ただドリンクを取りにきただけなのに……
ドリンクバーは1階に設置されていた。部屋は薄暗く使い古した感があるが、あの2人がいないだけ安らぎの園だ。
機械にコップをセットし、ウーロン茶を入れながら、魂の籠ったため息を漏らす。
「帰りてぇ~」
なんというか、須佐は、主人公なのだろう。素戔嗚って話が本当なら、神話の世界の英雄なのだろうし。紛うことなき主人公であらせられる。対して俺は、神話の世界では、口伝のうちに削られていく端役に過ぎない。
主人公というやつは、善悪に関わらず、その世界の中心だ。
喜びに震える時も。悲しみに悶える時も。怒りに打ち震える時も。 苦しみにのた打ち回る時も。
台風の目のように中心にある。
(だが、その嵐の中で、俺は?)
あらゆる感情、あらゆる登場人物が無造作に叩きつけられる主人公ではない者は。
(なにを得ることもなく、ただ疲れていくんじゃないか?)
清水の傍にあった頃は角張った石が、急流を転がる中で摩耗し擦り切れるように。〝氷雨コンコン〟というトップランカーを倒す画は見えずとも、その途中で何者にも成れず悪戯に歳をとった自分は息遣いをもったものとして感じられた。
(ただ、それでも前進したい。無駄に終わるとしても)
そう思わせるのが、須佐の怖いところかもしれない。ドリンクバーのコップ置き場に、もう1つコップが置かれた。誰であろう、ウズメだった。
彼女は変わった香水をつけていた。お茶の香りの中に、僅かに柑橘と、遅れて柔らかな広がりある甘い匂いがした。烏龍茶のボタンを押しながら、ウズメは言う。
「乃子ちゃんの2Dモデル作ってるんでしょ? 見せてよ」
「いやいや、まだ見せられるような代物では」
「出してよ。今日進捗見せる予定って聞いたよ?」
「ちょ、勘弁してくださいよ。素人の拙いもの見たってなんの得も」
俺はウズメの横を通って逃げようとした。
「――うるさいなぁ」
その手をウズメが取る。見た目に反して、ひどく、高い体温だった。力強く引っ張られ、俺は壁に押し付けられた。壁ドンの体勢になる際に、ウズメのコップは傾き、烏龍茶が床にぶちまけられた。ビタビタと汚らしい音がつづらになっている。
「芸事を上手くなってから出すなんて、人の身で叶う訳ないじゃん」
人ではない者の、物言いだった。
「老いは常に成長より速い。名人玄人芸達者、そう呼ばれる頃には半分腐っている。君は半ば腐った芸をさも御大層に振る舞うつもりか~?」
虎が獲物を狩るような目を前に、俺も口を開く。
「……自信が……」
「常世当世の生きた、生の、瑞々しい芸であるなら良いじゃない。見せてよ、見せろよ」
この人、全然喋らせてくれない。黙っていると、言いたいことだけ言われまくって終わりそうな気がする。
俺の心には錆びたアクセルが備え付けられている。踏みつけても固く動かない癖に、ある1点を越すとフルスロットルに入って戻らなくなる。
「君は――」
軋んだギアが奥に押し込まれ、ガッチリとはめ込まれた音がどこかでした。口を開けたウズメの手を握り返す。ウズメは俺より背が高い。だから、彼女の開け放たれた口中に、舌にとまる銀の玉に打ち付けるように叫ぶ。
「話を聞けェ! 俺は自信がねーんですよ!」
「そんなものは――」
「だから!」
ウズメの頭を掴んで揺さぶる。
「俺が作ったものが! 俺の心に響いてねーんですよ! 自分でも全然自信が持てねぇーんですよ! 〝コレじゃねー〟のは分かるけど、どこに〝コレ〟があるか分からなくて、困ってるんですよ! どうしよう! マジで!」
「だからよぉ~」
「〝アレ〟はまだ俺の芸じゃねーんですよ!」
今度はウズメが俺の頭を掴んで揺さぶる。
「〝ソレ〟は人に見せなきゃ、捕まえるのに時間がかかるんだよ~! 出せ! 半端でいいから、出しちまえ!」
「ふふ、恥ずかしい」
「死ね君、なんだ君……」
ウズメが俺の額にデコピンを放ち、舞うように軽やかに後ろに下がった。彼女は陽が差す場所に踏み入らぬまま、親指を上に、変わった手の形で俺を指した。
「新手は容成らずとも意義を失するものではないよ。出しちゃえ、少年」
その時、ウズメの横からぬっと抜きんでる者があった。ピンクのアフロの男だ。俺とウズメが同時に言う。
「「誰?」」
言った刹那で思い出した。コイツ、ラーメン屋でゲロ吐いたアンチコメ野郎だ。俺とウズメの声に、アフロ男は頷きを返し、ズボンの中に手を入れる。
「――出します」
「昼からシモは辞めろ~、芸として下だから下なんだぞ~、お前はもう少年でもない~」
ウズメが一瞬の間に、アフロ男に連撃を叩き込んだ。フックフックアッパーからのヤクザキック。吹き飛ぶアフロ。入れ替わりで、腰にタオルを巻いただけのお爺さんが入室してきた。
「――出してます」
(何を言ってやがる?)
俺の目は磁石に引きつけられる砂鉄のように、お爺さんの腰に向かい、その白い裾から茶色い棒が飛び出しているのを確認した。
「くそがぁ、どっから湧いてくるんだよ変態ジジイが~、だから足立区は嫌いなんだ!」
ウズメがわずかな助走を糧に重力を無視したように飛び上がり、ドロップキックをジジイに叩き込んだ。吹き飛んだジジイが、カラオケの廊下でピンクのアフロの上に落下していくのを見ながら、俺はどこか他人事にミニスカートでヤクザキックとドロップキックって豪快ですげぇな、と思っていた。
ジジイを蹴った反動で体勢を立て直したウズメが、鳥のようにふわりと着地した。彼女が汗をぬぐいながら言う。
「河岸を変えるよ、少年」
尖った顎をしゃくるウズメに、俺はサムズアップで応える。
「良くわからんが、貴様とは打ち合わねばならぬ。俺の心がそう吼えている」
俺のサムズアップは自然と床を指していた。
「小僧が~、打ち合うのはアタシじゃなくて世界なんだぞ~!」
ウズメも首を掻き切る真似で応えた。