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婚約破棄された翌日、私は王宮の墓場に就職して定時退社を選んだ  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第14話 決闘の種目は「不動の行」で

果たし状というのは、なぜこうも暑苦しいのだろう。


私の机の上に置かれているのは、真っ赤な封筒だ。

中には、達筆すぎる文字でこう書かれている。


『三日後の正午。王立闘技場にて待つ。

 種目は剣、槍、または素手。

 貴様の得意なもので構わん。逃亡は許さん。

 ――ヒルダ・フォン・ドラグノフ』


最後には、拇印が血のように赤いインクで押されていた。

殺る気満々である。


「……野蛮ですね」


私は手紙を端につまんで、ヒラヒラと振った。

剣? 槍? 素手?

どれを選んでも、開始三秒で私が病院送りになる未来しか見えない。

私はカイル様の暴言には耐えられても、物理的な衝撃には耐えられないのだ。


「クロード様、これ、どうにかできませんか?」


向かいでお茶を飲んでいる婚約者に助けを求める。

しかし、彼は困ったように首を横に振った。


「すまない。帝国の『決闘法』に則った正式な申し込みだ。我が国も批准している条約だから、無下には断れない」


「法律の穴はないのですか?」


「ないね。ただし……『種目は挑戦された側が指定できる』という条項はある」


「それです!」


私は身を乗り出した。

種目の指定権。

それさえあれば、勝機はある。


「私が勝てる種目……。オセロ? いいえ、ルール説明が面倒くさい。早食い? ドレスが汚れるから嫌だ」


私は腕組みをして考えた。

私が得意で、ヒルダ様が苦手そうなもの。

そして、私が「疲れない」もの。


視線が、窓辺の猫に向けられる。

猫は日向ぼっこをしながら、微動だにせず眠っている。


(……あれだ)


私はペンを執った。

返信用紙に、サラサラと文字を綴る。


『決闘、お受けいたします。

 ただし種目は、我が国に古くから伝わる精神修養の儀。

 ――「不動の行」にて』


          ◇


三日後。正午。

王立闘技場は、異様な熱気に包まれていた。


「おい、聞いたか? ヒルダ皇女とエリアナ嬢が決闘するらしいぞ」

「剣術か? 魔法戦か?」

「いや、なんか『座る』らしい……」


観客席には、暇を持て余した貴族たちや、ルイ国王陛下、そして心配そうなクロード様が座っている。

中央のリング……ではなく、砂の上に、二枚の座布団が敷かれていた。


私とヒルダ様は、向かい合って立っていた。

彼女は軽装の武闘着に身を包み、気合十分だ。

対する私は、動きやすいゆったりとしたワンピース。


「……『不動の行』と言ったな」


ヒルダ様が、鋭い視線を向けてくる。


「肉体のぶつかり合いではなく、精神の摩耗を競う。……東方の古流武術にも通じる、高尚な戦いだ。受けて立とう」


どうやら、勝手に良い方へ解釈してくれたらしい。

私は静かに頷いた。


「ルールは簡単です。あそこに座り、足を組み、背筋を伸ばす。

 そして――動かないこと。

 先に姿勢を崩した方、あるいは声を発した方の負けです」


「単純ゆえに奥が深いな。……いいだろう!」


私たちは座布団の上に座った。

私は慣れた手つきで足を組み、両手を膝の上で輪にする。

ヒルダ様も、見よう見まねで胡座をかいた。


「始め!」


審判の合図とともに、銅鑼が鳴り響く。


決闘が、始まった。


          ◇


一分経過。

まだ余裕だ。

春の日差しが暖かい。


五分経過。

ヒルダ様の額に、玉のような汗が滲んでいるのが見える。

彼女のような武人は「動く」ことには慣れていても、「止まる」ことには慣れていないのだろう。

じっとしていると、普段意識しない筋肉の強張りや、背中の痒みが気になり始めるものだ。


一〇分経過。

ヒルダ様の呼吸が荒くなってきた。

彼女は必死に目を見開き、私を睨みつけている。

その視線が痛い。

殺気で私を揺さぶろうとしているのだろうか。


だが、無駄だ。

私は既に、この世にはいなかった。


(……あ、蝶々が飛んでる)


私の意識は、半覚醒のまどろみの中にあった。


前世の記憶。

毎週月曜日の朝礼。

社長の長い長い訓示。

あるいは、終わらない進捗会議。


あの中で私が編み出した究極のスキル。

それは「目を開けたまま、脳のスイッチを切る」こと。

視覚情報は入ってくるが、処理をしない。

眼球は固定し、焦点は虚空の彼方に結ぶ。


端から見れば、それは「深い思索に耽る賢者の眼差し」に見えるらしい。


風が吹く。

心地よい。

ポカポカする。

このまま、意識を深い海へと沈めていく……。


          ◇


一方、ヒルダは戦慄していた。


(な、なんだこの女は……!)


