第13話 東の国から「戦乙女」がやってきた
憂鬱とは、重力のようなものだ。
逃れようとしても、全身にのしかかってくる。
王宮の大広間。
数日前、ローストビーフに舌鼓を打ったあの場所に、私は再び立っていた。
ただし今回は、美味しい肉もふかふかのソファもない。
あるのは、張り詰めた緊張感と、足の痛くなるヒール、そして重苦しい外交儀礼だけだ。
「……帰りたい」
私は扇で口元を隠し、極小の声で呟いた。
隣に立つクロード様が、苦笑しながら小声で返す。
「我慢してくれ。あと一時間で終わる」
「一時間も? 足が棒になります。労働基準法違反で訴えますよ」
「あとでマッサージをするから。……それに、君がいないと私がヒルダ皇女に斬られかねない」
「宰相なら口先で躱してください」
私たちは、周囲に気づかれないように軽口を叩き合っていた。
本来なら、こんな場所で雑談など許されない。
だが、今日の主役である「東方帝国」の使節団が醸し出す殺伐とした空気の中では、こうでもしていないと胃が痛くなりそうだったのだ。
時刻は正午。
ラッパの音が鳴り響く。
『東方帝国第三皇女、ヒルダ・フォン・ドラグノフ殿下のご到着!』
重厚な扉が開く。
そこから現れたのは、ドレスをまとった令嬢たち……ではなく、黒鉄の鎧を纏った一団だった。
ザッ、ザッ、ザッ。
軍靴の音が、石床を規則正しく叩く。
先頭を歩くのは、燃えるような赤髪をポニーテールに結い上げた、長身の女性。
身に纏うのは深紅の軍服。腰には長剣。
その瞳は、獲物を狙う鷹のように鋭い。
「……あれが、『戦場の薔薇』ですか」
私は感心した。
噂通りの迫力だ。
薔薇というよりは、肉食植物のような危険な香りがする。
彼女――ヒルダ皇女は、玉座に座る国王陛下(ルイ義兄様)の前で足を止め、カカトを鳴らして敬礼した。
「東方帝国第三皇女、ヒルダである! 我が父帝の名代として参った!」
カーテシーなどしない。
軍人の挨拶だ。
周囲の貴族たちが「野蛮な……」と眉をひそめるが、彼女は意に介さない。
その視線は、王の隣に控えるクロード様へと向けられた。
「……貴公が、噂の『氷の宰相』クロード・ルテティアか」
彼女が大股で歩み寄ってくる。
クロード様は表情を引き締め、冷徹な仮面を被った。
「いかにも。遠路はるばるようこそ、皇女殿下」
「ふん。軟弱な文化国家の宰相と聞いていたが……なるほど、顔つきだけは悪くない。我が国の将軍たちにも劣らぬ、冷たい目をしている」
ヒルダ様はクロード様をじろじろと値踏みした。
まるで、市場で良馬を見定めるような目つきだ。
どうやら、彼女にとって男の価値は「強そうか否か」で決まるらしい。
「我が国は武を重んじる。口先だけの男には用はない。……貴公となら、剣を交える価値もありそうだが?」
挑発的な笑み。
空気が凍りつく。
歓迎式典でいきなり「斬り合い」を申し込むなど、前代未聞だ。
クロード様は動じず、淡々と返した。
「光栄ですが、私の武器はペンと書類ですので。剣技は騎士団にお任せしています」
「チッ、つまらぬ」
ヒルダ様は舌打ちした。
そして、ふとクロード様の隣にいる私に気づいた。
「……その女は?」
「私の婚約者、エリアナ・ベルンシュタインです」
クロード様の声色が、ほんの一瞬だけ柔らかくなったのを、私は聞き逃さなかった。
そして、彼が自然な動作で私の腰に手を回し、自分の方へ引き寄せたのも。
「エリアナ。……足が痛いだろう? 少し体重を預けていい」
「……殿下、皆様が見ています」
「構わない。君が辛い思いをするよりマシだ」
彼は懐からハンカチを取り出し、私の額に滲んだ汗をそっと拭った。
さらに、通りがかった給仕からグラスを受け取り、私の手に持たせる。
至れり尽くせりだ。
普段の図書室での彼そのままである。
しかし。
この光景が、赤髪の戦乙女の逆鱗に触れたようだった。
「……貴様」
低い、地を這うような声。
「それが、貴公の真の姿か?」
ヒルダ様の目が、怒りに燃えていた。
失望、軽蔑、そして苛立ち。
「『氷の宰相』と呼ばれ、冷徹に国を回すと聞いていたが……なんだその腑抜けた態度は! 女に媚び、鼻の下を伸ばし、甲斐甲斐しく世話を焼くなど……従僕か貴様は!」
「……婚約者を労るのが、私の流儀ですが」
「黙れ! 見損なったぞ! 所詮は平和ボケした国の軟弱男か!」
ヒルダ様は激昂し、そしてその怒りの矛先を、あろうことか私に向けた。
ジャキンッ!!
