エピローグ
素戔嗚ミコトの人気は、コラボ後から段違いに増えた。チャンネル登録者数は倍近くになり、動画の再生回数は物によっては10倍になった。気の早いところからは動画の切り抜きの許諾について連絡が来たし、個人系のVからコラボの打診もあった。何もかもが次々と飛び込んで来る。
コラボ恐るべし。流行るまではあらゆるものが障壁となっていたが、1度数字が着いた途端に色々なものが勝手に繋がっていく。このことは鯨ほどの小さな不安と、海みたいな莫大な期待感を俺に抱かせた。
スマートフォンが喜びを共有したように震えている。文乃からのメッセージだ。
〔そういえば高校は良いところと伺いましたが〕
〔高校生活には満足しておられますか?〕
「あったりまえよ」
自然と口角があがる。東武伊勢崎線の高架を潜りながら、つい独り言が出る。
「このまま行けば収益化できるかもなー」
そのまま行けば、登録者数10万人なんて大台も見えて来るかもしれない。そんな夢を見ながら、須佐のアパートへ向かう。週1の定例会だ。今日は色々な案件について話したいから早めに向かっている。このペースなら10時前には着くだろう。高架を越えて1分もしないうちにアパートが見えて来る。築50年と言われてもそれらしく見えるし、築80年と言われてもギリギリ信じられる木造2階建てのアパートだ。錆で腐った外階段を登る。いつも通り、抜けた段を飛ばそうと力を込めた。
「え」
何が起こったのか分からない。気が付いたら俺は、アスファルトに寝転んでいた。後頭部の猛烈な痛みと、擦り剥けて血が滲んだ腕から、自分が階段から落ちたと推察する。
気を失ったのは数秒だったのだろう。外階段の階段が1段、接続が切れてぶら下っている。ぶらさがった階段が、錆びたブランコのように悲し気に「きゃ、きゃ」と鳴いていた。妙な気分だった。
階段には俺の靴底の痕が残っていた。塵が踏みしめられている。この階段は、もうずいぶん長いこと使われていないのだろう。よく見たら、壁に「売却物件」や「危険! 立ち入り禁止!」の張り紙がペタペタと貼られている。こんなもの、記憶にない。嫌な気分だった。心の内側のやわらかい部分が、錆びた鋸で削られていく。
「須佐」
俺は階段の手すりをよじ登って、むりやり2階に上がった。廊下も酷い有様だ。塵と泥が層になっている。建物が傾いているのか、廊下の途中には緑色に濁った水溜りが出来ていた。
「須佐、姫ちゃん……?」
須佐の部屋からは、表札が抜けていた。部屋の戸口前には、前の住民の什器が適当に置かれている。壊れた座卓、古びたブラウン管テレビ、毛布……全てが薄汚れ、人の垢と、世の塵に塗れている。表札を指でこすると、分厚い塵が指についた。世界の全てのものが塵になってしまったように思われた。
部屋のノブを回すと、鍵はかかっていなかった。しかし、詰み上がった泥と塵とゴミで戸が開かない。嫌な予感はとうに確信に変わっていた。それでも確かめたかった。俺はゴミを脇によけ、靴で塵を削り、どうにか戸を開けた。数十年も外気に触れていなかった、猛烈なカビ臭さが吹き出した。
「ぼぉえ」
えづきながら、手を振って腐った空気を追い払う。埃が外に出ていくと、部屋の様子がようやくわかった。もぬけのからだ。キッチンには人型の染みがある。最後の住民のものだろうか。壁紙はどす黒く汚れている。煙草のヤニの上から、カビが覆ったのだろう。胞子が分厚く床に積もっていた。
そこには須佐も、姫ちゃんも、みんなで苦労して買ったタワー型PCも、夢も栄光も希望も未来も、何もかもがなかった。ただ終わった空間だけが残されていた。過去だけが現実の縁として埃を積んでいた。
俺はアパートの廊下の手すりにもたれて、しばらく部屋の惨状を外から眺めていた。
終わったのだ。終わっていたのだ全ては。全て夢だったのか確かめようとスマートフォンを出したが、さっき階段から落ちた時に踏んだらしく、電源が入らない。蜘蛛の巣のようにヒビが入った真っ暗な画面には、魂が抜けたような顔が写っている。
須佐は、現世の人々の信力を集めるために、VTuberをやっていた。集め終わったから、根の国とやらに帰ってしまったのかもしれない。せめて夢ではなかったと、そう信じたい。いや、違う。
「夢でもよかった」
俺は塵を噛み締めながら、苦味と共に言う。
「楽しかったよ、須佐…………ほんとうに、楽しかったんだ……」
いつかの河川敷の夜のように風が頬を撫でる。須佐との時間の中で手に入れたものが確かにあった。いつの間にか俺は汚い廊下に座り込んでいた。塵からは苔と共に、何の種かもわからない草が伸びていた。
