文乃と相談
季節は太陽が最大の熱量を発する、真夏へと至った。夏休みは既に2週間が過ぎている。俺は文乃の親父、関守音谷のカレー屋でホールスタッフとしてアルバイトをしていた。インド人なのかローマ人なのかフィリピン人なのか分からない、とにかく濃い顔の音谷が、厨房で壁にもたれかかりながら、したり顔で言う。
「ボクが思うにね、勝喜クン。アイデンティティというのはね、存外脆いものでね」
「はぁ」
顔に国境の統一感がない男は、言うことが違う。
「ボクなんてほら、山形で産まれてお米大好きって言いながら育ち、海外なんて行ったこともない純日本人なワケじゃない」
「音谷店長」
「でもなんでかなぁ、インドカレー屋なんてやっていて、ずっとカレーのことを考えていると、自分は実はインド人なのではないか? と思ったりもするのだよ」
「早く窯でナンを焼いてください」
注文を受けてから既に5分は経っている。
「うん、タンドゥールね。ネパールから輸送され、異国で火にあぶられ続ける窯からキミは、名前さえ奪おうってのかい!? ……ボクはね、勝喜クン」
「はい」
話が終わらなければ、ナンを焼いてくれそうにない。しぶしぶ頷きを返した俺に、音谷は疲れ切った顔で言う。
「ボクはね、もうナンなんて焼きたくナいンだ」
心なし発言にナンの響きが散りばめられている。カレー臭さが魂に染みついているのかもしれない。カレー屋なんてやめちまえ――と言い掛けたのを、ぐっと堪える。ナンを注文したお客さんの焦れた叫びが後ろから聞こえた。
「店員さーん、お代わりのナンまだですかー?」
「ア、イマ、チャント焼イテアチュ! チョットマテネ! オイシーナンヨ!」
アイデンティティを失った濃い顔のおじさんが機械染みた動きで仕事に取り掛かった。
カレー屋のアルバイトを終え、俺はアルバイト先の梅田から北千住へと向かっていた。音谷は、昼はカレー屋、夜は居酒屋と、二店舗を同時に経営している。北千住駅の影にひしめき合って立つ飲み屋街の、折れ曲がった道の先に、ひっそりと建つアパートがある。
この1階が、音谷の経営する居酒屋であり、2階には自宅と事務所兼倉庫を構えていた。用があるのは、事務所の方だ。
音谷は趣味で音楽制作を行っており、それなりのスペックのPCを事務所に置いていた。カレー屋の店内BGMも音谷が自作したもので、文乃曰く「パパ氏の駄作」とのことだ。
古い木造の建物の内部は、夢がカビとなって降り積もったような褪せた匂いがする。2kの部屋の手前側は倉庫として使われており、スパイスやら麺やらがうずたかく積まれている。湿度管理には気が使われており、除湿器が2台稼働していた。
スパイスの香りと共に奥の部屋へ進むと、音楽機材に囲まれたタワー型ハイエンドPCが鎮座している。
「さて」
「はて~」
すぐ脇から声が聞こえてめっちゃびっくりした。高く積まれた段ボール箱に囲まれた窪地に、文乃がすっぽり収まっていた。風呂上りだからか、ラフなTシャツ姿で、黒縁の眼鏡をかけている。
確かに文乃の家は隣の部屋だし、彼女の父親の事務所だからいてもおかしくないが、まるで待ち伏せされていたようで意図が掴めない。
「進捗を確かめにきましたよ、せんぱい」
心配してくれているのだろうか。苦笑しつつ、PCの電源を入れる。
「実を言うと、煮詰まっている」
PCモニタには、モデリングアプリが表示されている。そこには俺の起こした2Dモデルが立ち絵状態である。姫ちゃんの下絵を元に――姫ちゃんは自力で液タブ等々を買い揃え、イラストの練習を続けている、凄い――俺も練習で作ってみたのだ。
白地に金糸で刺繍のある狩衣を着た、青い髪の女性が画面に映っている。目や口を開閉できるところまでは組めているのだが。
「なんか地味になっちゃう。硬いというか、華がないというか……見ていてつまらない絵なんだよな」
表示画を変える度に、2Dモデルが様々な表情、ポージングを見せてくれる。文乃が感情の読みにくい目でそれらを見つめ、「そうですねぇ」と口を開いた。口を閉じた。どう伝えるべきか、何度か開閉させ、やがて、
「っぽい、感じではあるんですけどねぇ」
と恐る恐る伝えて来た。凄く気を使ってくれたのは分かるのだが、その感じが何よりも。
「ぐさっときたわ」
初級者にはやる気があれば、なれる時代だと思う。ハウツーはネットの海を飽和させているし、普及したSNSは作り手との距離を縮めている。RPGでもそうであるように、最初はレベルが上がりやすいものだ。そして一定のレベルに達すると、成長は鈍化し、アビリティもスキルも真新しいものはなくなる。
2Dモデルには、パラメータという概念がある。アートメッシュやデフォーマの値を、項目ごとに設定することだ。機械的に割り振られたものを使っても十分だが、これを使うと表情を極端に寄せることができる。
「斬新を目指してみたのもあるんだけどさ、どう?」
左右非対称に極端な笑いを――アニメの悪役が勝ち誇る顔をイメージした――浮かべたモデルを表示させると、文乃は困ったように言う。
「あぁー、これはー……不気味の谷ですね。さながら博物館のおどろおどろしシチュエーションの蝋人形が如く」
生きている人間は左右対称ではない。筋肉の動きや、つきかたに、非対称性がある。だからそこに近付ければ面白いのではと思ったのだが――酷く生々しい、どこか嫌な顔になってしまった。文乃は難しいことを言う。
「海は海、花は花ですよ、せんぱい」
「なんつーか……ネットを見ると桁違いに上手い人がいくらでもいるじゃん。そういう人と正面からやり合えないから、むしろ斬新にしたいっていうか」
逃げという表現は、あえて避けた。だが文乃は察しつつ、やはり言葉を選んで言う。
「技巧がどうあれ〝そうあれかし〟と出力さえできれば、きっと十分だと思いますよ~」
「そうかぁ……? 自信ないけどなぁ……つーかそもそも、綺麗ってなんだっけ? 楽しいってなんだっけ?」
かち、かち、と次々にモデルを切り替えていく。習作として20体程は作ってみたのだが、果たして上達できているのか。最初の数体の方が、硬いラインは見え隠れしているが、華やかな何かを感じる。
「せんぱいは…………極端、な人ではあるので、極端な人が極端を目指すと、めちゃくちゃになるというか……しかも得手不得手を無視する傾向が……」
なんか気を使われている感じだ。文乃は人差し指と人差し指をからめて、奇怪な影絵を作りながら言う。
「誤解を恐れず言えば、せんぱいは、誰かを傷付けずにはおれない人です。誤解を深めて加えるなら、それで救われる人もいるのが、せんぱいの罪深いところですよ」
「なになに、どういうこと?」
文乃はいつも奥深いことを言う。後々意味が分かると「あいつすげぇな!」となるのだが、聞いた当初は頭の中が?マークでいっぱいだ。
「鏡は鏡、鏡に罪はあろうかという話ですよ。鏡でしか見えないものもありますし」
結局文乃は、その意味を教えてくれることはなかった。