第1話 断罪の翌朝、私は二度寝を選択する
「エリアナ・ベルンシュタイン! 貴様との婚約を、この場で破棄する!」
王宮の大広間。
シャンデリアが煌めく夜会の最中、王太子カイル様のよく通る声が響き渡った。
周囲の貴族たちが息を呑む気配がする。
扇で口元を隠し、冷ややかな視線を私に向けてくる令嬢たち。
あざけるような 声。
カイル様の隣には、愛らしいピンクブロンドの男爵令嬢が震えながら寄り添っている。
彼は彼女を庇うように一歩前へ出ると、私を指差して言い放った。
「貴様には、王太子妃としての向上心が欠けている! 公務の際も常に無表情で、私の提案にも『前例がない』と事務的に返すばかり。そのような冷血で退屈な女に、この国の母となる資格はない!」
向上心がない。
冷血で退屈。
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中に浮かんだ感想は、ただ一つだった。
(……あ、やっと終わった)
悲しみでも、怒りでもない。
泥のように重かった肩の荷が、すとんと落ちたような感覚。
前世の記憶が蘇ってから十数年。
「悪役令嬢」という役割と、王太子妃教育という名の過重労働に耐え抜いてきた日々。
朝は五時に起きて刺繍と語学。
昼は王太子の補佐として、彼が適当に承認した予算案の修正と根回し。
夜は夜会で派閥調整。
睡眠時間は平均三時間。
それが、今、終わったのだ。
私はゆっくりとカーテシーをした。
表情筋が動かないのは、冷血だからではない。単に、今すぐその場で寝落ちしそうなほど疲れていただけだ。
「……謹んで、お受けいたします」
私の声は、驚くほど静かに響いたらしい。
カイル様は私が泣き叫ぶとでも思っていたのか、少しだけ拍子抜けした顔をした。
「ふん……。自分の至らなさを認める殊勝さはあったようだな。下がれ!」
「はい。失礼いたします」
私は顔を上げず、踵を返した。
背後で「やはり愛のない女だ」「あんなにあっさりと」という声が聞こえる。
どうでもよかった。
彼らが何を言おうと、明日から私はもう、あの山のような決裁書類を見なくていいのだから。
◇
翌朝。
実家であるベルンシュタイン侯爵邸のリビングで、お父様が怒鳴り散らしていた。
「この恥晒しが! 王家から婚約を破棄されるなど、我が家の恥辱だ!」
飛んできた茶器が、私の足元で砕け散る。
私はそれを無表情で見つめた。
高級な絨毯に紅茶のシミが広がっていく。
もったいない。
「お前のような娘を置いておくわけにはいかん。北の修道院へ行け。そこで一生、罪を償うのだ!」
「……罪、ですか」
「そうだ! 王太子殿下の心を繋ぎ止められなかった無能の罪だ!」
無能。
その言葉に、わずかに胸が痛む。
必死で働いてきたつもりだった。
カイル様が「国民のために全世帯へ花束を配ろう」などという無謀な提案をした時も、財政破綻しないよう裏で奔走したのは私だ。
それを「夢がない」と罵られたけれど。
(でも、もういいわ)
私は心の中でため息をついた。
ここで「私が裏で国を支えていました」と主張したところで、誰も信じないだろう。
彼らにとって私は、可愛げのない、ただの道具だったのだから。
「わかりました。家を出ます」
「二度と戻ってくるな!」
お父様の言葉を背に、私は部屋を出た。
修道院?