「葦原の中つ国の草」
人は神代、土から萌ゆる草と思われていた。須佐が言った言葉を思い出して、俺はなんとなく草を持って帰ろうかと手を伸ばした。ほんのり伸びた茎に手が触れ、俺は全てを諦めた。こいつを持って帰ってどうするのだろう。ここで咲いている草を。違う場所に動かしたら死んでしまうかもしれない草。俺には汚い場所にしか思えないが、この草には良い場所かもしれないじゃないか。
「じゃあ」
また、と言い掛けて、またがないことに気付いた。
「さようなら」
俺は草に手を振って、アパートを後にした。
行きとは逆に、東武伊勢崎線を越えて千住新橋に向かう。荒川の河川敷からは、野球に興じる少年たちの声が聞こえた。
この橋は思い出深い。
配信失敗して逃げてきた須佐がいた橋だ。声をかけようとしたら逃げられたことさえ、もう良いことだったかのように思われた。
「そんな訳ないのに」
湿った縄で縛られているように、体が重たい。風が吹いた一瞬だけ、重たい水気が消え失せ、その代わりに広々とした空虚が心埋めた。橋はどこかとどこかを繋ぐものだから、誰かと誰かを繋ぐものでもあるのかもしれない。そうであれ。
そう思いながら、俺はかつての須佐のように欄干にもたれた。そしてかつての須佐のように、サイダーに口をつける。舌で弾ける泡と同じようにざりざりとした音が聞こえる。横を向くと、警察官が無線に話しかけながら走り去るところだ。警察官の向かう先には、腰にタオルを巻いただけのジジイが「オシャレ!」と叫んでいる。この町には汚いものの居場所なんてないと思っていたが、風呂場の黒カビのようにしぶくとく残っているのかもしれない。居場所を作ってやろうという考えがそもそも傲慢なのだろうか。
(なんかやんなっちゃうな……)
目を伏せる動きで、眼下の河川敷に目線をやる。河川敷には野球場やサイクリングコースがある。俺がいつだったか自転車で帰って来た時に通ったところだ。あの日を思い出す。あの日は絶望したりやる気を出したり忙しかった。ほら、今となっては思い出の道を。
――ピンクのアフロで上半身裸の変態が首に縄跳びを巻きつけられて走っている。
「もッ――ゲンカぃぃ!」
変態の後ろに、童女がいる。大正レトロを思わせる萌黄の着物を着ていた。どう見ても姫ちゃんである。
「しゃーらっぷですわぁ~」
泣き言を漏らす変態の背に、おかっぱ頭の童女がバラ鞭を打った。野猿のような悲鳴があがり、変態が加速する。すると、引き摺られて童女も加速した。童女はキックボードに乗り、ピンクアフロを動力とすることで疾走しているらしい。汚い馬車だ。大正時代には優雅であった乗り物も、令和版にアップデートした結果、下賤なものに成り果てたのだろうか。それはダウングレードではないのか。
「しゃ~か~しゃ~か~ぴょ~んぴょ~ん~」
謎の歌が、俺の意識を引き戻した。
「夢の駅近2LDK~お社にも近いっとぉきたもんだ」
須佐が自転車のベルを合いの手のように鳴らしながら、歌っている。夢か? 現実なのか?
迷う俺に須佐は「よっ」と片手をあげた。
「ニカツじゃ~ん。ちょうどよかった! 乃子引っ越した!」
「おまっ、おまえ――引っ越したの!? なんで?」
「なんでって……」
須佐が面喰ったように言う。
「前の家、ぼろくなかったかの? 格安の迷い家で、まぁまぁの確率で夜中に怪異起きるし……乃子のお社からは遠いし……正直、いたい家ではないというかの?」
「そんな場所だったの!? あそこ!?」
「なんも感じてなかったかの? 櫛灘が呪詛を行ってからは霊も集まりほんと安眠妨害。1人ラッパーおってのぉ~……あぁ、ぜったい1人で入ってはならんぞ? 前の住人もまだおったしな」
行っちゃった。ぎりぎり入ってないけど、行っちゃった。俺、けっこう危ない橋渡ってた?ほっとして気が抜けたのか、俺はつい聞いてしまった。
「てっきり、信力が集まったから配信やめるのかと?」
「はぁ? 乃子の神核まだ割れたまんまじゃぞ? これ治るまでは続けるよ?」
「えぇ~、言ってよ、言ってくんなきゃなんも分かんないんだけど……」
俺がぼやくと、そうだそうだと空が同調したように、一瞬だけ陽に雲が差した。
《やぁやぁ中つ国の草共――我こそは高天原より降り立った素戔嗚ミコトである》
みなさまご存知ですか?
今時の神様はインターネットに仮住まい、画面を通して語らうのです。
配信終了
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