プロローグ1/2
俺は神様に虐められたことがある。
俺はブレーキを握ったまま、目を瞑ってうな垂れていた。
人に当たったにしては妙に軽い感触だった。
一瞬見えた感じだと、轢かれたのは痩身の少女だった。
VTuberのグッズでデコレーションされた自転車の後ろには、アスファルトに自転車のブレーキ痕が焼き付き、少女のものと思われるブレスレットの天然石の破片が散乱している。
その傍には少女が倒れ込んでいた。
梅雨前のじっとりとした空気が、気味の悪い感触と共に肌に汗を浮かべる。汗が首筋をナイフのように滑り落ちる感触で、ようやく俺は我を取り戻した。
「だい――」
じょうぶですか、と言う前に。
バッタのように少女が跳ね起きる。
頭の動きに半秒遅れて、長い髪の毛が扇のように広がる。髪は、曇り空の海のように重々しい青色。ただ、毛先に行くにつれて、晴れた日の空みたいな水色へグラデーションする。
苦しいのか、嬉しいのか、眦を歪めて少女が叫ぶ。
「――ここは、芦原の中つ国……? 脱出した!?」
空を仰ぎ見て、雲を抱きしめるように腕を広げている。刑務所から脱獄した喜びを体全体で表現しているようだった。
轢かれた割にぴんぴんしている様子を見て、俺は少し安堵する。
厄介なことにはなったが、相手は生きているし、大けがをしている様子もない。よくわからないことを喋っているのが心配というか、関わってはいけない相手に関わってしまった感はあるが、俺は不思議とその声に耳を奪われていた。
彼女の声には地獄から響いているような重々しさに、彼女の激しい感情が乗り、カラオケ採点でビブラートが乗りまくる時のような弾みがある。
(配信に向いていそうな声だな)
少女は目をバチっと見開き、輩のように辺りを見渡すと、俺を射すくめた。紅色のアイラインを引いた切れ長の瞳が視線をより強烈にし、あまりにも美しい稜線が少女の雰囲気に刃のようなという形容詞を刻みつけている。
少女はさまよう刃のように妖しく立ち上がると、ぐぁっと口角をつり上げて叫ぶ。
「なに見とんじゃ! 乃子を轢いといて舐めた真似しとるのお」
音域が異様に広く、高く人を惹きつけ、低ければ心に直接響く。荒々しいのに、ずっと聞いていたくなるような妙な魅力がある。
「おぅおぅおぅおぅ! 慰謝料もらわんとのぉ! 配信しながらPEPXできるくらいのぉ、ハイエンドPCが買えるくらい払ってもらぉかのぉ」
話の内容よりも、彼女の声に興味を引かれる。お伽噺にある、水夫達を海へ引きずり込む人魚のような恐ろしい声。だが、そう思うことさえ忘れたくなるような、騙してくれと祈りたくなるような、陽射しがプリズムの中で乱反射して幾つもの色を見せるような――
神の声だと思った。
少女は俺の胸ぐらをつかむと、見た目に似合わない膂力で俺を吊り上げた。
「ほぉ。白くてめんこい。可愛い顔しとるのぉ。稚児か?」
「やっ、やめてくだへ」
情けない声の俺の胸で、缶バッジが風鈴のように音を立てている。缶バッジには全て同じVTuberのイラストが描かれていた。
イラストの彼女は〝氷雨コンコン〟。登録者数500万人のトップVTuberだ。
俺は、秋葉原に開設された〝氷雨コンコン〟の特設ブースを見に行くところだったのだ。
少女は鎖帷子のように連なる缶バッジを見て、若干引き気味に言う。
「ブードゥー教の司祭か、お前は……」
少女は缶バッジをしげしげとみて「ちゅうか」と首を傾げつつ言う。
「これ、ウズメじゃないかの? あー、この形の時は氷雨コンコンとかなんとか……」
(いま、トップVTuberの身辺情報らしきものが聞こえたような)
俺がその先を考えることは出来なかった。
空を飛んでいたからだ。
少女は無造作に俺を放り投げた。まるで飲み終わった空き缶を捨てるように。
俺は数メートルも飛び、神社の御神木に背からたたきつけられた。
肺の空気が一気に飛び出し、身体が弛緩する。倒れそうになるが、倒れることが出来ない。神木に巻き付けられていた絵馬が俺の身体を雁字搦めにしているからだ。