思考の放棄は許されない
私は食に興味が無い。
が、空腹は忌み嫌っている。
ので、満腹になるまでご飯を食べるし、間食でおにぎりとか平気で食べる。
空腹の何がいけないか。
まず、不快。
飢餓感とでも言うべきか、お腹がしくしくするこの感覚、耐え難い。
……まぁ恵まれている証拠なのだが、ここはそんな社会派な場所ではないので気にしない事にする。
そして思考力の低下。
これが良くない。本当に良くない。
雑になる。一食にかけるべき執念が非常に雑になる。
あなかへったー、あー、すぐたべれるのー、ここらへんでー、あー、こんびにでいーやー、的な。
良くない。一切良くない。
別にコンビニ飯を否定しているわけではない。私もコンビニ飯は時折選択肢の一つに入る事もある。
というのも、コンビニ飯、普通に美味いのである。
しかも新商品がバンバン出されて、その度に興味をそそられるものが出たりするので困ったりする。
が、そうではない。
思考力が低下した影響により、手軽に即座に購入飲食出来るコンビニ飯に走った、という事が問題なのだ。
確固たる信念を持ってコンビニ飯を選んだのではなく、何の意味もなく雑極まりない理由でコンビニ飯を選ぶという愚行。
全くもって許されざる行為である……!
私は食に興味が無い。
だが食事は必須、空腹は不快、しかし味覚は正常。
故に、一食一食にその時々の最高の量と味を求めなければならないのだ。
だからこそ、妥協など許されない。
お腹減ったからすぐ食べれるコンビニでいーやー。
断じて否。
考えるの面倒だからあの店でいーやー。
断じて否。
そうではないのだ。
コンビニで食べたいものがあるからコンビニ。
素晴らしい。
あの店にもう一回行きたいからあの店。
素晴らしい。
こうでなくてはならない。
自分が思考し、選択した結果がそれ、でなければならない。
……まぁ、空腹で、目についた知らない店にとりあえず入った、というパターンもあるが、その場合はまぁ、うーん、扱いが難しいので置いておく。
要するに、それ本当に自分が食べたかったものなの?という単純な話である。
人が健康に自由奔放に飲食出来る機会というのは、実はそう多くはないのだと聞く。病気やアレルギーや加齢など、体は様々な可能性に満ちている。
それ故、食べれるものを食べられるのは今の内だけなのだ。
なのにその機会をふいにして、雑にしてしまうなど勿体無い事この上ない。
それ故、今の自分は何腹なのかを見定め、一食一食真摯に向き合うべき、と考えている。
私は食に興味が無い。
だが、真剣に思考はしている。