鏡花水月
「あの~」
文乃がおずおずと手をあげる。
「櫛灘氏の絵なのですが、よく見ると、近代絵画の手法を取り入れておられませんか? 大胆な構図だったのでぱっと見〝日本画〟と決めつけてしまったのですが、背景がパースを用いて描かれているような気がするのです」
俺だけが責められる空気を文乃が上手いこと変えてくれるのではないか――そう期待して、俺はそっと文乃の後ろに隠れた。
絵を誉められた櫛灘は夜叉のような顔から一変し、ころころと笑った。
「あら。お分かりになります? 根の国って黄泉平坂の外れにあるから、時々人が迷い込むんですのよ。迷い込んだ方からお話を聞いたり、その方の得意なことを習うのがわたくしの趣味でして……絵はねぇ、定期的に得意な方がいらっしゃるから、今風にあっぷでーとできていると思っていたんですけれどねぇ」
「ここ数十年で強烈に分岐しているだけですよ。えぇと、須佐氏。イラストレーターをお探しでしたら、櫛灘氏がよろしいかと。この方、然るべき道具と期間、目的を与えれば、すぐに素晴らしい絵を描かれますよ」
「ほんとかの~」
「それから櫛灘氏」
「もぅっ、姫ちゃんでいいですわよ」
女の変わり身の速さはなんなのだろうか。卓球のピンポン玉くらいの速度で、敵味方が入れ替わっていく。俺が呆然としている間に、文乃がてきぱき話をまとめていく。
「せんぱい――勝俣勝喜は、働きますよ。あなたの大事な方の傍において損がある人間ではありません。今は路傍の石ころ、畑のジャガイモにしか見えないかもしれませんが」
「おい」
「この人はね、バカのまま走らせたら天下一品ですよ」
「おい」
「何よりワタシ氏は、この人に救われたことがあります」
バカにしてるのか、と言いかけ止まった。文乃が口にしたのは、俺が部活を辞める切っ掛けとなった事件のことだろう。自分としてはやらかしたと思っていたそれが――確かに文乃の救いとなっていたのなら、それは、良かったと、そう思った。
ただ、話の流れで、俺が須佐のVTuber活動を手伝うことが既定路線になっているのは気になった。それを察したのか、文乃が静かな鳥の目で俺を見る。
「せんぱいは、ワタシ氏の一件を気にされていたのではないですか?」
「まぁ」
「分かりますよ、せんぱい。たしかにせんぱいは、我々の期待を遙かに下回る奇天烈な行動にでました。我々としては最終回ツーアウト走者なしの状況で、抑えのピッチャーを送り出したところ、ホームランを3回連続で打たれて負けたような心境でしたが」
「そんなに……」
実際にそんな試合があったら、ピッチャーは殺されてしまうのではないだろうか。
(逆になんでみんな、あの状況で俺を送り出して勝ち確だと思っていたの?)
俺が俺をそんなに信じてないのに、信じられても困る。
「ただね、せんぱい。ワタシ氏はもういちど、アナタにいっぱい走って欲しいんですよ。……アナタが主人公しているの、好きなんですよ」
俺は頭がぐらぐらした。俺は、たぶん不器用だ。文乃の言う通り、バカのまま走る方がマシかもしれない。だから素直な気持ちを吐き出した。
「なんで、なんでだ? 須佐も文乃も、なんで失敗ばかりの俺を信じてくれるんだ?」
「童ですわねぇ。そして無粋……でも」
櫛灘が俺を見て呆れたように笑った。
「掘り出したばかりの玉なんて、こんなものかしら……許してあげる。ニカツ君も、姫ちゃん呼びでいいですわよ。これから一緒にやっていくようだし。ねぇ」
櫛灘は何かを思い出すように目を細めて、隣の須佐を見た。とうの須佐は話の推移についていけておらず、口を半端にあけて呆然としている。場にぬるい白湯みたいな空気が満ちた。文乃が白湯を混ぜるように、手で場を混ぜる。
「では、和解は成ったということで」
「えぇ。聞きたいことがあるのでしょう?」
弛緩した空気を裂くように、文乃が須佐の脱衣室の方を指す。俺の角度からは壁しか見えないが、何かあるのだろうか。
「――お二方は、どうも鏡に映らないようなのですが、どういった存在でしょうか?」
そんな馬鹿な。そう思い、俺は鏡が見える位置に移動した。須佐も、櫛灘も、鏡には映っていなかった。まさかと思い鏡を起点に動き回るが、そこには阿保面の男がいるばかりで――目の前にいるはずの須佐も、櫛灘も、やはり鏡には映っていなかった。