金属音が響く。
彼女の腰の剣が抜かれ、その切っ先が私の鼻先数センチで止まった。
「ヒッ……!」
周囲の令嬢たちが悲鳴を上げて下がる。
警備兵が動こうとする気配。
だが、それよりも早く、ヒルダ様の鋭い声が飛んだ。
「この女か! 貴公を骨抜きにし、堕落させた元凶は!」
彼女は私を睨みつけた。
殺気。
戦場を知る者特有の、肌を刺すような圧力。
「答えろ、女! 何をしてこの男をたぶらかした! 色仕掛けか? それとも魔術か!」
切っ先が震える。
もし私が一歩でも動けば、薄皮一枚くらいは切れるかもしれない距離だ。
普通の令嬢なら、腰を抜かして泣き叫ぶ場面だろう。
クロード様が私を庇おうと一歩前に出ようとした。
けれど。
私は、彼を手で制した。
そして、目の前の白刃を、じっと見つめた。
恐怖?
いいえ。
私が感じていたのは、もっと現実的な懸念だった。
「……皇女殿下」
私は静かに口を開いた。
声は震えていない。
だって、相手は人間だ。
納期前のカイル様や、暴走した魔導プリンターに比べれば、話が通じる可能性がある。
「剣を、引いていただけませんか」
「断ると言ったら?」
「困ります。……もし手元が狂って、私を傷つけでもしたら」
私は視線を落とし、床の最高級絨毯を見た。
「血が垂れます」
「……は?」
ヒルダ様が呆気に取られた顔をした。
「この絨毯は、王家の伝統品で、織り上げるのに三年かかる貴重なものです。血液の汚れはタンパク質が凝固して落ちにくいのです。《洗浄》魔法でも、繊維の奥に入り込んだシミを完全に消すのは骨が折れます」
私は真顔で説明を続けた。
「それに、もし怪我をしたら、治療のために医者を呼ばねばなりません。診断書の作成、外交問題としての謝罪文書のやり取り、賠償金の計算……。莫大な事務作業が発生します」
私はため息をついた。
「私、残業は嫌いなんです。これ以上、仕事を増やさないでいただけますか?」
会場が、静まり返った。
剣を突きつけられて、命の心配ではなく「掃除と残業」の心配をする令嬢など、前代未聞だろう。
ヒルダ様は口を半開きにして、私と剣を交互に見た。
「……き、貴様……正気か?」
「至って正気です。……あと、その剣、手入れが行き届いていませんね。脂が浮いています。あとで研ぎ直した方がよろしいかと」
私は人差し指の背で、剣の腹をツンと押して逸らした。
もちろん、切れない部分を狙って。
ヒルダ様は、まるで狐につままれたような顔で、剣を下ろした。
「……面白い」
彼女の唇が、三日月形に吊り上がった。
「命を惜しまぬ度胸か、それとも単なる馬鹿か。……いいだろう」
彼女は剣を鞘に納めた。
カチン、という音が、緊張の終わりを告げる。
「クロード・ルテティア。貴公がこの女に入れ込む理由、少しだけ分かった気がする」
彼女は私に向き直り、ニヤリと笑った。
「名は?」
「エリアナです」
「エリアナか。覚えておこう。……だが、勘違いするなよ。私はまだ、貴様を認めたわけではない」
彼女は腕を組み、宣言した。
「我が国の流儀では、力なき者は従うのみ。……貴様が本当にこの男の隣に立つ資格があるか、私が試してやる」
「……試す、とは?」
嫌な予感がする。
非常に、嫌な予感がする。
「後日、正式に『決闘』を申し込む! 逃げるなよ!」
ヒルダ様は高らかに笑い、マントを翻して去っていった。
呆然とする会場の貴族たちを残して。
私はその場にへたり込みそうになるのを、気力で耐えた。
「……クロード様」
「なんだい、エリアナ」
「決闘って、何ですか? 私、運動神経はゼロですよ?」
「比喩だと信じたいが……彼女の場合は、物理的な意味だろうな」
クロード様は遠い目をした。
「……辞退しても?」
「外交問題になる。……無理だ」
絶望である。
私はただ、定時で帰って寝たいだけなのに。
なんでわざわざ、他国の皇女と殴り合い(?)をしなければならないのか。
「……分かりました」
私は決意を固めた。
「受けて立ちましょう。ただし……種目とルールは、こちらで決めさせていただきます」
体で勝てないなら、頭を使うまで。
あるいは、私の得意分野に引きずり込むまでだ。
私はヒルダ様の背中を睨みながら、心の中で作戦を練り始めた。
とりあえず、明日の筋肉痛だけは回避しなければならない。