冗談ではない。
あそこに行けば、今度は神への奉仕という名目で、朝から晩までタダ働きさせられるに決まっている。
私は自室に戻ると、用意していたボストンバッグを手に取った。
中には、ドレス数着と、母の形見ではない私が自分で買った宝石類。
そして、へそくりを貯めた小袋。
「さようなら。私の地獄」
誰にも見送られることなく、私は裏口から屋敷を出た。
◇
王都の大通りを避け、入り組んだ路地を歩く。
石畳は少し凸凹していて、履き慣れない平民風の靴の底を通して足裏に響く。
空気が、少しずつ変わっていく。
香水のきつい匂いではなく、焼きたてのパンと、埃と、生活の匂い。
下町エリア。
貴族街からは「掃き溜め」と蔑まれている場所だが、私にとってはこれ以上ない新天地だった。
まずは質屋に向かった。
目立たない路地裏の店だ。
フードを目深に被り、無駄な口は利かずに宝石とシルクのドレスをカウンターに出す。
「……いい品だねぇ。盗品かい?」
「実家の不用品処分です。足がつかないようにしてくださるなら、相場の八掛けで構いません」
「話が早くて助かるよ」
店主はニヤリと笑い、金貨の入った革袋を渡してきた。
重い。
この重みが、これからの私の自由を保証してくれる。
懐が温かくなったところで、次は住処だ。
目星はつけてある。
大通りから二本入ったところにある、「ミナのパン屋」。
一階が店舗で、二階が貸し間になっているという情報を、以前視察の資料で見たことがあった。
カラン、カラン。
ドアを開けると、香ばしいバターの香りが鼻をくすぐった。
「いらっしゃい! パンならもう売り切れだよ!」
カウンターの奥から、腕まくりをした恰幅の良い女性が出てきた。
彼女がミナさんだろう。
私はフードを少し上げ、努めて丁寧な言葉遣いを崩さないように言った。
「パンではなく、お部屋をお借りしたいのです」
ミナさんは私をじろりと見た。
上等な生地のローブ、白すぎる肌、手入れされた指先。
彼女の目が、私の「事情」を値踏みするように細められる。
「……うちは訳ありお断りじゃないけど、家賃は前払いだよ。それに、貴族のお嬢ちゃんが住めるようなふかふかのベッドはないよ?」
「構いません。家賃は三ヶ月分、先に払います」
私は金貨を三枚、カウンターに置いた。
ミナさんの目が丸くなる。相場よりかなり多いはずだ。
「……干渉はしない。朝食のパンはまけてやる。それでいいかい?」
「助かります」
「二階の突き当たりの部屋が空いてる。鍵はこれだ」
無骨な鉄の鍵を受け取る。
指先に冷たい金属の感触。
これが、私の城の鍵。
◇
部屋は六畳ほどで、家具はベッドと小さな机、古びたクローゼットだけだった。
窓枠には埃が積もり、床も少しざらついている。
貴族としての私がここを見れば、きっと悲鳴を上げていただろう。
でも、今の私には最高の空間に見えた。
「……《洗浄》」
小さく呟く。
指先から放たれた微弱な魔力が、部屋全体を撫でるように広がっていく。
埃が一瞬にして舞い上がり、窓の外へと消えていった。
カビ臭かった空気が、澄んだものに変わる。
私の唯一の特技。
攻撃魔法はからっきしだけど、この《洗浄》の精度だけは誰にも負けない自信があった。
王城の書類保管庫を掃除する時に、紙を傷つけずに埃だけを取り除く訓練を何年もやらされていたからだ。
……悲しい習性だこと。
綺麗になったベッドに、私はそのまま倒れ込んだ。
シーツは少しゴワゴワしているけれど、太陽の匂いがする。
窓の外から、子供たちの笑い声や、馬車の車輪の音が聞こえる。
時計を見る。
午後二時。
いつもなら、この時間は山積みの陳情書と格闘している頃だ。
カイル様が「疲れた」と言ってサボる分の尻拭いをしている時間だ。
でも、今は違う。
誰の許可もいらない。
誰の顔色も窺わなくていい。
明日起きる時間を気にしなくていい。
「……寝よう」
私は小さく呟いた。
泥のように眠るのではなく、幸せを噛み締めながら眠るのだ。
枕に顔を埋める。
意識が遠のく直前、私の口元は、自然と緩んでいたと思う。
おやすみなさい、私の過酷だった人生。
そして、こんにちは。私の堕落した新生活。
……まさかこの選択が、王都中を巻き込む大騒動の引き金になるとは、この時の私はまだ知らなかった。




