10、見初められて
ティーナがうとうとしていた、その時だった。
「恐れることはありません。その苦い露を払い、きみという蕾を私の手で咲かせて差し上げましょう。ティーナ。僕の可愛い仔猫」
彼はそう言って、本邸の応接間で幼いロベルティーナに跪き、白く小さな左手の薬指に大きな口を寄せた。
突然、あのいやになめらかな笑顔とバリトンが目前に現れて令嬢の背筋が凍りついた。
アランストさま。
すくみ上がった脚を動かせず、ドレスの裾を握りしめたのは昨日のことのように思い出せる。
彼の尖った鼻から伝わった熱い吐息と、やけにねっとりとした香水の香りまでも、ありありと。
十八歳上の彼と出会ったのはそれこそロベルティーナが十歳の頃、ルフェルと知り合った後のことだった。
忘れもしない。彼とは秋の終わり、冬の入り口、つまり母の死後に出会った。
ロザリンド家の嫡子であった母オルシェディアは病弱で、長くリュスティックで療養を続けていたのだが治療の甲斐なく三〇の若さでこの世をさった。
そしてある日、喪も明けぬのに花柄のドレスを着せられていると突然の来客があった。
弔問か、あるいは父の客だとばかり思っていたが、なぜかロベルティーナが呼び出された。
客間には父のほかに見慣れた弁護士と見知らぬ貴公子がいた。
少女でもわかるほど身なりの良い男だから確信があった。
キャラメルのような甘いベージュの髪と同じ色のぎらついた瞳を持つ彼は、湿っぽい微笑みを顔に貼り付けたままロベルティーナから目を離してくれなかった。
「こちらが」
「ええ」
青年貴族がぎょろりと目を光らせて問うのに父が頷く。
「一人娘のロベルティーナです」
礼を失せぬよう、令嬢がちょこんと膝を折って会釈をすると彼の笑みはより深まった。
「ティーナ、かけなさい」
言われるままに父の隣へ腰を下ろすと、目前で年上の紳士からじっとりとした視線を浴びた。
お客さまにすることではないけれど、決まりの悪さに目を逸らす。
全身を舐めるように見られているのは正直気持ちが悪い。
マントルピースに飾られた母の肖像に祈る。
早くお部屋に帰れますように。
縮こまっているロベルティーナの顔を父が覗き込む。
「いいかい、ティーナ。こちらはコシュヴァーン公爵。私たちはとても大切な話をしていた。お前の今後にも関わる大変な話だ。なに、悪いことはないよ、一つもね」
ここでティーナは母が悲しみだけでなく多額の借金を残したことを初めて知った。
母の治療費は高額でとてもアルマヴィーヴァ伯爵家の事業では賄えるものではなかったが、若きコシュヴァーン公爵アランスト・フィルコからの融資を得て続けられていたのだという。
なんとも恐ろしい話であったが、少しの納得もする。
だから弁護士が一緒にいたのね。
ロベルティーナは震える喉元に両手をあてがった。
「感謝いたします、アランスト卿」
第一印象はともあれ、この青年貴族のおかげで母との時間が少しでも長らえたのだと思えば礼は尽くさねばならない。
「ロベルティーナ嬢、顔をお揚げください。僕は人として当然のことをしたまで」
と、若き公爵はにっこりした。
「でも、安心おし、ティーナ。公爵はこの城も差し押さえることだってできたのに、そうはなさらぬと。寛大なお心を示してくださったのみならず、お前を後見してくださるともお申し出くださった」
父アルマヴィーヴァ伯爵はそう言ってロベルティーナの両肩をがっしりと掴んだ。
「不束な娘ですが、末長くよろしくお願いいたします」
***
それからのことはよく覚えていない。
確か、コシュヴァーン公爵の隣に座らされ、手をしっかりと握られていたような気がする。
暖炉の火の温かささえも遠のくように、強く。
加えて、アランストと名前で呼ぶようにと甘い声で懇願されたかもしれない。
令嬢が身も心も凍り付かせているうちに、公爵が席を立った。
やっとだ。
「ロベルティーナ嬢。あなたが望むのなら、今すぐにでも我が家へお越しいただけますよ。その時を楽しみにしています」
そして、左の薬指にくちづけをのこしたコシュヴァーン公爵が去ったのを見計らって、ロベルティーナは逃げるようにして自室に戻った。
「あら、ティーナお嬢さま」
シルザ夫人はいつもの調子で迎えてくれたはずだが、記憶にない。
なにせ心臓がぎゅっとなって息が上がっているのだ。
背筋にぞわぞわと走るものはときめきではない。
悪寒だ。
風邪を引いた時の方がまだましに思える。
そしてシルザ夫人に抱きついて事の次第を話した。
「ばあや、私たちいったいどうなってしまうのかしら。私、アランスト卿のお嫁さんにされてしまうの? 売られてしまうの?」
最後にこぼした本音と共に熱い涙が頬を転がり落ちていった。
令嬢も乙女らしくお伽話にならって王子の訪れを夢想したことはある。
恋のときめきはルフェルが味見をさせてくれた。
もっともっと彼を感じていたかった。
そう思ってしまうと、もうだめだった。
あの頃は、お母さまがご存命の時はなんて幸せだったのかしら!
ロベルティーナはなきじゃくりながら暖かい記憶をなぞった。
素晴らしい夏のリュスティック村、じいやにばあや、おじいさまとおばあさま、そしてルフェル。
あの夏に帰りたい。
それが初めて会った男に嫁がされるだなんて、夢にも思わなかった。
それが十歳とは、あまりに早い少女時代の終わりである。
諦めきれない。
ルフェル。
あなたが王子さまだったらどれだけよかったでしょう!
「ああ、お嬢さま!」
シルザ夫人はみるみるうちに青ざめて、涙を浮かべて抱きしめてくれた。
隙間時間を見つけ見つけ、悩みながら書いています。
ティーナと一緒ですね。
今週中に更新したいです。
また読んでくださいな。