ヒルダの全身からは、脂汗が吹き出していた。

胡座で足が痺れている。

背中を虫が這うような感覚がある。

そして何より、目の前の敵――エリアナの存在感が、異常だった。


微動だにしない。

呼吸さえしていないように見える。

その瞳は、ヒルダを見ているようで、見ていない。

まるで全てを見透かすような、あるいは全てを無に帰すような、底知れぬ「虚無」を宿している。


(これが、『不動の行』……!)


ヒルダは武人としての直感で悟った。

この女は、ただ座っているのではない。

周囲の自然と一体化し、己の存在を消しているのだ、と。


(隙がない……! 斬りかかろうとしても、雲を斬るような手応えしか想像できん!)


ヒルダの焦りが募る。

雑念が湧く。

「足が痛い」「喉が渇いた」「帰りたい」。

そんな軟弱な心が頭をもたげる。


対して、エリアナは揺るがない。

その姿は、まるで千年の時を経た大樹のよう。

あるいは、悟りを開いた高僧のよう。


(負ける……! 精神力において、私はこの女の足元にも及ばないのか……!)


ヒルダの呼吸が乱れる。

視界が揺らぐ。

エリアナの背後に、巨大な後光が見えた気がした。


「……くっ……!」


60分経過。

限界だった。

ヒルダの身体が、ガクリと揺れた。


「……まいっ、た……!」


彼女は手をつき、荒い息を吐いた。

屈辱よりも、畏敬の念が勝っていた。

完敗だ。

剣を交えずして、心で負けたのだ。


          ◇


「勝者、エリアナ嬢!」


審判の声が響き渡る。

観客席から、おぉぉ……というどよめきと拍手が起こった。


私は、その音でハッと意識を取り戻した。


(……ん? 終わった?)


目の前を見ると、ヒルダ様が肩で息をしながら、私を尊敬の眼差しで見上げていた。


「……見事だ。私の完敗だ」


「あ、はい。お疲れ様でした」


私はゆっくりと足を解いた。

少し痺れているが、前世の三時間会議に比べればどうということはない。

優雅に立ち上がり、スカートの砂を払う。


「あの……大丈夫ですか?」


私が手を差し伸べると、ヒルダ様はその手を震える手で握り返した。


「……貴様、いや、貴女は本物だ」


「はい?」


「その『無』の境地。殺気すら受け流す柳のような精神。……私が求めていた強さは、これだったのかもしれない」


彼女の目が、キラキラと輝き始めた。

嫌な予感がする。

とても、嫌な予感がする。


「師匠!」


「……えっ」


「頼む! その極意、私に教授してくれ! 私もその境地に至りたい!」


ヒルダ様は、その場で土下座の勢いで頭を下げた。

観客席のルイ陛下が「ガハハハ! 見たかクロード! 余の勝ちだ!」と笑い、クロード様が「……やはりこうなったか」と頭を抱えているのが見えた。


違う。

そうじゃない。

私はただ、寝ていただけだ。


「あの、私、別に師匠とかでは……」


「謙遜もまた美徳! 明日から図書室へ通わせてもらう! 掃除でも荷物持ちでも何でもやるから、そばに置いてくれ!」


「……掃除?」


その単語に、私の耳が反応した。

ヒルダ様は体力がある。力もある。

重い本の移動や、高いところの掃除にはうってつけの人材ではないか?


私の脳内計算機が弾き出した答えは、「採用」。


「……分かりました。では、見習いとして許可します」


「おお! 感謝する、師匠!」


ヒルダ様は満面の笑みで立ち上がった。

こうして、私は意図せずして、他国の皇女を弟子(という名の肉体労働要員)にしてしまったのだった。


帰り道。

クロード様が馬車の中で、呆れたように言った。


「……よく寝ていたな、エリアナ」


「バレていましたか?」


「君の寝顔は、世界で一番よく知っているつもりだからね。」


彼は私の頬にキスをした。


「だが、結果オーライだ。これでヒルダ皇女も、君の虜だ」


「弟子入りされただけです。……明日は重い本を運んでもらいます」


私は肩をすくめた。

まあ、平和に終わってよかった。

筋肉痛にもならなかったし、弟子もできた。


だが、私はまだ知らなかった。

この弟子が、とんでもない「文明の利器」を図書室に持ち込み、大惨事を引き起こすことを。

精神修養の次は、物理的な大掃除が待っているなんて。

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