◇


一時間後。

キャンプファイヤーの周りで、待望の宴が始まった。


パチパチと薪が爆ぜる音。

網の上で、分厚い肉がジュウジュウと音を立てている。

脂が滴り、香ばしい煙が立ち上る。


「……美味い」


ヒルダ様が、焼けた肉を頬張って目を閉じた。


「柔らかい……。そして、脂が甘い。これが、私が倒した獲物か」


「下処理が完璧ですからね」


私も一口食べた。

口の中でとろける。

苦労して(私はナイフを滑らせただけだが)解体した甲斐があった。


ルイ陛下とクロード様は、向こうの席で騎士たちと酒盛りをしている。

こちらには私とヒルダ様、二人きりだ。


夜風が心地よい。

揺れる炎を見つめながら、ヒルダ様がぽつりと呟いた。


「……師匠」


「はい」


「私は、今日また一つ学んだ。……『柔よく剛を制す』とは、こういうことなのか」


彼女は自分の掌を見つめた。

剣だこで硬くなった、武人の手だ。


「私は今まで、強くあろうとしてきた。舐められまいと鎧を着込み、虚勢を張り、誰よりも大きな声で叫んできた。……だが」


彼女の瞳が、炎の光を反射して揺れる。


「時々、疲れるのだ。……この鎧が、重く感じることがある」


それは、初めて聞く彼女の弱音だった。

「戦場の薔薇」と恐れられる皇女の、等身大の悩み。


私は肉を飲み込み、ナプキンで口を拭いた。


「……硬い枝は、強い風が吹くと折れますよ」


「え?」


「柳のようにしなれば、折れません。……ずっと気を張っていると、いつかポキッといきます。私のように、適度にだらけて、力を抜くことも必要です」


「だらける、か。……だが、どうすればいい? 私は『抜き方』を知らん」


深刻そうな顔で悩む彼女。

根が真面目すぎるのだ。


私は魔法の鞄をごそごそと探った。

そして、一枚のシートを取り出した。


「では、形から入りましょうか」


「なんだそれは? 新しい魔導具か?」


「美容パックです。保湿成分たっぷりです」


「……パック?」


ヒルダ様がきょとんとした。


「一日中、森の日差しと風に当たって、お肌が乾燥しています。そのままにしておくと、シワになりますよ」


私は封を開け、とろりとした液体に浸ったシートを広げた。


「これを顔に貼って、一〇分間、何も考えずにぼーっとするのです。……強制的に『休む』時間を作るのです」


「な、なるほど……! 美容という名目での精神統一か!」


「まあ、そんなところです。……貼りますよ」


私は彼女の顔にシートを貼り付けた。

ひんやりとした感触に、彼女が「ひゃうっ」と可愛らしい声を上げる。


「……冷たくて、気持ちいいな」


「でしょう? 私も貼ります」


私も自分の顔にパックを貼った。

炎の明かりに照らされた、二人の白い仮面。

傍から見ればシュールな光景だろう。


でも、ヒルダ様の肩の力が、ふっと抜けるのが分かった。


「……師匠。この香り、いい匂いだな」


「ローズのエキスが入っていますから。『戦場の薔薇』にぴったりでしょう?」


「ふふっ……。戦場じゃない薔薇、か。それも悪くない」


彼女が小さく笑った。

パックのせいで表情は見えないけれど、声が弾んでいる。


「……ねえ、師匠。このパック、帝国でも買えるか?」


「王都の薬屋で売っています。帰りに大量買いして帰るといいですよ。……それと、おすすめの入浴剤も教えましょうか」


「頼む! ……実は最近、髪のパサつきも気になっていてな」


そこからは、ただの女子会だった。

国の情勢も、武力も関係ない。

肌の悩み、甘いお菓子の話、そして少しだけ、気になる殿方の話。


ヒルダ様は意外と乙女で、可愛いものが好きだった。

ただ、立場上それを表に出せなかっただけなのだ。


私たちは夜が更けるのも忘れて、パックが乾くまで話し込んだ。


ふと、視線を感じた。

振り返ると、少し離れた木の陰から、クロード様がこちらを見ていた。


彼の手には、私に持ってくるはずだったらしい焼きマシュマロの串が握られている。

しかし、私たちが盛り上がりすぎて入っていけないオーラを出していたのか、彼は寂しそうに立ち尽くしていた。


(……あ)


目が合う。

彼は拗ねたように唇を尖らせ、プイッと視線を逸らした。

そして、マシュマロを自分でパクっと食べてしまった。


嫉妬だろうか。

それとも、仲間外れにされて寂しいのだろうか。


私はパックの下で苦笑した。

可愛い人だ。

後でたっぷり、機嫌をとってあげなくては。


「……師匠? どうした?」


「いえ。……ちょっと、大きな子供が迷子になっているみたいで」


私はヒルダ様に言った。


「そろそろパックを剥がしましょうか。……素顔に戻る時間ですよ」


私たちはシートを剥がした。

夜風にさらされた肌が、しっとりと潤っている。

ヒルダ様の顔は、憑き物が落ちたように晴れやかで、美しかった。


「……ありがとう、エリアナ」


彼女は初めて、私を名前で呼んだ。

その笑顔は、どんな武勲よりも輝いて見えた。


こうして、私たちの奇妙な友情は確立された。

だが、その代償として、一人の男の独占欲に火をつけてしまったことを、私はまだ軽く見ていた。


「エリアナ成分」が枯渇した宰相が、どれほど面倒くさい生き物になるか。

明日の朝、私は思い知ることになる。

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― 新着の感想 ―
自分だって酒盛りしてたくせに。休日出勤までさせて。 自分の都合の良い時だけかまってほしいなんてわがままな。 まあエリアナは特にどうと感じているわけでもなさそうだけど。
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